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3月, 2019の投稿を表示しています

Do Not Cry, You Can Get Well. - 人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?

『人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?』を読んだ。10作目にあたる本書で〈W〉シリーズ完結。シリーズ1作目『彼女は一人で歩くのか? Dose She Walk Alone?』を初めて読んだのがつい先日のよう。 8作目 『血か、死か、無か? Is It Blood, Death or Null?』 以来、「ゆっくりとした思考」についで断続的に考えている。不連続な思考をしている。ほとんどの時間は考えていない。 人間は「ゆっくりとした思考」をできないだろう。マガタ・シキ博士も例外ではない。コンピュータの思考に先回りしている。最も速く思考しているとさえ言える。 もちろん彼女を除いた人間の思考はそんなに速くない。思考の加速さえできない。ソフトウェア開発についての本『ゆとりの法則』でこんな言葉が引用されている。 人間は時間的なプレッシャーをいくらかけられても、早くは考えられない ーティム・リスター そのうえ考える対象の選択すら容易ではない。集中して考えるためや嫌なことを考えないための自己啓発本が、いくらでもある。自分も苦手で、こうしてブログを書くことで、思考に区切りをつけている節がある。 人間が「ゆっくりと思考」できないもう一つの理由が忘却だと思う。 コンピュータならキャッシュからすぐに記録を読み出せなくても、メモリそれからSSD/HDDと次第にゆっくりと読み出せる。自分が持っていなければネットワークで接続されている別のコンピュータに尋ねることもできる。そして、その間ずっと待っていられる。答えが得られたら、待ち始めたその状態から思考を再開できる。 人間の思考の不連続性は、思考中に積み上げたものを崩してしまう。文字が文が文章が本が発明されてこれに対抗できるようになったけれど、どうしたって行きつ戻りつしてしまう。この問題はおそらく抽象化によってロールフォワードの形で対処されているのではないか。 今の自分が辿り着ける限界に近づいてきた感触があるのでこのあたりで。 シリーズは終わったけれど、こういうことについて自分はまだまだ考えたり考えなかったりし続けると思う。

ゆゆゆゆゆゆゆゆゆゆ - ゆゆ式 10

「『ゆゆ式 10』を読んだよ」 本当にこの3人はいつも楽しそうです。 でも脳の話はちょっと怖かった。 ちゃっぽんちゃっぽんしていたら、ハラハラしますよね 「その程度……?」 「ところで、ついに10巻。おめでたいです」 「もう11年目だそうで。高校3年間がループしていたら4周目」 「どうしてループさせたんですか……」 「してみたくない?」 「あまり……飽きそうなので」 「その程度……?」

愚直・十徳・人徳 - スイス・アーミー・マン

『スイス・アーミー・マン』(原題 "Swiss Army Man")を見た。よく意味が分からないのだけれど見入ってしまう不思議な作品だった。 無人島で生き延びる望みを無くして、自ら命を絶とうとしていた主人公ハンク。彼の目の前に水死体(後にメニーと呼ぶことになる)が打ち寄せられるところから映画は始める。 その水死体がアーミーナイフのごとくなんでもできる。ハンクを背に乗せて、放屁?腐敗ガス?でジェットスキーのごとく波飛沫を上げて別の陸地へと導く。まったく意味がわからない。終始そんな感じ。 意味がわからないなりに見続けてしまったのは、ハンクとメニーの関係性の変化に惹き付けられたからだろう。振り返ってみれば、奇妙な関係の行く末がどうなるのか、見届けたかったのだと思う。

魔法(の罠に)かけられて - タタの魔法使い3

『タタの魔法使い 3』を読んだ。2、3巻が上下巻構成でこれにてシリーズ完結。 ドキュメンタリー形式で描かれる、特殊な環境=異世界での群像劇。先が気になってつい一気に読み進めてしまった。 自分の感覚では、後書きにあった最初の構想のまま、単巻でスパッと終わっていた方が美しかったとは思う。 シチュエーションと形式を踏襲してリブートしたりしないかな。

escape from - POLAR

Netflix映画 "POLAR" を見た。引退間近の雇われ殺し屋が、退職金を払いたくない雇い主に狙われる話。同名のアメコミが原作。 こんな風に紹介するとコミカルなアクション映画のようにも思えるけれど、主人公は本当に引退したがっていて、でも後悔を抱えていて、引退後の生活を模索していて、意外にもしっとりとした印象が強い。"John Wick"に近いかも。 マッツ・ミケルセン演じる主役のダンカン・ヴィズラが渋くて素敵。

un-build/anti-build - インポッシブル・アーキテクチャ

埼玉県立近代美術館に行って、『インポッシブル・アーキテクチャ』を見てきた。テーマはアンビルド=建築されなかった建物。 当時の技術的では実現不能な思想先行の設計や、実現性を度外視して描かれた建築家の空想が楽しめる。中には実現しなくてよかったと思う構想も。 建築の分野でもロシア構成主義は理想主義的だった。ここでもマレーヴィチの作品が出てきて[1]驚く。ロシア構成主義にはザハ・ハディドも影響を受けていて、卒業制作タイトルにも彼の名前が引かれているそうだ。 実現性を度外視したものでは、ハンス・ホラインの航空母艦都市が〈境界線上のホライゾン〉シリーズの“武蔵”だったのと、レム・コールハースの図書館設計で取られたヴォイド戦略の地と図の反転させたような発想がおもしろかった。後者は著作『S, M, L, XL』に詳しい模様。気になる。 房総半島を原爆で吹き飛ばして東京湾を埋め立てるなどという当時の偉い人の放言は、実現しなくて心底よかった。わざわざ構想まで作って付き合わなくてもよかったのにと思う。 実現性があった設計の中では、鋭角部分がある土地に建てるビルのコンペティション案が好みだった。キャプションを見ると「レス・イズ・モア」や「神は細部に宿る」の箴言が有名なミース・ファン・デル・ローエの設計。これらの言葉に影響を受けているので、嗜好が近くなっているかもしれない。だとしたら嬉しいこと。 技術的にはできても現実的には使えなさそうなのがフレキシブルな作り。いつどこにどれを配置するかどうやって決めるのか、誰が移動コストを負担するのか。それに可動部に負担が集まるから、壊れやすくなり保全コストも跳ね上がるのではないか? 夢がないことを考える。『伽藍とバザール』における伽藍のデメリットが目立つばかりにならないか。 最後の部屋には「建築可能であった」プロジェクトとして、ザハ・ハディドによる新国立競技場の設計が展示されている。ここだけは毛色が異なり、構想や模型だけでなく詳細な設計図書まで展示されている。そこまで具体的に詰められていたということ。にも関わらず実現しなかったと知ると、虚無感が押し寄せてくる。 気持ちも話題も切り替えよう。これらアンビルドを見ていたら、Netflixドキュメンタリー『世界の摩訶不思議な家』を思い出した。この番組では本当に建っちゃってるおもし

たとえ日の下水の中 - アクアマン

『アクアマン』(原題 "Aquaman") を見てきた。『ジャスティス・リーグ』で登場したアクアマンが単独で主役を張る作品。 前評判に違わず、それどころか期待以上にアクションが連続していた。冒頭でアクアマンの両親がやむなく離れるまでにアクションシーンが挿入されている時点で、間違いなく全編アクションまみれにするつもりだと確信できたくらい。 まず、水中で飛ぶように戦うのが格好良かった。騎馬に相当するのがタツノオトシゴなのは英名がSea Horse (海の馬) だからか。それからイタリアの明るい日差しの下で建物の上を飛び回りながら戦うシーン。何百メートルも隔てた戦いがワンカットかのように編集されていたのには驚かされた(まさかワンカットじゃないよね?)。あと甲殻類。 細かいところでは、アクアマンだけが出てきてバットマンやスーパーマンは出てこない必然性があるのもよかった。水中の戦いだから手を出せないという理由もあろうが、水中から地上への侵攻を止めるために戦っているので地上から戦力が出た時点でその一戦では勝てても、かえって侵攻の機運が高まりかねない。 アクションを心置きなくお腹一杯たのしめるエンターテインメントだった。

可能性を考えるのが早すぎる - 井上真偽作品5冊

井上 真偽 ( まぎ ) の、『探偵が早すぎる』(上・下)、『その可能性はすでに考えた』『聖女の毒杯 〃』、『恋と禁忌の 述語論理 ( プレディケット ) 』を読んだ。つまりすべての単行本を読んだ。 上記は自分が読んだ順。出版された順に並べると、『恋と禁忌の述語論理』、『その可能性はすでに考えた』、『聖女の毒杯 〃』、『探偵が早すぎる』。偶然だけれどおおむね出版順を遡っていて、結果的には歯ごたえが強くなる方へと進むことになった。 いずれもミステリーで、探偵役のアクの強さが群を抜いている。JDC[1]メンバにも引けを取らない。それでいて解決はあれほど突飛ではない。 『探偵が早すぎる』では事件は起こらない。正確にいうと起こるのだけれど、犯人の思惑どおりの結果にはまったくならない。なぜなら、被害が出る前に探偵役が犯人(未遂犯)を見つけて解決してしまうからだ。だから「探偵が早過ぎる」というわけ。こういう探偵の存在について考えたことはあるのだけれど、こんな風におもしろい小説にできるなんて。感動すら覚える。 『その可能性はすでに考えた』では、探偵は事件を(一般的な視点では)迷宮入りに導こうとする。探偵の視点では、奇跡の存在を証明しようとしている。ある事象が発生し得るあらゆる可能性が否定されたら、その事象は奇跡と呼ぶ他ないという。おおよそミステリィって一般的には不可能に見える事象が発生した過程に理路をつけるものだけれど、この作品の探偵は反対に不可能性を追い求めている。それはいわゆる悪魔の証明であり、どんなトンデモでも可能性があれば奇跡とは呼べなくなるわけで、それはもう沢山の可能性が披露される。〈境界線上のホライゾン〉シリーズの文系の相対を思い出す(ただし、この作品では戦争になったりはしない)。 最後に読んだ『恋と禁忌の述語論理』が著者のデビュー作。一階述語論理とか二階述語論理とかの述語論理。数理論理学の一分野であるところの述語論理。本作の探偵役は「論理的に話したり」しない。論理で話す。おもしろかったけれど、既刊の中でこれがもっとも敷居が高い。一応の説明はあるものの、((予備知識がない)∧¬(活字中毒))⇒(読み切れなかったのではないか)。でも探偵役の女性が素敵だったので読み切れたようにも思う。副読本として『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』なんかいいか

大きな絵 - 竜のグリオールに絵を描いた男

『竜のグリオールに絵を描いた男』を読んだ。 タイトルに惹かれて読み始めたら短篇集で、冒頭に表題作が配置されていたので、2篇目以降は何の考えもなしに読むことになった。以前はそれが当たり前だったのに、Twitterなどからプッシュされてくる前情報にすっかり慣されてしまったらしい。困惑しつつ読み進めることになった。 ただ、少なくとも本作の場合、事前知識があったとしてもきっと困惑しただろうな、と思う。どの作品も自分の知る物語の型に当てはまらない。それなのに、吸い寄せられるように読み進めてしまった。グリオールの影響かも知れない。 ちなみにこの本に収録されているのは4篇だけれど、あとがきによると〈竜のグリオール〉シリーズは7篇あるとのこと。この4篇だけで終わった感じはしなかったけれど、実は続く感じもしなかった。いったいどんな話が残っているんだろう。