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ボクと無情な一見 - あいちトリエンナーレ2019

2019年9月20日 (金) ~ 9月22日 (月) にかけて、 あいちトリエンナーレ を見て回ってきました。会場となった下記4ヶ所とも訪れました。全て見られたわけではありませんが、行った甲斐はありました。 愛知文化芸術センター 名古屋市美術館 四間道(しけみち)・円頓寺地域 豊田市駅周辺・豊田市美術館 ◆ なお、 〈表現の不自由展・その後〉 への抗議と公開中止に始まる問題が今日もニュースになっていますが、掘り下げません。という断り書きを最初に書かないと落ち着かない気持ちになることにさえ、不自由を感じます。 ◆ 何を見てきたか思い出しながら、 2017年10月20日に公開されたテーマ『情の時代 Taming Y/Our Passion』とコンセプト と読み返してみると、感情に訴える情報が多い作品が多く見られた印象です(全部は見られなかったので印象です)。それらの作品は、問題の存在を知らせて (informして) きて、ネガティブな反応――ある種の情けなさを引き起こします。逆に何が見られなかったか考えてみると、その情けなさを解消してくれるような作品が少なかったように思います。 これはひとつにバランスの問題なので、作品ではなく企画に起因するように思います。監督の津田大介さんは著書『情報戦争を生き抜く 武器としてのメディアリテラシー』(2018)で「隠されている問題を覆い隠してしまう懸念はあるが、問われているのはネガティブな報道とポジティブな報道のバランスなのだ」と書いていたので、この点は残念でした。男女比を同数にしてくれたように、これも同数にしてくれていたら、まったく違う印象になったんだろうな、と。 見られた範囲と見た順番が、もうひとつ別の問題だったかもしれません。見られた範囲の最初と最後の印象が支配的になるので。ただ、今からどうこうする気はないので、このまま自由気ままに続きます(と言い聞かせないと自由に書いている気がしません)。 ところで、偶然に気がついたのですが、"Taming"を原型"Tame"には形容詞としての用法もあり、 informal dull and disappointing 出典: tame | ロングマン現代英英辞典でのtameの意味 | LDOCE とい

双子年上お姉ちゃんの可能性に関する一考察

クリプトン・ファクトリー・メディネットの琴葉茜です。本日は、標記のタイトルで、うちが双子年上お姉ちゃんになる可能性について、お話ししたいと思います。 1. 背景 近年、うちらのマスターが、琴葉姉妹によるファクトリオの実況プレイ動画と称して、与太話をニコニコ動画に投稿し始めました。話半分に聞いたって残り半分も聞き流しときゃええんですが、その動画シリーズ 『言葉姉妹の妹はいちから大きな工場を作りたい』 の 13日目 において、〈双子のパラドックス〉に関する誤った理解に基づき、混乱した台本を書いとったことが視聴者のコメントにより判明しました。ご指摘ありがとうございました。 特に、葵の口からうちが双子年上お姉ちゃんになる可能性を否定する発言をさせていることが、うちによって強く問題視されとります。 2. 動機および問題設定 そこで本発表では、双子年上お姉ちゃんになるための理論的基盤を確認するため、次の3つの問いに答えていきます。 〈双子のパラドックス〉は何がパラドックスなのか? 浦島太郎のたとえ(いわゆるウラシマ効果)で起こるとされていることは何か? うちは名実ともにお姉ちゃんになれるのか? 3. 要約 〈双子のパラドックス〉を誤解したまま、勢いで書かかれた台本が、まちごうとりました。そりゃそうや。うちはウラシマ効果により、葵の双子年上お姉ちゃんになれるっちゅう主張になります。 マスターをおだてたりおどしたりして調べてさせたんで、文責はマスターにあるで。何かまちごうとうたら言うたってや。 4.〈双子のパラドックス〉は何がパラドックスなのか? 特殊相対性理論に従って考えると、次の矛盾が起こるんちゃうか? ってとこや。 光速に近づくほど、そこでは時間の進みが遅なる。せやから、双子の弟がが地球に残って、兄が高速移動する宇宙船で遠く行って帰ってくると、弟の方が歳取っとる。 慣性系(等速直線運動している座標系)は、すべて平等である。ちゅうことは、兄から見たら地球が離れてから戻ってくるわけやから、逆に兄の方が歳取っとる。そうならんと、平等言えんやろ? 双子なんは関係ないな。でも、何か知らんけどマスターは「双子なのに年齢が違う」ってのがパラドックスと勘違いしとったらしいで。 で、矛盾を生んどるのは、b.の「逆に兄の方が歳取っとる」や。「光速に近づく

ここ1,2ヶ月で読んだSF系の本

ここ1,2ヶ月で読んだSF系の本を振り返る。 マルドゥック・アノニマス4 〈アノニマス〉シリーズもはや4冊目。ついにウフコックが彼女の手に。事態は進行していないのに読み応えを感じたのが自分にとっては珍しい。物語を追いたいあまり、急かされるように読むことさえあるので。 マルドゥック・デーモン こちらはスピンオフ・コミック。上下巻できっちり描ききられているのがうれしい。表紙を見ての第一印象では、コミカルで軽めかな? と思いきや、小説と肩を並べる絶妙な 半熟 ( ウフコック ) 加減。 巨星 テッド・チャンが解説ということで『ブラインド・サイト』が気になっていたのだけれど、続編まで含めて計4冊(『ブラインド・サイト』、続編『エコー・プラクシア』の各上下巻)あったので、短篇集のこちらから手を出してみた。「天使」と「遊星からの物Xの回想」の印象が強い。いずれも非人類の一人称ハードSFで、「天使」がAIで「遊星からの~」が地球外生命体。人間が読める文章なんだけれど、思考の方向性が人間とは異質でぞくりとする。 遊星からの物体X 『巨星』の「「遊星からの物体Xの回想」は本映画へのオマージュ。タイトルだけは聞いたことがあって、古い映画(1982年日本公開)だったので敬遠していたけれど、いい機会なので見てみた。いわゆるデスゲームに近い状態に置かれた登場人物達のやりとりといいXの造形といい、古さを感じずに見られてびっくり。さらに「遊星からの物Xの回想」を読んだすぐあとだったので、複層的に見られたのもよかった。 筐底のエルピス 6 シリーズ6冊目。残る1つのゲート組織《I》が表舞台に出てきたり、あの人の過去が明らかになったりと、ますます話が広がって期待が膨らむばかり。早く、早く続きが読みたい……。 巨神計画 上・下 巨神がぐわーん、がしゃーんってなるかな?って期待とは裏腹に、巨神を巡るパワーゲームに引き込まれる作品だった。『巨神覚醒』、『巨神降臨』へと続いていくので、きっと持ち越しということだろう。終盤はそれを期待されてくれる展開だったし。もしそうじゃなくてもきっと楽しめるはず。本作は本作でおもしろかった。 零號琴 形容しがたい作品だった。何をどう取り上げても足りない気がする。ごった煮というには澄んでいる。バカバカしくもあれば、切々ともしている。いろいろ過剰に

メルトリリスを描く参考にバレエ関連書籍2冊

Fate/Grand Order (初出はFate/EXTRA CCC)のメルトリリスのモチーフの1つがバレエということで、描くにあたって参考になるかと思って読んでみた。 『ビジュアル版バレエ・ヒストリー』 は雑学としておもしろかった。太陽王ルイ14世が基礎の確立に大きな役割を果たしたとか、踊る王とも呼ばれていて、バレエで太陽の役を踊ったのが太陽王と呼ばれる由来とか。 バレエも時代ごとに分類されていて、メルトリリスはシルエットが釣り鐘型なのでロマンティック・バレエのイメージが近いように見える。これが確立されたのが1800年代の『ラ・シルフィード』。主演のマリー・タリオーニがまとっていたのがトゥ・シューズとロマンティック・チュチュ。今よりも丈が長く釣り鐘型でボディ部分はコルセット状とのこと。 ところで、バレエ・ダンサーと言えばドガの描いた『踊り子』を思い出すけれど、舞台袖視点なのはパリ・オペラ座が1831年に私企業になって年パスにバックヤードに入れる特典を付け始めたりしたかららしい。このころはお気に入りのダンサーに宝石送ったり、それつけて踊ってもらえたとか(アイドル商法とダブって見える)。 「控え室の子たち」を見た時に感じた窃視感 は、バックヤードからの視点だったか。 もう1冊 『ダンサーなら知っておきたい「からだ」のこと』 もざっと眺めた。姿勢がよくわかる写真があったので。 それで描けたのが これ 。彼女の攻撃モーションなので、美しくて切れがある感じにしたかったのだけれど、そんなふうに仕上げられる気がまったくしなくてラフ止まり。

クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime@国立新美術館

国立新美術館で『クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime』を見てきたが、どうもおもしろくなかった。前半でわかったつもりになって、思考が収束モードになってしまったのもいけなかったかもしれない。 場所と作品の相性が悪かったようにも思う。みどころに「日本で過去最大規模の回顧展」とあるが、それでも狭過ぎたのでは。例えばCat.41〈黄昏〉の作品リスト掲載の写真と実際の展示形態は大きく異なる。そのため、視覚的にも聴覚的にも複数作品からの情報が混ざるため気が散る。3~4の作品の視覚情報+1作品の聴覚情報が入ってきたりする。ただ、作家の意に沿わない形ではない。概要に「作家自身が、展覧会場に合わせたインスタレーションを手がけます」とある。 というのも後付けの理屈で、ものの信じ方が違ううえに好みではなかった、というのが本当のところなのかもしれない(そんなところがあるとして)。 まずネオンサインの "DEPART"が目に入るわかりやすさ (Cat.39)。最初に映像作品で足を止めさせて動揺を誘うわざとらしさ(Cat.1, 2)。 時系列に並べられたある一家族のアルバム (Cat.6)、シャッフルされた「匿名の人々」の写真(Cat.30)、自分の記憶の復元 (Cat.3, 4)。自分の過去のポートレイトのモンタージュ(Cat.33)、自分の仕事場の映像ログ(Cat.34)。 礼拝堂 (Cat.27)、隣接する死後の世界 (Cat.8)、自分の心臓音Cat.31、Cat.30の変型ともいえるモーフィングする自分の顔(Cat.35)、その向こうには天国からの死者Cat.7。その周囲に展開されるのは、死者の写真をイコンのように配したCat.9-20, 22, 23, 26, 29。聖骸布と聖母を重ね合わせたようなCat.25。 作者は、他者の記憶と交わらず、自分の過去と交わりながら、その心臓はいつまでも鼓動を続け、心象風景の中で神聖視する死者に祈りを捧げつづける。こんなイメージを抱いてしまい、その他者の入り込む余地のなさに、軽く言えば白けてしまい、重く言えば拒絶反応が出た。 自我なんて曖昧なもので、やがて死者になるもので、そこに信心もさしてないと思っているので、まったく重ならない。 以下はここまでに参照した作品のタイトル。 Ca

世界報道写真展2019@東京都写真美術館

昨年に引き続き、東京都写真美術館で世界報道写真展を見てきた。十分大きな解像度の画像を、World Press Photo FoundationのWebサイト ( 2019 Photo Contest | World Press Photo ) で見ることもできるけれど、足を運んで立ち止まって見ないと流し見してしまうので。 「世界報道写真渾天スト」の応募者数・受賞者数が書いてあるパネルに、女性が10%台から30%台になったというような記載があってひっかかる。女性問題だけでなく、男性の性的ハラスメント被害者 ( Mary F. Calvert CI | World Press Photo ) 、男性性労働者 ( Heba Heba Khamis PO | World Press Photo )、トランスジェンダー ( Jessica Dimmock POS-AJ | World Press Photo ) を扱っている写真もある場なんだから。 複雑で、微妙で、困難な問題だけれど、もしそういう問題を報道機関(本展の主催=朝日新聞)が自ら避けてしまっているのなら、その存在意義を疑ってしまう。

最近読んだマンガ

これまで1冊ずつエントリィとして起こしていたけれどキューが溢れたので横着することにした。順不同。 ダンジョン飯 7 最後のヒトコマ! ゴールデン・カムイ17 出番があればあるだけ、尾形のキャラクタが気になっていく。杉元やアシㇼパさんはなんだかんだ言って目的を果すんだろう、と高をくくってしまうから、これくらいの立ち位置の方が目が離せないのかもしれない。 ブラックジェネラルさん 5 4巻では少しシリアス入ったと思ったら、やっぱり残念だった。顔芸の振れ幅が増えているのがじわじわと笑えてくる。 メランコリア 上・下 下巻を読んだあと改めて上巻を読んで、それから行きつ戻りつしながらつながりを探しもした。品がないのに叙情的。 亜人ちゃん 7 亜人の考証に寄ってきた感じ。SF的でよい。 有害無罪玩具 (単巻) 奇想系。絵柄の癖に少し苦手を感じるけれど、話が大の好み。表題作の『有害無罪玩具』の奇妙な発想・表現が、現実感を失わさせてくれる。 やさしい新説死霊術 1, 2(完結) きららのファンタジー。2巻で終わってしまって悲しい。 まちカドまぞく 1~4 きららのファンタジー。これはまだ続いている。もうすぐ (6/27) に5巻が出る予定。

天冥の標 X 青葉よ、豊かな PART 1, 2, 3

『天冥の標 X PART 3』まで読んだ。ついにシリーズ完結。 重症を追ったアウレーリアを特に案じていたのだけれど「まさかこんなことになるなんて」と思った。同時に「これを〈こんなこと〉と感じてしまうのだな」とも。アウレーリアのことだからきっとよろしくやっていくのだろうと信じてはいるのだけれど、いまだに思い出すと複雑な気持ちになる。 もう少し心の準備ができていればよかったのかもしれない。けれどそれもどうすればできるものなのか。考えてみれば、受け止められるものが小さい人間というだけのことのようにも思えてくる。未熟か。 もうしらばくこの喪失感めいた何かを燻らせ続けるのだろう。 それでも、シリーズが完結してよかったと思う。続きを楽しみにしてきただけに、もうああやって待ち遠しさを味わうこともないのだな、と残念に思わないでもないけれど、素晴らしい終幕に辿り着けたことへの達成感もある。 千々に乱れているというか、万感の思いが去来しているというか。

アメリカン・スナイパー

『アメリカン・スナイパー』を見た。タイトルどおりアメリカ軍の狙撃手の話。実話をもとに構成されており、狙撃手のモデルはクリス・カイルという方。 同じく、狙撃兵にスポットを当てている『スターリングラード』を思い出しながら見始めたのだけれど、その描かれ方は大きく違っていた。本作の主題は、戦場における狙撃手ではなかった。狙撃手ですらないかもしれない。 本作がクローズアップするのは、戦場から帰ってきた軍人の社会復帰。冒頭は狙撃シーンから入るのだけれど、従軍と帰国の繰り返しが重なるにつれ、帰国中のシーンの比重が増してくる。 繰り返しの過程で、彼の精神にも、彼と家族との関係にも、メタレベルでは商業映画としての起伏にも、繊細な均衡が感じられて、見ていて息が苦しくなるくらい。 それだけに終わったときは半ば放心。社会も無情だ。

血界戦線 Back 2 Back 6

『血界戦線 Back 2 Back 6』を読んだ。収録されている物語は2つ。1つ目は音速猿のソニックの冒険。もう1つはライブラのサポートメンバー2人、パトリックとニーカが巻き込まれた事件の顛末が描かれる。 ソニックの冒険にはまったくセリフがなかったので、いつもよりじっくりと絵を見て動きの想像に時間をかけられたように思う。活字中毒なので、活字があるとどうしても気をとられてしまう。セリフが多いマンガだと、セリフだけ追いかけるような読み方をしてしまうくらい。描き文字は絵として見られるのだけれど。 2つ目の話では、2人の今まで見られなかった面が描かれていて、ますます魅力的に。2人の関係が温かい。それはそれとして、事件はライブラが到着した途端に解決してしまうのが、出オチみたいになってきたような。前も似た描かれ方をしていたせいか。特に今回はヴィランが冗談めいた存在だったから、そういう狙いなのかもしれない。 でも、そろそろクラウスの活躍が恋しくなってきた。

Fate/Grand Order 『惑う鳴鳳荘の考察』ネタバレありの感想というか妄想というか

Fate/Grand Orderのイベント『惑う鳴鳳荘の考察』が最後の17節まで公開されて(5/21)、小説版が発売されるまで(5/25)に書いておきたいことができたので、簡単に。ゲームシナリオについてネタバレありのプレイ後の妄想。 どこまでが問題編か明かされる前に、先を予想するにあたって次の2つを「疑えた」ので自己満足している。 (1) モリアーティが「善人役」である可能性 (2) 特異点での撮影前から、紫式部から粗筋を知らされていた可能性 (3) 既に撮影に介入している可能性 (4) 練習分も含め、撮影順とは異なる順序で映画として成立させる可能性 そのうえで何を企んでいるのか? と疑うのだけれど、あらかじめ紫式部に入れ知恵していて、紫式部が倒れたのまで彼のせいでは? と考えたのは疑い過ぎた。読み返してみると撮影中に思考を誘導していたよ、「今の映像は本編に使わなくてはいけないヨ。」とか! 「実は生きていた説が出てこない限り、私はやりたい放題なのだヨ……!」とかほとんど自白じゃないか!! ともあれ。(1)に思い当たったきっかけは、ホームズのモリアーティに対する「正しく疑えない」という評価。これを思い出すと、どの考察に投票すべきか? も、紫式部がどんな脚本をで撮ろうとしていたか? もあらかじめ問われているのでミスリードだと思えてくる。バーソロミューは途中入退場なので除外。マシュも考察こそなかったがジャンヌ案に賛同していたので除外。というわけで「モリアーティをどう疑うか?」を考えて、(1)〜(4) の可能性に辿り着いた。 そのメタ疑問を念頭にそれまでのシナリオを思い出すと、出演者の中で彼だけがカルデアでの紫式部から出演を依頼されるシーンが描かれていて、それが「難しい役」だというのが引っかかる。そこを足場に疑問に疑問を重ねていったら「彼は、カルデアにいたとき=撮影前段階から、紫式部から、「善人役」を演じることを知らされていたのでは?」という疑問に行き着いた。「善人役」を疑ったのは、「善人の振りをした悪人」よりも「悪人と思われているけれど実は善人」の方が彼のキャラクタから離れているから。そっちの方が、彼にとっては難しいと考えたくなるじゃない?(ここで大事なのは彼にとって難しいかどうか? ではなくて紫式部が彼に「難しい役」として頼みそ

オスマン帝国と現代トルコ、近代化 / オスマン帝国 500年の平和、オスマン帝国の解体、トルコ現代史

『トルコ至宝展』 を皮切りに、 『オスマン帝国 500年の平和』 、 『オスマン帝国の解体』 、 『トルコ現代史』 と現トルコを中心とした地域の歴史を駆け抜けてみた。この地域、西にヨーロッパ、北東にロシア、南東にイランとイラク、南にシリア、地中海を挟んでエジプトと、なかなか凄まじい配置。 オスマン帝国の解体にせよ、現代トルコの抱える問題にせよ、近代に西洋でイデオロギー化された「民族」の概念が大きな役割を果たしているように見える。トルコ共和国は建国の際に民族主義も掲げらけれど、そこに住んでいるのはトルコ人だけではない。クルド人もいる。 一方、オスマン帝国ではスルタン(大王)とシャリーア(イスラム法)のもとで多民族が暮らしていた。他の宗教を信仰していても、ズィンミー(被保護民)として貢納の必要こそあったものの、その宗教生活を送ることもできていた。民族の違いが今ほど大きな違いと認識されていなかったように見える。 宗教についてもトルコ建国時に『世俗主義』が掲げられている。これはいわゆる政教分離より踏み込んでいて、社会や国民の脱宗教家までをも目指していた。2008年になってようやく女性が公的な場でスカーフを身につけてもよいことになったくらい。 オスマン帝国の方がよかったとかそういう話でなくて、あまり考えたことのなかった切り口を知れたという話。政教分離されているべきかどうか?、一国家の中に複数の民族がいるから問題が生じているのか? 近代国家ってなんなんだろうね? 次はオスマン帝国とほぼ同時期に渡って存在したハプスブルク帝国について調べてみるつもり。こここも民族と宗教と近代化の問題によって解体されたようだけれど果たして。

明日はどちらか - 彼方のアストラ 1~5 (完)

『彼方のアストラ』を完結まで(1~5巻)を一気読み。いい作品を読んだ。 SFサスペンスでもあり漂流譚でもあり青春物語でもあり、謎解きも冒険も恋情も愛情も友情も信頼も笑いもある。これら全部がぎっしり詰まっている。 そのうえ読みやすい。過剰にもならず、小さくまとまりもせず、クライマックスに向けて起伏を超えて進んでいく。続きが気になってしかたがないのに、目の前のページからも何も見落としたくない。そんな贅沢なもどかしさ。 結末も鮮やか。読み終えたあとに表紙を眺めると、さらにこみ上げてくるものがある。 [1話]彼方のアストラ - 篠原健太 | 少年ジャンプ+ から1~3話を読めるので、まずはぜひお試しあれ。 ところで、2019年7月からアニメが放送予定。きっと素晴らしい出来になると期待している。どう翻訳(アダプテーション)されるか楽しみ。

咲いた咲いた - トルコ至宝展、オスマン帝国、オスマン帝国の解体

国立新美術館で開催されている(~5/20)『トルコ至宝展 チューリップの宮殿 トプカプの美』を見てきた。豪華絢爛な宝飾が施された水筒やらチューリップ用の一輪挿し(ラーレ・ダーン)やら日本との輸出された巨大な陶製の壺やら、予想だにしないものが出てきて楽しい。あと、正しくは新月だけれどそのまま表せないから三日月なのだという解説が地味に衝撃だった。 1900年代の物も展示されていて オスマン帝国の栄華を今に伝える至宝約170点が、イスタンブルのトプカプ宮殿博物館から来日! 見どころ|トルコ至宝展 トルコ文化年2019|2019.3.20(水)〜5.20(月)国立新美術館 より というわりに随分と最近に感じられて調べてみたら、オスマン帝国って第一次世界大戦に参加していて1918年に連合国に降伏するまで存在していたのね。頭にターバンを巻いているスレイマン大帝のイメージで止まっていたよ……。〈境界線上のホライゾン〉シリーズにも出ていたということはその頃の日本は戦国時代だな、くらいの雑さだよ……。 というわけで 『オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史』 を読んで、 『オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家』 を読んで、 『トルコ現代史 - オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』 まで読み始める始末。 『オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史』の「600年」に怖じ気づきかけたけれど、読み始めたらおもしろくて歴史を追いかけてしまっている。「オスマン・トルコ」と聞くし、その側面もなくはないのだけれど、5世紀に渡り存続して最大時にここまで( オスマン帝国の最大領土(1683年) )版図を広げた一大帝国がそんな単純なわけもなく。ちなみに「チューリップ時代」と呼ばれるのは、ごくごく一時期に過ぎない。アフメト3世が大王(スルタン)に在位していた1716〜1730のほんの十数年(数十年ではなくて)。 『オスマン帝国』ではイスラム法(シャリーア)の下でときどきに応じていかにプラクティカルな治政が行われていたか概観できるし、『オスマン帝国の解体』では西洋と戦うために西洋化する過程で近代国家の枠組みはじめ西洋思想も入ってきて、それがオスマン帝国の解体に与えた影響がわかる(気がする)。 トプカプ宮殿のハレム(ギャルゲーの形容によく使われるハーレムはここから)って、最近Fate/G

壊れゆく書の行方 - 書物の破壊の世界史

『書物の破壊の世界史』を読んだ。古今東西、天災/人災、意図的/偶発的、これまでに数え切れないほど繰り返されてきて、今もってなお反復され続けている書物の破壊についての本。 日本でも、 閣僚日程、11府省残さず 17年度から2年分「即日廃棄」も という記事が東京新聞に掲載されている。ほんの1週間前の2019年4月25日朝刊に。いわゆるモリカケ問題のあと、2017年12月に政府が 行政文書の管理に関するガイドライン を改訂したけれど、重要そうな情報が引き続き破棄されているように見える。 この事実を明らかにしたNPO法人「情報公開クリアリングハウス」が出しているニュースを遡ると、 1年未満保存の行政文書の廃棄凍結についての質問に「回答を控える」 大量廃棄再びか? に行き着く。これが2017年10月20日つまりガイドライン改定前。 ガイドラインの「第4 整理 3 保存期間」を読み解いてみる。この手の文書は改版を重ねるものだし参照関係が多いから、構成管理システムに入れてリンク貼って欲しい。2019年の改訂内容がよくわからない。そもそも前の版がちょっと探したくらいじゃ見つからない。保存対象とその期間を定めている(4)~(6)をかいつまんでみると、こうなる。 (4) 歴史公文書等に該当する行政文書は1年以上。 (5) 歴史子文書等に該当しなくても、意思決定過程や事務及び事業の実績の合理的な跡付けや検証に必要となる行政文書も原則1年以上。 (6) (4), (5) に当てはまらない文書は1年未満とできる。該当文書の例は次の7つ。 ① 別途、正本・原本が管理されている行政文書の写し ② 定型的・日常的な業務連絡、日程表等 ③ 出版物や公表物を編集した文書 ④ ○○省の所掌事務に関する事実関係の問合せへの応答 ⑤ 明白な誤り等の客観的な正確性の観点から利用に適さなくなった文書 ⑥ 意思決定の途中段階で作成したもので、当該意思決定に与える影響がないものと して、長期間の保存を要しないと判断される文書 ⑦ 保存期間表において、保存期間を 1 年未満と設定することが適当なものとし て、 業務単位で具体的に定められた文書 即日廃棄はやり過ぎだと断じたいけれど、『書物の破壊の世界史』を読んでいると維持・保管・公開の困難さも感じられる。というか残っている方がまれと

遅ればせながら - キャプテン・マーベル

キャプテン・マーベルを見てきた。よくまとめられたな、これ。そう思わせる情報量だった。 MCU全体の中では、S.H.I.E.L.D結成前を描く前日譚に位置する。そのため眼帯をする前のフューリーや若きコールソンも登場する。アベンジャーズ3部作に対してインフィニティー・ウォーのポストクレジット映像を受けてエンド・ゲームで登場する必然性=フューリーとの縁を描く挿話にあたる。 MCUにおける女性ヒーローの代表格なので、社会的には女性のエンパワーメントの課題を描いてもいるし、マーベルコミック隆盛の立役者であり、マーベル者の顔であり、MCU通じてのカメオでもある、スタン・リーの遺作もである。本作での彼の映像の扱いがまた泣かせてくれる。 これだけつらつらと挙げたうえで、鑑賞後まっさきに思い浮かんだのが「ミズ・マーベル強い!」なのだけれど。 だってほらこのあとエンドゲームに出るわけでしょ? あのサノスを相手どるわけでしょ? インフィニティ・ウォーでのラストで突き落とされた絶望から再起するための一筋の光として見てしまうわけで。 というわけで、明日はエンドゲームを見てきます。見ないという選択肢には目もくれていないのだけれど、期待だけでなく不安も小さくなくて、持て余す日々に蹴りをつけたいと思い始めるくらいに待ち過ぎた。

ずっとおもしろい - 錆喰いビスコ 1, 2, 3

『錆喰いビスコ』の既刊3冊を読み終えた。愉快痛快熱い熱いアクションエンタメ。1巻からスケールを加速度的に上昇させながらも、しんみりするところではしんみりさせてくれる。特にミロの振る舞いに滂沱してしまった。というかボタボタ垂れるほど泣いてしまった。 そのままの勢いで3巻まで貫き通してくれるので、これから読むという人は安心してビスコに振り回されて欲しい。矢のように時間が過ぎていく。2巻以降はさすがに心の準備ができるようになったらしく、さっき書いたほど泣きはしなかったけれど、とんでもないところにまで連れていかれてしまった。 ビスコとミロ。2人の少年らはもちろん、彼らの周りの人々もとても魅力的。ビスコの育ての親であり師匠でもあるジャビとその相棒(ビスコの相棒でもある)アクタガワのコンビがたまらなく好き。飄々とした老爺がときにその身で身軽に、ときに巨大ガニの背に立ちながら、弓を引き矢を射るわけで、かっこよくないわけがない。 巻を追うにつれアクタガワがどんどんかわいく見えてくる、史上最高にカニが素敵な小説でもあるのでカニ好きにもおすすめ。

字と地 - 文字渦

字と地を巡る壮大な法螺話だった。 ふりがなで目一杯に遊んだ「誤字」と、{空白、一、口、門、日、問、閂、間}でXOR演算をする「天書」がお気に入り。註遊びがなかったのは『烏有此譚』で済んでいるからか。 特にふりがなに関しては、再び可能性を開いてくれたと思う。最近よく目にするのだとFateシリーズの宝具名。日本語で意味を表して読みが技の名前というのは、少年漫画では珍しくない。 技の名前に限らず、「本気と書いてマジと読む」とか「宇宙」を「そら」と読ませるとか、本文とふりがなの差を、そうすることでしか現れ得なかった意味として読み解こうとすることができたりして想像が膨らむ。 あるいは、仲間内だけで通じる言い回しをさせつつ、それを読者にも通じるようにするのにふりがなが使われているのを見たことがある。この場合だと仲間に入れてもらえたような親近感が出てくる。 今でこそ文字・読み・意味が三項組で扱われているけれど、昔は同じ読みなら異なる漢字を当てたりおおらかというかいい加減だったし、同フォントでも等幅でもなく感情が書き方と一体になっていたり(フォントでもサイズが変えられたりすることあるけれど)、したのだよなあ。 もちろん、今のように辞書=メタデータが整備されている方が、時間の変化に耐えられるだろう。でも、趣味の領域ではもっと儚い、小説的でタイポグラフィー的で書的なものがあってもよいか。もっと自由でよいか。なんて思う。 あるいはそれは中〜長篇の手書きの詩なのかもしれないのだけれど。

面と箱 - ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代

国立西洋美術館に行って『ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代』を見てきた。 会場となる建物を設計したのもル・コルビュジエなので、作品の中に作品が展示されている入れ子構造がおもしろい。解説からではなかなかイメージできない、そこに立ったときのことの印象を得られるのも大きい。特徴については美術館が公開している 美術館の建物 が入手容易でわかりやすいと思う。 『コルビュジエさんのつくりたかった美術館』 も平易な絵本。しかし意外と濃くて、もしコルビュジエが今の国立西洋美術館を見たらどう思うことだろう? という批判的な視点もあったりする。 展示品の多くを占めていたのは、建物ではなく絵画に関する作品だった。サブタイトルの「ピュリスム」という言葉も、彼が画家オザンファンと興した芸術運動の呼び名。キュビスムを超えることが意図されていて、キュビスムでは感覚的に配置されている複数の視点からの像が、ピュリスムでは幾何学的に構成されている。コンセプトを共有しているだけに、差異が目立っていたように思う。ル・コルビュジエが俯瞰なのに対してオザンファンが水平だったのが、対照実験のようだった。 最後に展示されていたサヴォワ邸の模型を見て、前半に展示されていた「最初の絵」――『暖炉』の上の立方体を思い出させる。丘とサヴォワ邸のようでもあり、サヴォワ邸の屋上庭園と出入口部分ようでもある。 前後の作品や設計思想をもう少し知りたかったので 『再発見 ル・コルビュジエの絵画と建築』 も読んでみた。31歳のときに片目の視力を失っていたことと、建築は中を歩き回って様々な視点から味わうものだと言っていたことの関係が示唆されたところで、天井の低さを思い出す。自分は少し圧迫感を感じたのだけれど、片目だと遠近感が失われるので感じなかったかもしれない。 行ったのは、かれこれ一月ほども前( 3/23 )だけれど、5/19まで開催されているので興味があるのならぜひ。

堂に入る - 大聖堂の殺人 ~The Books~

『大聖堂の殺人 ~The Books~』を読んだ。これにて〈堂〉シリーズ完結。 只人の導き出した結論が描かれたので満足。探偵役として登場したと思ったら、自分が犯人だと証明しかけたり、あまつさえ宮司百合子と対立までして、シリーズを通してずっと気になるキャラクタだった。でも終わってみれば、まさに〈放浪の数学者〉だったようにも思う。 期待外れや相性の悪さを感じたことがも一回や二回ではなかったけれど、しっかりと結論まで書き切られたので今は充足した気持ち。

Do Not Cry, You Can Get Well. - 人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?

『人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?』を読んだ。10作目にあたる本書で〈W〉シリーズ完結。シリーズ1作目『彼女は一人で歩くのか? Dose She Walk Alone?』を初めて読んだのがつい先日のよう。 8作目 『血か、死か、無か? Is It Blood, Death or Null?』 以来、「ゆっくりとした思考」についで断続的に考えている。不連続な思考をしている。ほとんどの時間は考えていない。 人間は「ゆっくりとした思考」をできないだろう。マガタ・シキ博士も例外ではない。コンピュータの思考に先回りしている。最も速く思考しているとさえ言える。 もちろん彼女を除いた人間の思考はそんなに速くない。思考の加速さえできない。ソフトウェア開発についての本『ゆとりの法則』でこんな言葉が引用されている。 人間は時間的なプレッシャーをいくらかけられても、早くは考えられない ーティム・リスター そのうえ考える対象の選択すら容易ではない。集中して考えるためや嫌なことを考えないための自己啓発本が、いくらでもある。自分も苦手で、こうしてブログを書くことで、思考に区切りをつけている節がある。 人間が「ゆっくりと思考」できないもう一つの理由が忘却だと思う。 コンピュータならキャッシュからすぐに記録を読み出せなくても、メモリそれからSSD/HDDと次第にゆっくりと読み出せる。自分が持っていなければネットワークで接続されている別のコンピュータに尋ねることもできる。そして、その間ずっと待っていられる。答えが得られたら、待ち始めたその状態から思考を再開できる。 人間の思考の不連続性は、思考中に積み上げたものを崩してしまう。文字が文が文章が本が発明されてこれに対抗できるようになったけれど、どうしたって行きつ戻りつしてしまう。この問題はおそらく抽象化によってロールフォワードの形で対処されているのではないか。 今の自分が辿り着ける限界に近づいてきた感触があるのでこのあたりで。 シリーズは終わったけれど、こういうことについて自分はまだまだ考えたり考えなかったりし続けると思う。

ゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆ - ゆゆ式 10

「『ゆゆ式 10』を読んだよ」 本当にこの3人はいつも楽しそうです。 でも脳の話はちょっと怖かった。 ちゃっぽんちゃっぽんしていたら、ハラハラしますよね 「その程度……?」 「ところで、ついに10巻。おめでたいです」 「もう11年目だそうで。高校3年間がループしていたら4周目」 「どうしてループさせたんですか……」 「してみたくない?」 「あまり……飽きそうなので」 「その程度……?」

愚直・十徳・人徳 - スイス・アーミー・マン

『スイス・アーミー・マン』(原題 "Swiss Army Man")を見た。よく意味が分からないのだけれど見入ってしまう不思議な作品だった。 無人島で生き延びる望みを無くして、自ら命を絶とうとしていた主人公ハンク。彼の目の前に水死体(後にメニーと呼ぶことになる)が打ち寄せられるところから映画は始める。 その水死体がアーミーナイフのごとくなんでもできる。ハンクを背に乗せて、放屁?腐敗ガス?でジェットスキーのごとく波飛沫を上げて別の陸地へと導く。まったく意味がわからない。終始そんな感じ。 意味がわからないなりに見続けてしまったのは、ハンクとメニーの関係性の変化に惹き付けられたからだろう。振り返ってみれば、奇妙な関係の行く末がどうなるのか、見届けたかったのだと思う。

魔法(の罠に)かけられて - タタの魔法使い3

『タタの魔法使い 3』を読んだ。2、3巻が上下巻構成でこれにてシリーズ完結。 ドキュメンタリー形式で描かれる、特殊な環境=異世界での群像劇。先が気になってつい一気に読み進めてしまった。 自分の感覚では、後書きにあった最初の構想のまま、単巻でスパッと終わっていた方が美しかったとは思う。 シチュエーションと形式を踏襲してリブートしたりしないかな。

escape from - POLAR

Netflix映画 "POLAR" を見た。引退間近の雇われ殺し屋が、退職金を払いたくない雇い主に狙われる話。同名のアメコミが原作。 こんな風に紹介するとコミカルなアクション映画のようにも思えるけれど、主人公は本当に引退したがっていて、でも後悔を抱えていて、引退後の生活を模索していて、意外にもしっとりとした印象が強い。"John Wick"に近いかも。 マッツ・ミケルセン演じる主役のダンカン・ヴィズラが渋くて素敵。

un-build/anti-build - インポッシブル・アーキテクチャ

埼玉県立近代美術館に行って、『インポッシブル・アーキテクチャ』を見てきた。テーマはアンビルド=建築されなかった建物。 当時の技術的では実現不能な思想先行の設計や、実現性を度外視して描かれた建築家の空想が楽しめる。中には実現しなくてよかったと思う構想も。 建築の分野でもロシア構成主義は理想主義的だった。ここでもマレーヴィチの作品が出てきて[1]驚く。ロシア構成主義にはザハ・ハディドも影響を受けていて、卒業制作タイトルにも彼の名前が引かれているそうだ。 実現性を度外視したものでは、ハンス・ホラインの航空母艦都市が〈境界線上のホライゾン〉シリーズの“武蔵”だったのと、レム・コールハースの図書館設計で取られたヴォイド戦略の地と図の反転させたような発想がおもしろかった。後者は著作『S, M, L, XL』に詳しい模様。気になる。 房総半島を原爆で吹き飛ばして東京湾を埋め立てるなどという当時の偉い人の放言は、実現しなくて心底よかった。わざわざ構想まで作って付き合わなくてもよかったのにと思う。 実現性があった設計の中では、鋭角部分がある土地に建てるビルのコンペティション案が好みだった。キャプションを見ると「レス・イズ・モア」や「神は細部に宿る」の箴言が有名なミース・ファン・デル・ローエの設計。これらの言葉に影響を受けているので、嗜好が近くなっているかもしれない。だとしたら嬉しいこと。 技術的にはできても現実的には使えなさそうなのがフレキシブルな作り。いつどこにどれを配置するかどうやって決めるのか、誰が移動コストを負担するのか。それに可動部に負担が集まるから、壊れやすくなり保全コストも跳ね上がるのではないか? 夢がないことを考える。『伽藍とバザール』における伽藍のデメリットが目立つばかりにならないか。 最後の部屋には「建築可能であった」プロジェクトとして、ザハ・ハディドによる新国立競技場の設計が展示されている。ここだけは毛色が異なり、構想や模型だけでなく詳細な設計図書まで展示されている。そこまで具体的に詰められていたということ。にも関わらず実現しなかったと知ると、虚無感が押し寄せてくる。 気持ちも話題も切り替えよう。これらアンビルドを見ていたら、Netflixドキュメンタリー『世界の摩訶不思議な家』を思い出した。この番組では本当に建っちゃってるおもし

たとえ日の下水の中 - アクアマン

『アクアマン』(原題 "Aquaman") を見てきた。『ジャスティス・リーグ』で登場したアクアマンが単独で主役を張る作品。 前評判に違わず、それどころか期待以上にアクションが連続していた。冒頭でアクアマンの両親がやむなく離れるまでにアクションシーンが挿入されている時点で、間違いなく全編アクションまみれにするつもりだと確信できたくらい。 まず、水中で飛ぶように戦うのが格好良かった。騎馬に相当するのがタツノオトシゴなのは英名がSea Horse (海の馬) だからか。それからイタリアの明るい日差しの下で建物の上を飛び回りながら戦うシーン。何百メートルも隔てた戦いがワンカットかのように編集されていたのには驚かされた(まさかワンカットじゃないよね?)。あと甲殻類。 細かいところでは、アクアマンだけが出てきてバットマンやスーパーマンは出てこない必然性があるのもよかった。水中の戦いだから手を出せないという理由もあろうが、水中から地上への侵攻を止めるために戦っているので地上から戦力が出た時点でその一戦では勝てても、かえって侵攻の機運が高まりかねない。 アクションを心置きなくお腹一杯たのしめるエンターテインメントだった。

可能性を考えるのが早すぎる - 井上真偽作品5冊

井上 真偽 ( まぎ ) の、『探偵が早すぎる』(上・下)、『その可能性はすでに考えた』『聖女の毒杯 〃』、『恋と禁忌の 述語論理 ( プレディケット ) 』を読んだ。つまりすべての単行本を読んだ。 上記は自分が読んだ順。出版された順に並べると、『恋と禁忌の述語論理』、『その可能性はすでに考えた』、『聖女の毒杯 〃』、『探偵が早すぎる』。偶然だけれどおおむね出版順を遡っていて、結果的には歯ごたえが強くなる方へと進むことになった。 いずれもミステリーで、探偵役のアクの強さが群を抜いている。JDC[1]メンバにも引けを取らない。それでいて解決はあれほど突飛ではない。 『探偵が早すぎる』では事件は起こらない。正確にいうと起こるのだけれど、犯人の思惑どおりの結果にはまったくならない。なぜなら、被害が出る前に探偵役が犯人(未遂犯)を見つけて解決してしまうからだ。だから「探偵が早過ぎる」というわけ。こういう探偵の存在について考えたことはあるのだけれど、こんな風におもしろい小説にできるなんて。感動すら覚える。 『その可能性はすでに考えた』では、探偵は事件を(一般的な視点では)迷宮入りに導こうとする。探偵の視点では、奇跡の存在を証明しようとしている。ある事象が発生し得るあらゆる可能性が否定されたら、その事象は奇跡と呼ぶ他ないという。おおよそミステリィって一般的には不可能に見える事象が発生した過程に理路をつけるものだけれど、この作品の探偵は反対に不可能性を追い求めている。それはいわゆる悪魔の証明であり、どんなトンデモでも可能性があれば奇跡とは呼べなくなるわけで、それはもう沢山の可能性が披露される。〈境界線上のホライゾン〉シリーズの文系の相対を思い出す(ただし、この作品では戦争になったりはしない)。 最後に読んだ『恋と禁忌の述語論理』が著者のデビュー作。一階述語論理とか二階述語論理とかの述語論理。数理論理学の一分野であるところの述語論理。本作の探偵役は「論理的に話したり」しない。論理で話す。おもしろかったけれど、既刊の中でこれがもっとも敷居が高い。一応の説明はあるものの、((予備知識がない)∧¬(活字中毒))⇒(読み切れなかったのではないか)。でも探偵役の女性が素敵だったので読み切れたようにも思う。副読本として『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』なんかいいか

大きな絵 - 竜のグリオールに絵を描いた男

『竜のグリオールに絵を描いた男』を読んだ。 タイトルに惹かれて読み始めたら短篇集で、冒頭に表題作が配置されていたので、2篇目以降は何の考えもなしに読むことになった。以前はそれが当たり前だったのに、Twitterなどからプッシュされてくる前情報にすっかり慣されてしまったらしい。困惑しつつ読み進めることになった。 ただ、少なくとも本作の場合、事前知識があったとしてもきっと困惑しただろうな、と思う。どの作品も自分の知る物語の型に当てはまらない。それなのに、吸い寄せられるように読み進めてしまった。グリオールの影響かも知れない。 ちなみにこの本に収録されているのは4篇だけれど、あとがきによると〈竜のグリオール〉シリーズは7篇あるとのこと。この4篇だけで終わった感じはしなかったけれど、実は続く感じもしなかった。いったいどんな話が残っているんだろう。

O'clock rock - ヴィジランテ 6

『ヴィジランテ 6』を読んだ。 ジャンプ+の連載 も追っているけれど、続けて読んでようやく気がつくことがあるので、また違った気分で読める。それに、裏話も楽しみ。 コーイチの必殺技が 敵 ( ヴィラン ) を怒らせる程度というのが、 自警団 ( ヴィジランテ ) らしくてよい。他人に向けてさえいなくても公道で個性を使っている時点で厳密にはアウトだけれど。 それから師匠。家族のことがあるから腰を落ち着けるのかと思ったら、そんなところにまで出張って! まだ首を突っ込む理由って何だろう? と思っていたら、なるほどそういうことか。1巻で大いに笑ったアレがここで意味を持ってきた。スピンオフだけれどぐいぐい来る。 本編ともども続きが楽しみでならない。

モノマスイッチ - 僕のヒーローアカデミア 21, 22

『僕のヒーローアカデミア 21』、『〃 22』を読んだ。21巻で始まったA組B組対抗戦が、まだまだ続くよ。22巻でも終わらないよ。 新登場のB組生徒が多くて顔と名前と個性が覚えきれないよ! というわけで、22巻を読んでいる途中で21巻の「No.194 寒空!雄英高校!」に立ち返った。 今更ながらデクと物間の個性の共通点に気がつく。デクは無個性だけれど「オール・フォー・ワン」の力を受け継いだ。物間は個性が「コピー」だから効力をもって発揮される力は自分のものではない。 物間はデクの個性の正体を知らないはずだから、デク個人に対するコンプレックスはなくて22巻で心操に語った理由でA組に突っかかっているのだろうけれど。 そういうことを考えていると彼の見方が随分と変わってきた。最初は鬱陶しいだけかと思っていた、ごめん。

うらやま - 裏世界ピクニック3 ヤマノケハイ

『裏世界ピクニック3 ヤマノケハイ』を読んだ。 裏世界の存在を前にした空魚の、異質なものへの恐怖感が少し薄れてきて寂しい。ホラー要素よりアクション要素が目立つ。物語が進むうえでの必然だと頭では了解しているものの、心情的にはなかなか。 とはいえ、同時に空魚の思った以上のタフさが明らかになった巻でもあった。だんだんと冴月に接近しつつあるから、クライマックスへの期待は高まる。 これまで短篇を1篇ずつ読んできた本シリーズだけれど、ここからは文庫にまとまったタイミングで読むことにした。文庫版書き下ろしの心配をしなくてよくなるので。

どうしてそんなに - 六人の赤ずきんは今夜食べられる

『六人の赤ずきんは今夜食べられる』を読んだ。人狼ゲームを連想したけれど、童話『赤ずきん』をモチーフにしたダークファンタジーだった。 童話ではおばあさんのフリをしていたオオカミが、この物語では6人の赤ずきんに紛れ込んでいる。 そのしつこさ。執念深さ。執拗さ。姿を表して謎が明らかになると、より恐ろしくなるというオマケ付き! しっぽの先まであんこギッシリの鯛焼きのように最後まで楽しめる。 オオカミだけでなく、赤ずきんイチゴずきんやリンゴずきんと呼ばれて固有名詞が排されているところも、雰囲気が出ていてよかった。 物語は主人公の一人称視点で進むけれど、三人称視点でずきんみんなのパートがある形でもおもしろそう。書くの大変そうだけれど。

inbox - 霊感少女は箱の中 1~3

『霊感少女は箱の中』の1~3巻を読んだ。ホラーだよ、ホラー。怖いよー。イメージ的にもメンタル的にも抉ってくるよー。1、2巻はそれぞれ話が完結しているけれど、3巻は続くから生殺しだよ……。 シリーズもののオカルトは危険だ。続いていたら怖いものみたさで次から次へと読んでしまうし、続きがまだなくても解決を見ないままの宙づりが辛い。 毒をもって毒を制すというか、霊障に霊障をぶつけているので、シリーズの行く末も気になる。人を呪わば穴二つというけれど、呪う人を呪いで制すと穴がいくつあっても足りないんじゃないだろうか。

あきない - 廃墟の美術史@松濤美術館

松濤美術館に行って『終わりのむこうへ:廃墟の美術史』 を見てきた。廃墟に吸い寄せられるように。 前半で展示されていた古典絵画に描かれている廃墟は過去の栄華を表しているという趣旨の解説で、見え方が変わった。現在の視点で考えると、古典絵画なんて廃墟の仲間だけれど、当時の視点ではそれが絵画が最新でそこに描かれている廃墟は過去の遺物だ。 きっと当時は今より廃墟が身近にあったんだろうな、と想像する。今のようにさっさと取り壊されたりも、あるいは遺産として保護されたりもしていなかったんだろうな、と。 でもそれは過去の話で、今や廃墟はやがて行く末だ。そんな風に思う人は一定数いるらしい。後半では最近の作品が展示されていて、廃墟と化した渋谷を描いた作品なんかもあった。 どうして火に入る夏の虫のように廃墟に惹かれるのだろう。生来の悲観的なものの見方のせいか、ディストピアSFのせいか、『平家物語』のせいか。 春の夜の夢の寝言。まだ冬だけれど。 なお開催が1/31までなので。もう終わってしまっている。

ワイヤレス - イップマン 序章、 葉問、 継承

『イップマン 序章』、『〃 葉問』、『〃 継承』の3本を見た。ドニー・イェン主演のカンフー映画。実在の武術家・葉問を演じている。 緊張感をもって見られたのは序章。これが一番よかった。日中戦争が絡んでいるので、複雑かつ重たい気持ちにはなるが。 葉問は、最後の戦いがスッキリしない。相手のボクサーはただ凶暴なだけだし、周囲も彼が不利と見るやイップマンに制約を課す始末。 継承はやや話が渋滞気味だった印象。地上げ屋、ボクシングの名誉回復、よく似た境遇の男との戦い。そして、イップマンにとっての武術――詠春拳と家族。 と脚本に好みの差はあれど、どの作品のアクションシーンも見応え十分。それを目当てに見たわけで、そういう基準ではどれもよかった。CGやワイヤーではないアクションを見たかったので満足(ゼロではなかったけれど)。

いっせっせーの - 数字を一つ思い浮かべろ

『数字を一つ思い浮かべろ』を読んだ。 主人公デイヴ・ガーニーは元警察。すでに引退して妻と二人で暮らしている。事件は彼のところに大学時代のクラスメイトから手紙が届くところから始まる。自分なら不意に届いた知人からの手紙なんて気持ち悪くて捨ててしまいそうだけれど、彼は事件の相談とあっては捨て置けず、わざわざクラスメイトを訪れる。 こうして引退してからも自ら犯罪捜査に関わっていくデイヴを、もちろん妻マデリンは快く思わない。心配する様子を見せたり、苛立ちを露わにしたり、放っておいたり、と落ち着かない。デイヴ自身もときに自問して自己疑念に囚われたりする。それでいて、あるいはそれだからこそ、捜査に集中する。捜査以外を視界から外してしまう。 似たような面倒臭さには自分もよく悩まされて、そのうえいつまでも悩んでいていいのだろうか? とメタ悩みまで発生させてしまうくらいなのだけれど、デイヴの術会を読んでいると、諦観だか達観だかの念が湧く。引退後の警察官まで悩んでいるのだから、つきあい続けることになるのだろう、と。 ミステリィを読んだにしては珍しく、謎解き要素ではなくガーニー夫妻の関係に目が向いたのは、数字当てのトリックの答えを知っていたから。ネタバレしていたわけではなく、数学か統計の読み物で読んでいた。それじゃないといいなと思っていたのでそこが残念。 こういうこともあるだろう。それでも楽しめたのは前述のとおり。 ところで本作といい、『ミスター・メルセデス』といい、〈バック・シャッツ〉シリーズといい、たまに翻訳ミステリィを読むと主人公が引退後の警官というのは偶然なんだろうか。それともアメリカでは読者層の高齢化が進んでいるのだろうか。 文化庁の『平成 25 年度「国語に関する世論調査」の結果の概要』 を見ると、日本では60代以上の年齢層は60代未満より一ヶ月に1冊も本を読まない比率が多いようだけれど(視力の衰えもあるか)。 さらに余談。数字当てというと「いっせっせーの」を思い出す。いろいろとかけ声のバリエーションがあって、調べるとおもしろい。中にはまじめに答えずネタじゃないかというようなレベルのものもあったが。自分が実際にやったことがあるのだと、「んー」がタイミングの駆け引きも発生しておもしろかった。ものっそい短く言って指をあげさせないのを狙ったり。 脱線が

戦う泡沫 - 終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか? #06, #07

『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06, #07を読んだ。 『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06と#07を読んだ。#06でフェオドールの物語がひとまずは決着して、#07から第二部開始といったところ。 これまでの彼の戦いが通過点のように見えてしまったのがちょっと悲しい。もしも#07がシリーズ3作目の#01になっていたら、もう少し違って見えたかもしれない。物語の外にある枠組みが与える影響は、決して小さくない。 一方で純粋に物語に抱く感情なんてあるんだろうか? とも思う。浮かび上がる感情には周辺情報が引き起こす雑念が内包されていて、やがて損なわれてしまうことになっているのかもしれない。黄金妖精 (レプラカーン) の人格が前世のそれに侵食されていくように。

垂直統合 - ψの悲劇

『 ψ ( プサイ ) の悲劇』を読んだ。森博嗣による〈Gシリーズ〉の5冊目であり、『 χ ( カイ ) の悲劇 』に続く後期三部作の第二部。 本書の背表紙で〈Gシリーズ〉は「 失われた輪 ( ミッシングリンク ) をつなぐ」と形容されているせいか、内容=輪そのものよりも、位置づけ=どこから失われたのかの方が気になる。 〈Gシリーズ〉を締め括るのが『 ω ( オメガ ) の悲劇』というタイトルなので、素直に〈Wシリーズ〉につながるんだろうと思っている。ギリシャ文字のωが対応するアルファベットはWだ。〈Wシリーズ〉で描写されているウォーカロンの要素技術 が形になりつつあることも読み取れるし。 その〈Wシリーズ〉は『人間のように泣いたのか?』で完結している。こちらでの真賀田四季博士の状態を考えると〈Gシリーズ〉で彼女はなすべきを終えるのだろう。終えたところだということが示唆される程度に留まるかもしれないけれど、どのような縦糸が通ることになるのか。 ところで 浮遊工作室 (近況報告) によると、『ωの悲劇』は2020年。今年は新シリーズが始まるらしい。どんな物語が始まるのかな。

bet time story - 賭博師は祈らない1~5

『賭博師は祈らない』の1~5巻を読んだ。これにて完結。5巻が発売されると知って積ん読をようやく読み始めたら、すっかり引き込まれて発売を待たずして全巻既読に[1]。 電撃文庫から発売されているけれど、ライトノベルに留まらない一般性を感じる。テンプレっぽいラノベ(異世界、能力バトル、ハーレム)は受け付けない、逆それらしか受け付けない、どちらの人にもお勧めできる(のでこうしている)。 まず舞台設定。十八世紀末のロンドン。異世界でもないし、剣も魔法も超自然も出てこない。登場人物達が異能力を持っていたりもしない。主人公ラザルスはじめ、賭博師たちが尋常ではない能力を発揮するけれど、手品や占い (ホット/コールド・リーディング [2]) の技術の延長線上。 そして魅力的な登場人物達。主人公ラザルスは鈍感でも難聴でもない。鈍感な賭博師だったりしたら、いいカモにされてしまう。賭博の場から離れた途端に難聴になったりもしない。そもそも表紙を飾るリーラとのコミュニケーションは筆談だ。彼女は言葉を発することができない。ついでに言っておくと最初から好感度MAXだったりもしない。むしろマイナススタート(念のためいっておくがツンデレ・クーデレの類でもない)。 脇を固めるキースとジョンもそれぞれの生き様があってよい。自分はジョンの豪放磊落さ加減がお気に入り。1巻あとがきによると、ジャック・ブロートンという実在の人物が元ネタとのこと。ボクシングのルールを制定した人らしい[3]。二人とも、全てを投げ打って主人公を助けたりはしない。この距離感が心地良い。 もちろん賭博シーンも手に汗握る。のだけれど、それ以上に面白いのがメタゲーム。大事なのは、ただ勝つことではなくて、それで得るものということを改めて思い出させてくれる (好きにできるお金の範囲で過程を楽しむ娯楽は別として)。だから目的のものを持っている相手を、テーブルにつかせて、さらにそれを賭けさせないといけない。だから賭博の場が開かれる前から引き込まれてしまう。それはもうぐいぐいと。 一方で、相手にそれを賭けさせるということは自分も相応の何かを賭ける必要がある。お互いが自分の手にしているものより相手の手にしているものの方が欲しいなら、売買なり交換なりで穏便に片がつく。養父から「何かを得たならば、それは何かを賭けたということ」で「往々

リアル・シリアル・ソシアル - アイム・ノット・シリアルキラー

『アイム・ノット・シリアルキラー』(原題 "I Am Not a Serial Killer")を見た。 いい意味で期待を裏切ってくれて、悪くなかった。最初はちょっと反応に困るったけれど、それも含めて嫌いじゃない。傑作・良作の類いではないだろうけれど、主人公ジョンに味がある。 この期待の裏切り方に腹を立てる人もいるだろう。でも、万人受けするつもりがない作品が出てくるのって、豊かでいいよね(受け付けないときは本当に受け付けないけれど)。何が出てくるかわからない楽しみがある。

私は今、感想を書き終えた - あなたは今、この文章を読んでいる。

『あなたは今、この文章を読んでいる。:パラフィクションの誕生』を読んだ。この本はSFマガジンに16回に渡り連載された「パラフィクション論序説」が単行本化されたもの。 二部構成となっており、第1部「メタフィクションを越えて?」では「過去三十年ほどの時代的な変化と干渉し合い浸透し合うにつれて、どうもあまり望ましいとは言い難い「作者/読者」としての心性が醸造されてきたのではないかと思われる」問題が扱われる。第2部「パラフィクションに向かって」では、その「望ましからざる「心性」」を乗り越えようとしている「メタフィクション」から「パラフィクション」という概念の抽出が試みられる。 プロローグにはそんなことが書かれているのだけれど、その問題が具体的には何なのかも、「パラフィクション」がどんなものでその問題をどう解決するのかも、いまいちクリアにならなかった。 ざっくり整理してみよう。 まず発展の歴史。最初は「虚構」から「現実」に引き戻す「批判的メタフィクション」だった。次に「現実」に「虚構」を持ち込む「関与的メタファクション」へ派生した。さらに「虚構」化した「現実」を再度「虚構」として提示する「受容的メタフィクション」へと変遷した。これがこの本の歴史観。 次にこの変化を通して醸造されてきた(作者にとって)望ましくない「作者/読者」としての心性。作者にとっては、「メタは「作者性」への反省、批判、解体を企図しているかに見えて、その実、やればやるほど「作者」の機能と専制を確認することになっしまう」ことを問題視している[1]。読者にとっては、「虚構」化された「現実」の受容が、現状への批判意識の抑圧につながりかねないことを問題視しているようだ。 それで、「パラフィクション」は「軸足を、思い切って「作者」から「読者」へと引き渡す」ことのようだ。ただし、読みの多様性などにフォーカスして、「読者」の名の下に「作者性」を奪取するという話ではないとのこと。作者のいう「パラフィクション」的な作品として円城塔の『Self-Reference ENGINE』が取り上げられる[2]。 まず思ったことは「これ問題か?」という疑問。そういう本しかなくなる=言論統制が図られたらと思うと背筋が凍るが、これはメタフィクション小説についての話だ。次の「パラフィクション」についてはよくわからない

ブルーノ・ムナーリ ― 役に立たない機械をつくった男/アフリカ現代美術コレクションのすべて@世田谷美術館

世田谷美術館へ行って、『ブルーノ・ムナーリ ― 役に立たない機械をつくった男』展と『アフリカ現代美術コレクションのすべて』を見てきた。まずは前者から簡単に感想を。 幾何学的に構成された絵、モールのような作品(これが《役に立たない機械》)、絵本、タイポグラフィー作品などなど、作品形態の多様さに驚かされる。当時の新技術だったスライド(≠PowerPoint)を使った作品(今ならメディアアートと呼ばれるだろうか)もあった。 たまたま自分が最近知ったからか、何回かソ連の芸術を連想した。幾何学的な構成やタイポグラフィーからはロトチェンコ(ロシア構成主義)を、正方形から切り欠いたキャンバスを作りそこに図形を配置した《陰と陽》からはマレーヴィチ。より抽象的には、表現形態に拘泥しないところも共通しているように見える。 続いて『アフリカ現代美術コレクションのすべて』について、二言三言。 エル・アナツイ(El Anatsui)という方の《あてどない宿命の旅路》の不安定さが目を惹く。小さな地震かなにかで崩れたりしないのだろうか。それからアブラデ・グローヴァー (Ablade Glover) の《タウン・パノラマ》の密度。こういう作品、ずっと見ていられる。探せばWebで解像度の高い写真も見られるけれど、絵の具の厚みなんかもわかって直接見た方がおもしろい。 This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 .

JM - モリアーティ秘録 〈上・下〉

『モリアーティ秘録』の上下巻を読んだ。正典を踏襲した、相棒=モラン大佐による手記形式。事件も正典をモチーフにしている。正典だけでなく膨大な作品や史実も参照している。訳註や訳者解説に大いに助けられた。 これだけでも悪漢小説としておもしろい。特にモリアーティ像。著作を貶されて怒りを見せたりと、人間らしいところも描かれているのが新鮮だった。もちろん人でなしの犯罪者なのだけれど、別の側面が見えるのは、モリアーティ側の視点で描かれているからか。ホームズ側の視点だと、ただでさえ人間味の薄い名探偵よりさらに酷薄に描かれる必要性が出てくる。 さらにおもしろくなってくるのが、下巻から。一気に話が広がる。どう広がるかは読んでみてのお楽しみ。独立したと思っていた個々のエピソードがつながり、一つの蜘蛛の巣のうえで起きたことだったと思い知らされるので、上巻まで読んで物足りなさを感じた方もぜひ下巻まで。 そして、こだまのように繰り返し響く最後の一行。目を閉じれば映画のワンシーンのような映像が思い浮かぶ。

鏡よ、鏡 - 鏡面堂の殺人

『鏡面堂の殺人』を読んだ。〈堂〉シリーズ6冊目。いつのまに文庫化したんだろう? と思ったら、文庫書き下ろし。余計なお世話だけれどノヴェルスで集めていた人が悲しい思いをしていそう。 今回のトリックも大仰で毎度よく思いつくものだと唸らされる。そして真犯人の意外さにも。そして物語も終点が見えてきた。登場人物の過去の因縁も明らかになり、隠されていた目的が明らかになったり、意外な選択がなされていたことが告げられたりする。 2月15日に発売される次の『大聖堂の殺人』で完結とのこと。只人がどう描かれるのか。