スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

ラベル(新書)が付いた投稿を表示しています

『動物園・その歴史と冒険』を読んで

ラクレ新書『動物園・その歴史と冒険』を読みました。動物園の楽しみ方を増やしてくれる一冊でした。 冨や権力のシンボルとして収集・展示されていた時代から、第1次・第2次大戦を経て近代的な動物園に至るまでの歴史が描かれている。 単純化し過ぎた見方ではあるけれど、人権意識の高まりを追いかけるように動物の待遇が狭い檻から生息地を模した環境へと変化していっているようにも見える。一方で、戦時には処分されたりプロパガンダに利用されたりと時代に翻弄されているようにも見える。 動物園ってなんなのか改めて考えてしまう。著者が示す可能性のとおり「ひととそれ以外の生きものの関係をデザインする場」になっていくのだとしたら、それは動物園に限らずペットなどとの関係も視野に入ってくるのかもしれない。 余談1:ところでメディアでよく見かけた「行動展示」や「旭川動物園」は出てこなかったけれど、これは動物園の歴史上どのような位置づけなのだろう。 余談2:積みゲーになっている "Planet Zoo" のことをふと思い出したり。

『言語学講義――その起源と未来』の感想

『言語学講義――その起源と未来』を読みました 一見ランダムなやり方でとり上げることで、「言語学の今」を浮かび上がらせてみたいと考えている。 とあるけれど、言語学の予備知識がほぼゼロなのでその試みがうまくいっているかどうか、なんもわからん。 でも、楽しめました。例外は最後の第5章。著者の専門領域の話らしくさっぱり。ソシュールの『一般言語学講義』成立の経緯はおもしろかった。本人が書いたのではなく、生徒が講義を復元したらしい。あと、ジャック・デリダの『グラマトロジーについて』の中でのソシュールを批判したとあったところで、内容が気になったくらい。 以下、枝葉ばかりだけれど感想を。 「包括形」と「除外形」 2人称を含めるのが「包括形」。含めないのが「除外形」。日本語では区別なく「私たち」と表記される。「私たちは人間としてみな平等だ」というのは包括形で、「私たちは君たちを助けたい」は除外形。ここが気になったのは、ニコ生で「私たちはそう考えますが、みなさんはどうですか?」というような言葉を聞いたばかりだったので。おかげでこの言葉に違和感があった理由がわかった。ニコ生で「私たち」と言われたら、自分は包括形を想定するらしい。対称ではないけれどテレビより双方向性があるからだろう。 言葉の「正しさ」 国語教育の一部として指針が必要だとは思うけれど、想定する受け手に伝わればいいとも思っているので、外野から正誤を押しつけるのに意味はない。と頭では思うのだけれど、つい指摘したくなる気持ちが湧くこともある。そこで一拍おいて飲み込めるようにしたい。反射的に言ってしまうこともあるのだけれど、〈物語〉シリーズの阿良々暦が言っていたことを思い出す。言いたいことと言うべきことは違う、みたいな。思い出すというには曖昧過ぎるか。 [m], [n], [ŋ] 「ん」の話。[m], [n]の区別はつくけれど、[ŋ]はだいぶ怪しい。ま行の音が続くときの口を閉じる「ん」が[m]で、口を開けたまま言える「ん」が[n]。「感激」などが行に続くときの音、らしい。らしいというのも衰退していて、おそらく自分も普段使っていなくて自信が持てないから。どれくらい衰退しているかというと、1940年時点で都区部の15歳の学生を対象に調べたら、鼻濁音があったのは約半分だったらしい。東北方言だと「烏賊」は[iga...

オスマン帝国と現代トルコ、近代化 / オスマン帝国 500年の平和、オスマン帝国の解体、トルコ現代史

『トルコ至宝展』 を皮切りに、 『オスマン帝国 500年の平和』 、 『オスマン帝国の解体』 、 『トルコ現代史』 と現トルコを中心とした地域の歴史を駆け抜けてみた。この地域、西にヨーロッパ、北東にロシア、南東にイランとイラク、南にシリア、地中海を挟んでエジプトと、なかなか凄まじい配置。 オスマン帝国の解体にせよ、現代トルコの抱える問題にせよ、近代に西洋でイデオロギー化された「民族」の概念が大きな役割を果たしているように見える。トルコ共和国は建国の際に民族主義も掲げらけれど、そこに住んでいるのはトルコ人だけではない。クルド人もいる。 一方、オスマン帝国ではスルタン(大王)とシャリーア(イスラム法)のもとで多民族が暮らしていた。他の宗教を信仰していても、ズィンミー(被保護民)として貢納の必要こそあったものの、その宗教生活を送ることもできていた。民族の違いが今ほど大きな違いと認識されていなかったように見える。 宗教についてもトルコ建国時に『世俗主義』が掲げられている。これはいわゆる政教分離より踏み込んでいて、社会や国民の脱宗教家までをも目指していた。2008年になってようやく女性が公的な場でスカーフを身につけてもよいことになったくらい。 オスマン帝国の方がよかったとかそういう話でなくて、あまり考えたことのなかった切り口を知れたという話。政教分離されているべきかどうか?、一国家の中に複数の民族がいるから問題が生じているのか? 近代国家ってなんなんだろうね? 次はオスマン帝国とほぼ同時期に渡って存在したハプスブルク帝国について調べてみるつもり。こここも民族と宗教と近代化の問題によって解体されたようだけれど果たして。

咲いた咲いた - トルコ至宝展、オスマン帝国、オスマン帝国の解体

国立新美術館で開催されている(~5/20)『トルコ至宝展 チューリップの宮殿 トプカプの美』を見てきた。豪華絢爛な宝飾が施された水筒やらチューリップ用の一輪挿し(ラーレ・ダーン)やら日本との輸出された巨大な陶製の壺やら、予想だにしないものが出てきて楽しい。あと、正しくは新月だけれどそのまま表せないから三日月なのだという解説が地味に衝撃だった。 1900年代の物も展示されていて オスマン帝国の栄華を今に伝える至宝約170点が、イスタンブルのトプカプ宮殿博物館から来日! 見どころ|トルコ至宝展 トルコ文化年2019|2019.3.20(水)〜5.20(月)国立新美術館 より というわりに随分と最近に感じられて調べてみたら、オスマン帝国って第一次世界大戦に参加していて1918年に連合国に降伏するまで存在していたのね。頭にターバンを巻いているスレイマン大帝のイメージで止まっていたよ……。〈境界線上のホライゾン〉シリーズにも出ていたということはその頃の日本は戦国時代だな、くらいの雑さだよ……。 というわけで 『オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史』 を読んで、 『オスマン帝国の解体 文化世界と国民国家』 を読んで、 『トルコ現代史 - オスマン帝国崩壊からエルドアンの時代まで』 まで読み始める始末。 『オスマン帝国-繁栄と衰亡の600年史』の「600年」に怖じ気づきかけたけれど、読み始めたらおもしろくて歴史を追いかけてしまっている。「オスマン・トルコ」と聞くし、その側面もなくはないのだけれど、5世紀に渡り存続して最大時にここまで( オスマン帝国の最大領土(1683年) )版図を広げた一大帝国がそんな単純なわけもなく。ちなみに「チューリップ時代」と呼ばれるのは、ごくごく一時期に過ぎない。アフメト3世が大王(スルタン)に在位していた1716〜1730のほんの十数年(数十年ではなくて)。 『オスマン帝国』ではイスラム法(シャリーア)の下でときどきに応じていかにプラクティカルな治政が行われていたか概観できるし、『オスマン帝国の解体』では西洋と戦うために西洋化する過程で近代国家の枠組みはじめ西洋思想も入ってきて、それがオスマン帝国の解体に与えた影響がわかる(気がする)。 トプカプ宮殿のハレム(ギャルゲーの形容によく使われるハーレムはここから)って、最近Fate/G...

拡散は沢山だ - 情報戦争を生き抜く 武器としてのメディアリテラシー

『情報戦争を生き抜く 武器としてのメディアリテラシー』を読んだ。「はじめに」によると、『週刊朝日』の連載「ウェブの見方 紙の味方」を加筆および再構成したもので、連載に載りきらなかった典拠も全て示しているとのこと。 まず、タイトルを見て「戦争とは大袈裟な」と思った。しかし『カラシニコフ』で読んだようにカラシニコフが国家間戦争を国家の対テロ活動に変えたのなら、SNSが情報戦を今の形に変えているのかもしれない。カラシニコフもSNSも、安価で、誰でも使えて、多大な影響力をもたらす。 ネット炎上、フェイクニュース、ポスト真実など話題は多岐に渡り、それぞれ思うところもある。それらを飲み込んで、乱暴にまとめると「情報を作り過ぎ」。リツイートはじめ複製。2ちゃんねる(現5ちゃんねる)への投稿を恣意的に構成したまとめサイト。組織的盗用の行われたWebメディア (DeNAだけではないだろう)。自動プログラムで生成されるフェイクニュース。挙げだしたらキリがない。 最初のリツイートはともかく、それ以降は生い立ちからして邪な作為に満ち満ちている。最初のリツイートにしたって、真に受けて拡散してしまう中間層が数のうえでは最大らしいので問題外というわけでもない。 本書が紹介する各種調査結果を無理矢理まとめると、ごく一部の主体が作った作為的な情報が、「誰がシェアしたか」と「見出し」だけを見て拡散され続けているばかりで、内容を確認する人なんてほとんどいない。情報量が増えないまま複製ばかりがどんどん増え続ける。そんなイメージが湧いてくる。 (前向きなトピックも少なくないのにも関わらず)そんな悲惨な想像をしていると、終章「誰が情報戦争を終わらせるのか」に行き着く。ここでは4つの対策が示される。まず技術。つぎに経済制裁(市場)。それから発信者情報開示請求の改善(法)。最後に「報道」。 もうひとつあるとしたら「学習」だと思う。すぐに効果があがるようなものではないけれど、受け取った側が無批判に拡散し続けていたらいいカモである。たとえ虚偽情報の発信量者が減っても流通量は下げ止まりしてしまうだろう。だから誰もが学習しないといけないと思う。 サブタイトルにある「メディアリテラシー」を見て、そんなことを思う。

異体字と対峙 - 追跡・則天武后

『追跡・則天武后』を読んだ。 東京国立博物館 で、彼女が中国唯一の女帝であり、権威づけに仏教を頼っていたとを知り、興味が湧いて。どこかで読み囓っていた、暗殺・拷問で政敵を排除して、晩年まで色欲に溺れていたイメージとは遠くかけ離れている。 20年も前の本なので、最近はまた違った見方もされているのかもしれないけれど、本書では悪女と思われているが善政も行ったということで見直されているという趣旨で紹介されていた。 アカデミズムの色よりジャーナリズムの色が濃く、トリビア的な話も散りばめられていたのがうれしかった。たとえば容姿について。娘が母に似て額が秀でているという記述があるそうだ(某ゲームでおでこ枠なのは、これに由来しているのだろうか?)。 それから漢字にも強い執着を見せ、わざわざ新しい漢字を作ったそうだ。もともと本名は「照」なのだが、「明」の下に「空」という漢字を作り、これを自分の名としたそうな。しかも他に使ってはいけない、彼女のためだけの漢字だった。他に十六文字あり、則天文字と呼ばれているのだけれど、既に使われなくなって久しい――というわけでなく意外なことに日本で生き延びている。その字は「圀」。「国」の異体字であり水戸光圀の名前として残っている。 日本とのつながりといえば、仏教繋がりで玄奘三蔵の訪問を受けている。歴史に疎く、同時代の人だなんてまったく意識していなかったので驚いた。それで某ゲームで、と納得。 子供だった頃は各国神話に出てくる名前をRPGで知ったりしていたし、三つ子の魂百まで、か。

where to go and come from? - ブッダをたずねて 仏教二五〇〇年の歴史

『ブッダをたずねて 仏教二五〇〇年の歴史』を読んだ。 一節が見開きに収っているので、少しずつ読み進めるのに適している。知らないことだらけなので、これくらいでちょうどよい。 全体の流れは基本的に仏教の歴史を辿っていく。一口に仏教と言っても歴史を追うごとにいくつかの宗派に分かれていく。それぞれの時代・宗派でどのようにブッダの位置づけられていたか? 最後に、筆者によって簡素な形にまとめられる。 その捉え方は自分にとってはしっくりと来るものだったけれど、不安になるくらい簡素なので受入れにくい人もいそう。 ところで、途中、日本の仏教は哲学の側面が希薄だという話があった。だとしたら、とてももったいないと思う。

あるフック - 新・現代アフリカ入門

『新・現代アフリカ入門』を読んだ。 特にこれといったキッカケはないのだけれど、何とは無しに。強いて言えば映画 『ブラック・パンサー』 か。架空の国ではあったけれど、主な舞台がアフリカだった。 ◆ 出版されたのは5年前の2013年(いちいち確認しないといけないので、『現代〜』のようなタイトルをつける慣習はなくなってほしいと思う)。二十分の一世紀もあれば、大きく変わった国もあるだろう。けれど、この5年でアフリカに関してどんなニュースがあったかさっぱり思い出せない(日本のもさして思い出せないのだが)。サッカーのW杯が開催されたのは、2010年のことだし。 忘却ぶりに 『ヌメロ・ゼロ』 を思い出す。いろいろと忘れていっているんだろう、という感覚ばかり湧いてきて、具体的なエピソードは浮かび上がってこない。記憶力が下がったのかもしれないし、子供時分からそうなので、そういう記憶の仕方をしているのだろう、と思っている。ニュースにうんざりしているとも言える。 ニュースと言えば、自民党総裁選があるんだかあったんだかだったよなと思って、Googleで「総裁選」を検索してみたら、文春オンラインの「総裁選「カツカレー食い逃げ事件」が大事件になるまで」がトップに出てきた。知らんがな。 アフリカでもよく似た構図らしい。 「こうした政権維持のための政争にうんざりし、政治不信を持つ人々が選挙そのものに関心を示さなくなることもある。たとえば、二〇〇七年のマリの大統領選挙では、投票率は三十六%であった」 日本は大統領制ではないので直接比較はできないが、2017年衆議院選挙の投票率は約54%だった。年代別だと20代がもっとも低く約34%。上記大統領選挙と同じくらい。おおよそ3人にいたら2人は投票していない程度の関心の低さ。なお出典は総務省の 『国政選挙における年代別投票率について』 。 日本と似ている印象を受けるが、著者が日本人なので出生国のことを投影している可能性もあるか。 ◆ この本を「入門」書として思い返すと、著者の主張がかなり強め。出だしから問題提起で始まって、問題ありきで歴史や現状が描写されているように読める。投票率の問題のように、まず問題がありそれを象徴する国をピックアップする形で取り上げられると、 チェリーピッキング にも見える。 アフリカに...

R/W - 読書の価値

『読書の価値』を読んだ。自分は、著者の読書スタイルとも、著者が想定する読者の読書スタイルとも差異があるとわかった。他人の頭のなかが垣間見えて比べられたみたいで、おもしろい。 ◆ 「まえがき」に この本の内容は、少なからず抽象的になるだろう。 と書かれているけれど、この著者としては具体的だったと思う。ものごとの見方や捉え方だけではなくて、選択の指針まで書かかれている。 『自由をつくる自在に生きる』 を読書にしぼって具体的に書いたらこうなるのではないか。 そう感じるのは、自分が本著者の著作を小説・新書・絵本・訳書まで読んでいるからだろう。この読み方はマイナなはずだ。どの本か忘れたが、小説と新書とで読者層が異なると読んだ記憶がある。だから、著者は自分とは違う読者層を想定して「抽象的」と書いたのだろう。 どんな読者像が想定されているかに興味が湧いて、この本と『自由をつくる自在に生きる』とで、Amazonの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」を見比べてみた。如実な違いが見られて驚いた。本書のページではビジネス書やハウツー本が並ぶが、『自由をつくる自在に生きる』では同著者の新書・エッセイがズラリと並ぶ(やはり小説は出てこない)。これはどんな傾向の表れだろうか? 新しい読者層を開拓できているわけで、きっと狙いどおりだろう。主にビジネス書やハウツー本を読んでいるなら、この本の内容は抽象的に感じるはず。そういう読者のなかにはじれったかったりイライラしたりした人もいたのではないだろうか。 ◆ 著者とは違い、自分はたくさんの本を読む方だと思う。読むのも遅くはないだろうけれど、それ以上に読書にあてる時間が多い。いわゆる活字中毒なのかもしれない。この間の休日も読書に何時間もあてて1000ページ以上の文庫を数日で読み終えた。このブログのエントリィ数を見ると、ここ10年ほど毎年100冊くらいは読んでいるようだ。人生を本に振っていると言って過言ではない(そんな言い回しはない)。 著者とは違い、自分は読む本を選ぶのに時間をかけない。本屋でもAmazonでも図書館でも、まあ読むだろうと思い手に取る。必要な情報を求めて探しているときは目次やまえがきを流し読みして済ませることもあるけれど、何かしら発見を期待しているときはそのままレジ(または貸出窓口)に...

とうがく - 日本刀の科学

『日本刀の科学』を読んだ。日本刀はすごいと耳に挟むけれど、具体的になぜどうすごいのかという好奇心に駆られて。 そんな軽い気持ちで読み始めたら、材料力学に衝撃工学それから真剣と数値シミュレーションの比較実験まで出てきて姿勢を正された。「日本刀で学ぶ材料力学」みたいなタイトルとして構成できそうなくらいの内容では、これ。 でも、おもしろくて一気に読んでしまった。『図解 日本の刀剣』でさらっと眺めた工程の裏で材料に起こっている変化や、打ち込み時に各部にはたらく力など、好奇心を十分に満たしてくれた。 とくに目を引いたたところを簡単に。 まず、反りがもたらす強さの話。日本刀の反りは、刃部の圧縮応力と 棟 ( むね ) 部の引張応力の力学的バランスが生んでいるとのこと。逆向きの応力が発生しているのは玉鋼(たまはがね)の相が違うため。これらの応力(まとめて残留応力)が、素材を超える強さ(曲げ変形強度)をもたらしている。「素材を超える」ってところが熱い(反るのは冷ましたときだけれど)。 それから竹目釘の話。刀身と柄をつないでいるのは直径わずか数mmの竹目釘一本というのがまず驚きだけれど、さらにその位置(刀身の目釘穴の位置)が刀装と一体となったときに最適(打ち合いで受ける衝撃的な力が最小になる)位置と一致しているというのだから驚愕するしかない。 定寸(二尺三寸)の太刀の物打ち(截断に最もよく使う位置)の中心は、衝撃工学的には横手筋(切先最下部の筋)から下部へ五~六寸のあたり。刀身側で打ち合い時に受ける衝撃的な力が最小となるのは、そこという実験結果が解説されている。それから、 樋 ( ひ ) (刀身の鎬地に掘られた比較的深い溝)は軽量化の理に適っている(まり重量の低下に比して、曲げ強度の低下が小さい)という話もおもしろかった。 当時はこんな科学技術はなかったのだから、技術伝承を重ねながら探り当てたということになる。気が遠くなる。

モール信号 / ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市

『ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都市』を読んだ。本書は、思想家の東浩紀さんと写真家の大山顕さんとの対談がもとになっている。お二人はそれぞれ、 『ゲンロン0』 の著者と 『工場萌え』 の著者でもある。 『ウォークス 歩くことの精神史』 の、商店が女性が安心してぶらつくことのできる半公共的な空間を提供していたという話から、ふと思い当たって手に取ってみた。対談が企画された理由も、商業施設と公共性に関連している。 東  まずは、なぜショッピングモールをテーマにしようと思ったのか。一言で言うと、「新しい公共性を考えるため」です。 出典: 『ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都』 でも「公共性」のような抽象的な話題は控え目で、話に花咲くのは具体的なショッピングモールの話題。どんどん広がっていく。東浩紀さん「あとがき」でいわく「放談」で大山顕さん「まえがき追記」でいわく「妄想ここに極まれりという仕上がり」とのこと。行ったことのある場所も話題に挙がっていたので、自分の印象と比較するのが楽しかった。 というわけで、ダメ出しを食らっていたソラマチについて考えてみる。 大山  それに比べると、東京スカイツリータウンのソラマチは……。 東  ダメですね。 大山  イクスピアリやレイクタウン同様に「マチ」を謳っているのに、吹き抜けがなくて行き止まりはあり、どうしようもない百貨店感が漂っている。 出典: 『ショッピングモールから考える ユートピア・バックヤード・未来都』 というわけでここからは話言葉で。書き言葉だと「放談」しにくいので。 まず前提を共有するために、本書で挙がっていたモール的な施設の特徴を挙げとく。 吹き抜けがある。百貨店にはない。 行き止まりがなくグルグルと回れる。 周囲に駐車場が広がっている。 内装が装飾的で、外装がない。 これらの特徴を踏まえてまずは地図で見てみる。東西に細長いことがわかる。これは東西両方の駅に直結させたかったからか。西に東武スカイツリーラインの「とうきょうスカイツリー」駅、東に京成押上線・都営浅草線・東京メトロ半蔵門線の「押上」駅がある。測ってみたら東西方向が500m、南北方向が100mくらいだった。しかも南北に広げられない。北には東武スカイツリーラインが通って...

都市トーシロ - 都市計画の世界史

『都市計画の世界史』を読んだ。 町の作りを形作る経緯に興味が湧いてきたので、概観できる入門書になるかなと思って読んでみた。 しかし、残念ながら全然頭に入ってこない。そう言えばそもそも世界史からして苦手だった。 違う本にもあたってみよう。 『勉強の哲学』 でも、入門書は何冊か読もうという話だったし。そうしないと、バランス感覚を持てない。数打てば当たるだろうし(雑)。

One more cup of - 珈琲の世界史

『珈琲の世界史』を読んだ。 『コーヒーの科学』 と同じ方が書いた本。 続編というよりは、姉妹編とでも言えばいいのかな。『コーヒーの科学』の草稿にはあったけれど大幅にカットされたコーヒーの歴史について、まるまる1冊を費やしたのが本書になる。 本書は(ページ数を減らすため、草稿を大幅にカットはしましたが)これまでに私が得た知識の集大成の一つです。 引用元: 『コーヒーの科学』「おわりに」 ただ、じつはこの「コーヒーの歴史」の章、草稿段階では相当な文章量だったのですが、理系的な話を中心にするために大幅に削ることになり、泣く泣く栽培史と技術史だけに絞り込んだという「裏事情」があります(ブルーバックスですから、仕方ありません)。 引用元: 『珈琲の世界史』「はじめに」 『コーヒーの科学』を読んで、 なお、「草稿を大幅にカット」してこれらしい。草稿読んでみたいなぁ……。 引用元: Mirror House Annex: &シガレッツ - コーヒーの科学 と思っていたので、希望が叶ってありがたい。 話の中心が科学から歴史へと移ったけれど、濃さは変わらず。長ーーーーーい歴史が、1冊の新書に圧縮されている。「1章 コーヒー前史」ではコーヒーノキのルーツを探って、約1440万年前まで遡る。もちろんまだ人類は生まれていない。人類のルーツである猿人が生まれたのが約700万年前だ。そして、「終章 コーヒー新世紀の到来」では、サードウェーブの話題までカバーしている。耳にするようになったのは、ブルーボトルが日本に出店した2015年からなので、ほんのここ数年の話。 印象的だった話を3つだけ抽出してみる(挙げ出すと終わらない)。 まず、サードウェーブが何なのかよくわかっていなかったので、本書を読んでようやくスッキリしたのが嬉しい。科学用語と違って、こういうコピーの類には厳密な定義がないから、こうやって歴史――由来や使われ方から入った方が飲み込みやすい。 それから、イギリスとアメリカの歴史。紅茶のイメージが強いイギリスだけれど、お茶が伝わる前の17世紀はコーヒーの国だっとか、そこから18世紀後半に紅茶の国になった経緯とか、そのイギリスの植民地だったアメリカがなぜ今はコーヒー大国なのかとか [1] 、気になるトピックが盛りだくさんだった。 最後に、本好きなので、コ...

バッタの研究人間 - バッタを倒しにアフリカへ

『バッタを倒しにアフリカへ』を読んだ。 表紙はふざけているように見えるけれど、蝗害に立ち向かう真面目な研究者が研究生活について書いた本。あるいは研究者として生活するための奮闘記録。 じゃあ中身は硬いかというとそんなことはなくて、語り口はユーモアに溢れているし、研究生活の場はモーリタニアという異国だし、そこでのバッタを追いかけての日々も波瀾万丈だし、とてもおもしろく読ませてくれる。まさか、ゴミダマの雌雄判別方法やハリネズミの飼育日記を読むことになるとは思わなかったけれど。 まだ論文化はこれからということで、バッタについてどんな発見があったかあまり書かれていないのが、少しだけ欲求不満。続編を待ちたい。でも、その前に前著 『孤独なバッタが群れるとき』 を読めばいいのか。既に知られているバッタの生態について、何を知っているわけでもないし。

二羽鶏 - ニワトリ 愛を独り占めにした鳥

『ニワトリ 愛を独り占めにした鳥』を読んだ。 ニワトリについて、日々食卓に並ぶ鶏卵や鶏肉の話から、その祖先である野生原種セキショクヤケイの話、それから闘鶏や愛玩用の長尾鶏や矮鶏(チャボ)の話まで、とても幅広く扱っている。タイトルの「愛」が示唆するとおり、これらの話は人間との関係性を軸に語られている。 最も強い関心を抱いて読めたのが、生活に密着している卵用鶏と肉用鶏の話。卵かけご飯に煮卵ゆで卵、目玉焼き、玉子焼き。どれも好き。鶏肉は蒸しても茹でても煮ても焼いても揚げてもそれぞれ美味しい。 わざわざ「卵用」と「肉用」と分けて書いたのは、普段スーパーでみかけるような卵や鶏はそれぞれ別の鶏のものだから。「じゃあ卵用鶏の肉や肉用鶏の卵はどうなるの?」と疑問に思うことだろう。結論だけ言うと、卵用鶏は廃棄されるし、肉用鶏は卵を産めるようになる前に肉になる。卵用鶏は生後160日以内には産卵を始め、産卵能力が低下する700日目までに廃棄される。その間、約2kgの体重で年間18kg(60gの卵を300個)産卵する。肉用鶏は生後50日で体重3kgに達したあたりで肉にされる。おとなでも1kgに満たず、卵も年間10個ほどしか産まないセキショクヤケイから、よくここまで辿り着いたものだと気が遠くなる。 このあとさrない「どうしてそんなセキショクヤケイを飼おうとしたのか?」という問いにも切り込んでいく。詳しくは本書を読んで欲しい。ちなみに上に挙げた卵用鶏と肉用鶏の話は、第1章「なぜ人はニワトリを愛でるのか」に詳しく書かれている。 (余談。読み終わってから気がついたのだけれど、 『人体 失敗の進化史』 と同じ方の著書だった)

進化の過信 - 人体 失敗の進化史

『人体 失敗の進化史』を読んだ。 「失敗」というと言葉が強くて、「試行錯誤」といった方がしっくりくる内容だった。動物の解剖から得られた情報から、進化の過程で環境に適応するために様々な器官が転用されてきたという話が繰り広げられる。乱暴に言えば、場当たり的に有りものでどうにか遣り繰りしてきた成れの果てが、今生き延びている生物なのかもしれない。 本書を読んでいて、進化の歴史は敗者の歴史なのかもしれないとふと思った。というのも次のようなシナリオをイメージしたから。 ある種が生存競争で優位に立って増える その種内ので競争が激しくなる 種内での生存競争から一部の集団が離脱する 離脱した先の環境に適応する 敗者かどうかはさておいても、環境が変化することより、違う環境に移動することの方が多そうな気はする。

書を買いに、町に出よう - 読書の腕前

『読書の腕前』を読んだ。 作者の読書に対する見方・考え方が書き連ねられている。 『忘れられる過去』 からの孫引きになってしまうけれど、この一節が響く。 「最初にふれているのだ。そのときは気づかない。二つめあたりにふれたとき、ふれたと感じるが、実はその前に、与えられているのだ。/読書とはいつも、そういうものである。」 こういうことがあるから、本を評価するのは簡単ではない。のめり込むように読んだけれど後に残らない本もあれば、読んだ直後はよくわからなかったけれどずっと後にふとした体験で記憶を呼びまされるような本もある。 ちょっと読み進めて、詰まらない/合わないと判断して放り投げてしまうのは、勿体ない。 (正直に言うと、最後まで読んで、後から思い出すこともない本も、あるけれど)

マネーフットボール - 電通とFIFA サッカーに群がる男たち

『電通とFIFA サッカーに群がる男たち』を読んだ。 電通と世界的なスポーツ大会という組合せでは、東京へオリンピックを招致する活動のなかで、不正なお金の遣り取りがあったのではないかというニュースもあった [1] 。 こういう後ろ暗い話があると、観戦中に脳裏をよぎって、素直に楽しめなくなってしまう。真っ当な方法で運用資金を稼ぎ出して欲しい。 そう言えば、先月、2026年のW杯で出場チームを増やすというニュースがあった [2] 。この変更で収益が約20パーセント増えて8,700億円ほどになるという。さらに大規模化すると運営面が不安になるけれど、大丈夫なんだろうか。 [1] Tokyo Olympics: €1.3m payment to secret account raises questions over 2020 Games | Sport | The Guardian [2] 2026年Wカップ出場枠拡大「32→48チーム」と、FIFAの思惑|WIRED.jp

足下を見る - サッカー ファンタジスタの科学

『サッカー ファンタジスタの科学』を読んだ。 サッカーを科学的な方法で分析しているのには違いないけれど、「ファンタジスタの科学」は言い過ぎだろう。そもそもファンタジスタなんて、定義が難しいうえに各選手それぞれの特長があるので、科学的な方法が向かないように思う。 それでもサッカーの科学には違いない。ボールを蹴るときの足の速さやトラップの仕組みのような、基本的なプレイに科学の光を当てている。それから、スパイクについても扱っている。 そのスパイクの設計についての章が新鮮だった。これまで履き心地の感覚だけで選んできたけれど、履き心地と性能とはトレードオフの関係にあるらしい。スパイクの話をもっと掘り下げて、1冊の本にして欲しいくらい。

過去の音 - 西洋音楽論~クラシックに狂気を聴け~

『西洋音楽論~クラシックに狂気を聴け~』を読んだ。タイトルには「論」とあるけれど、西洋音楽について体系的に述べられているわけではない。書かれているのは、作曲家・指揮者である著者のクラシックについての洞察。 繰り返し主張されているのが、クラシックもアフタービート(アップビート、裏拍とも)だということ。つまり"1 and 2 and 3 and..."と数えるときの"and"を強調しているということ。自分の場合、『リズム天国』の「ウラオモテ」を思い出す。でも、音楽を聴いているときにそんなことまで気が回らないというのが正直なところではあるけれど。 その他だと、クラシックが作曲された当時は、今とは異なる解釈で演奏されていたのではないか? という話がおもしろかった。今となっては、どう足掻いても推測の域を脱することがはできないのだけれど。思えば、レコードが発明されてからまだ150年くらいしか経っていないのだよね。モーツァルトやベートーヴェンが生きていたのは、さらにその100年も前。クラシックの歴史って長いよなあ。