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5月, 2009の投稿を表示しています

時間とともに - 誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか

『誘惑される意志 人はなぜ自滅的行動をするのか』 を読んだ。 本書の主張は、実はシンプルだと思う。人間の関心は時間の経過とともに双曲線的に減衰するため、自滅的行動を取ってしまうということだ。 ただ、枝葉が多い。しかも、様々な分野から接ぎ木をしているのか、統一感が感じられない。そのせいか読むのに想定の倍くらいの時間がかかった。 何と言うか、惜しい。あるいは、勿体ない。 とても面白いことが書いてあるような気がするのだけれど、咀嚼しきれなかった(訳者解説である程度分かった気にはなれたけれど)。1冊の本と思わないで、何回かに分けて読んだら、もう少し理解できるかもしれない。

いざ再読

『多読術』 を読んだ。 本書は色々な読み方を紹介している。 その中には、再読も含まれている。 本書に書かれている通り、再読して初めて分かることがある。 むしろ、自分にとっては、その方が多い。 それにも関わらず、最近は再読をしていない。 大きな理由は、簡単に新しい本を手に入れられるようになったことだと思う。 ここ3年で、有効な図書館カードは3枚に増えたし、 本の購入に充てられるお金も増えた。 その結果、再読ではなく、新しい本を読むことを優先させるようになった。 ちょっと立ち止まって、再読に時間を当ててみようかな、と思う。 思い当たる本は少なくない。 それから、本書を1年後くらいに再読したい。

クンフーとカンフーの違いが分からない

『カンフー・パンダ』 を観た。 良くも悪くも娯楽映画。 パンダがあまりにも急に強くなったのに、違和感を覚えた。 ずっと修行を続けてきた連中の立場は? と思ってしまう。 子ども向けだからこれでいいのかな。

アウトインアウト

『中庭の出来事』 を読んだ。 まるでマトリョーシカのような物語だった。 しかも自分が人形の一つになった気分になる。 一番外側にいるとは限らないし、中にもまだいるかもしれない。 そんな感覚が味わえる。 それは恐怖や不安にも似ているけれど、どこか心地よい。

不合理の偏り

『予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』 を読んだ。 気が楽になる。 合理的に振る舞えないのは、自然なことだと分かるからだ。 ただ、不合理はランダムではないことを心に留めておいた方がいいように思う。 つまり、本書のタイトル通り、不合理は予測可能である。

不連続な意識

『宇宙消失』 を読んだ。 本書を通読したのは二回目だ。 二回目なのでネタバレしているのだけれど、その分描写を味わいながら読むことができた。 普段の生活の中では自我の連続性を疑うことはないけれど、本書を読むとそこに疑問が生じる。

ド・ア・ラ・モード

『ドアラの休日 げんじつとうひ、してみました。』 を観た。 現実逃避先のタイで色々な目に遭っているけれど、 いじめ過ぎじゃないだろうか。 あんまり逃避しきれていないように思う。 そこが良いという見方もあるかもしれないけれど、 自分は自由で開放感溢れるドアラをもう少し観たかった。

知り立てファシリテータ

『ファシリテーション入門』 を読んだ。 本書を読んだのはこれで2回目になる。 1回目はいかに漫然と読んでいたかが身に染みる。 何度か会議のファシリテートに失敗していることを指摘された今、改めて読んだところ、「ああすればよかった」、「こうすればよかった」と後悔することしきりだった。 特にはっとさせられたのは、次のくだりだ。 活動の内容(コンテンツ)そのものはチームに任せて、そこに至る過程(プロセス)のみを舵とりすることです。 今まで、内容ばかりが気になって、ファシリテートまで気が回っていなかった。 今後は、そのときどちらを考えるべきか意識したい。 内容を考えないとファシリテートできないけれど、同時にはできない。

Farther Father

『スカイ・クロラ』 は公開当初(2008年8月)は観に行かなかった。行けなかったと言った方が正確かもしれない。 原作小説に対する強い思い入れがあったので、映画に大きなギャップがあったら不愉快になると思っていたからだ。 それを今になって観たのは、 Mirror House Annex: 空が晴れた で書いたように、原作小説を多少なりとも俯瞰することができたから。 今でも強い思い入れがあるけれど、小説は小説、映画は映画と相対化できるくらいにはなった。 実際、映画化にあたり大きな変更が施されている。 特に大きいのは、ティーチャの位置づけだと思う。 小説では、ティーチャはキルドレでこそないものの、パイロットとしてのメンタリティはキルドレと共通している。 一方、映画ではキルドレとは対照的な存在として描かれている。 それが顕著に表れているのは、優一がティーチャに戦闘を仕掛けるときの台詞だ。 字幕には「"ティーチャ"を撃墜する」と書かれているけれど、実際の台詞は"I kill my farther"――「父親を殺す」となっている。 つまり、映画版はエディプス・コンプレックス克服の物語になっている。 これは原作とは全く異なる。 これはこれで悪くないとは思うけれど、やはり自分は原作の方が好きだ。 それでも、映画を観て良かったと思う。 戦闘シーンが白眉だ。青空を背景に散華やスカイリィが飛び交う姿が、美しい。

終わらない

『ソウ5』 を観た。 ちょっとげんなりしている。 謎が残り続けているからだ。 解明された謎も説明が後付けじゃないか? という違和感がある。 映画は一本で終わって欲しいという思いがあるので、こういう不満足ばかりが残る作り方は好きではない。 続編があるにしても、一本の中で満足感を味わいたい。

尾を引く光

『スピード・レーサー』 のDVDを観た。 Amazon.co.jpのレビューや批評記事には批判的な意見も多いけれど、自分は楽しめた。 派手な色彩がや外連の効いた演出が好きだからだと思う。 彩度の高い(原色に近い)色を多用したコースで、未来のレーシングカーが高速で飛んだり跳ねたりする様が、観ていて爽快だ。 この映像だったら、大画面で Blu-ray版 を観てみたいと思う。 自分が特に気に入っているのは、長くて急な下り坂を何十メートルもジャンプ(落下?)していくシーンだ。 ランプの光がすーっと真っ直ぐに尾を引いていく落下中の映像には、目を奪われた。 ちなみに、もちろんその間に何台も抜き去って、最後はしっかり着地する。 いかにも作り込んだ映像とは対照的に、ストーリーは単純な勧善懲悪だ。 これは、現実感のない映像に合わせてのことだと思う。 弟とチンパンジーが笑わせてくれるので、それで十分だ。 裏を返せば、この2点が受け入れられないと楽しめないと思う。 そういう意味では、映像が気持ち悪いとかストーリーがシンプル過ぎるというレビューも頷ける。 特に映像では、アニメで使われる演出を使っているので、演出過多に受け取る人がいてもおかしくない。 例えば、ランプの光が尾を引くのもアニメで使われる演出だ。 自分は、この手のリアリティよりも派手さを重視した演出に共感できるので、観て良かったと思っている。

山あれば谷あり

ようやくハリー・ポッターシリーズ最終巻 『ハリー・ポッターと死の秘宝』 を読んだ。 本書に対する感想は、訳者あとがきとほぼ同じなので割愛。 全7巻を振り返ってみると、第5巻 『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』 だけがやけに印象が薄い。 Wikipediaであらすじを読み返しても、第5巻だけディティールを思い出せない。 ハリーがうじうじとしていたという曖昧な記憶しかない。 今思うと山場(第6, 7巻)の前の谷だったように思う。 全巻を通読した今、もう一度読み返してみたくなるけれど、分量が分量なだけに手を出しづらい。