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垂直統合 - ψの悲劇

ψ (プサイ) の悲劇』を読んだ。森博嗣による〈Gシリーズ〉の5冊目であり、『χ (カイ) の悲劇 』に続く後期三部作の第二部。

本書の背表紙で〈Gシリーズ〉は「失われた輪 (ミッシングリンク) をつなぐ」と形容されているせいか、内容=輪そのものよりも、位置づけ=どこから失われたのかの方が気になる。

〈Gシリーズ〉を締め括るのが『ω (オメガ) の悲劇』というタイトルなので、素直に〈Wシリーズ〉につながるんだろうと思っている。ギリシャ文字のωが対応するアルファベットはWだ。〈Wシリーズ〉で描写されているウォーカロンの要素技術が形になりつつあることも読み取れるし。

その〈Wシリーズ〉は『人間のように泣いたのか?』で完結している。こちらでの真賀田四季博士の状態を考えると〈Gシリーズ〉で彼女はなすべきを終えるのだろう。終えたところだということが示唆される程度に留まるかもしれないけれど、どのような縦糸が通ることになるのか。

ところで浮遊工作室 (近況報告)によると、『ωの悲劇』は2020年。今年は新シリーズが始まるらしい。どんな物語が始まるのかな。

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北へ - ゴールデンカムイ 16

『ゴールデンカムイ 15』、『〃 16』を読んだ。16巻を読み始めてから、15巻を買ったものの読んでいなかったことに気がつく。Kindle版の予約注文ではままあること。 15巻は「スチェンカ・ナ・スチェンク」、「バーニャ(ロシア式蒸し風呂)」と男臭いことこのうえなし。軽くWebで調べてみたところ、スチェンカ・ナ・スチェンク (Стенка на стенку) はロシアの祭事マースレニツァで行われる行事のようだ[1]。それなりになじみ深いものらしく、この行事をタイトルに据えたフォークメタルStenka Na StenkuのMVが見つかった。 16巻では杉元一行は巡業中のサーカスに参加することになる。杉元と鯉登の維持の張り合いが、見ていて微笑ましい。鯉登は目的を見失っているようだが、杉元もスチェンカで我を失っていたので、どっこいどっこいか。なお、サーカス/大道芸を通じた日露のつながりは、実際にもこのような形だったようだ[2]。 個々のエピソードから視線を上げて、全体の構図を眺めてみると、各勢力がすっかり入り乱れている。アシㇼパは尾形、キロランケ、白石とともにアチャの足跡を辿り、そのあとを鶴見のもとで家永の治療を受けた杉元が鯉登、月島を追っている。今更だけれど、杉元やアシㇼパは、第七師団と完全に利害が衝突していると考えていないはずだった。一方で、土方一味も入墨人皮を継続。むしろ彼らの方が第七師団との対立が深刻だろう。さらに北上するキロランケはまた別の目的で動いているようだけれど、なんで尾形も一緒なんだっけ? 『進撃の巨人』に引き続き、これもそろそろ読み返す時期か。 [1] 5つの暴力的な伝統:スラヴ戦士のようにマースレニツァを祝おう - ロシア・ビヨンド [2] ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」 | ハフポスト

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『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06, #07を読んだ。 『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06と#07を読んだ。#06でフェオドールの物語がひとまずは決着して、#07から第二部開始といったところ。 これまでの彼の戦いが通過点のように見えてしまったのがちょっと悲しい。もしも#07がシリーズ3作目の#01になっていたら、もう少し違って見えたかもしれない。物語の外にある枠組みが与える影響は、決して小さくない。 一方で純粋に物語に抱く感情なんてあるんだろうか? とも思う。浮かび上がる感情には周辺情報が引き起こす雑念が内包されていて、やがて損なわれてしまうことになっているのかもしれない。黄金妖精 (レプラカーン) の人格が前世のそれに侵食されていくように。

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