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1月, 2019の投稿を表示しています

JM - モリアーティ秘録 〈上・下〉

『モリアーティ秘録』の上下巻を読んだ。正典を踏襲した、相棒=モラン大佐による手記形式。事件も正典をモチーフにしている。正典だけでなく膨大な作品や史実も参照している。訳註や訳者解説に大いに助けられた。 これだけでも悪漢小説としておもしろい。特にモリアーティ像。著作を貶されて怒りを見せたりと、人間らしいところも描かれているのが新鮮だった。もちろん人でなしの犯罪者なのだけれど、別の側面が見えるのは、モリアーティ側の視点で描かれているからか。ホームズ側の視点だと、ただでさえ人間味の薄い名探偵よりさらに酷薄に描かれる必要性が出てくる。 さらにおもしろくなってくるのが、下巻から。一気に話が広がる。どう広がるかは読んでみてのお楽しみ。独立したと思っていた個々のエピソードがつながり、一つの蜘蛛の巣のうえで起きたことだったと思い知らされるので、上巻まで読んで物足りなさを感じた方もぜひ下巻まで。 そして、こだまのように繰り返し響く最後の一行。目を閉じれば映画のワンシーンのような映像が思い浮かぶ。

鏡よ、鏡 - 鏡面堂の殺人

『鏡面堂の殺人』を読んだ。〈堂〉シリーズ6冊目。いつのまに文庫化したんだろう? と思ったら、文庫書き下ろし。余計なお世話だけれどノヴェルスで集めていた人が悲しい思いをしていそう。 今回のトリックも大仰で毎度よく思いつくものだと唸らされる。そして真犯人の意外さにも。そして物語も終点が見えてきた。登場人物の過去の因縁も明らかになり、隠されていた目的が明らかになったり、意外な選択がなされていたことが告げられたりする。 2月15日に発売される次の『大聖堂の殺人』で完結とのこと。只人がどう描かれるのか。

.exe - 処刑タロット 1, 2

『処刑タロット』の1、2巻を読んだ。いわゆるデスゲームもの。 1巻にいまいち満足できなかったけれど、2巻まで読んでみた。が、欲求不満が溜まってしまった。3巻が出ても読むかどうか。 自分がリスクに対する許容度が低いせいか、ゲーム参加者のノリが軽過ぎるように見える。特に主人公。いまいち緊張感が維持されない。 作中世界がいまいち想像できない。ARが発達した世界のようだけれど、作中の何が常識なのかいまいち飲み込めない。ARがデスゲームに使えるようなら、もうちょっと驚く描写があってもよいのでは。 ゲームというにはルールが曖昧というか、ARが万能のため後付けでどうとでも説明できてしまう予感がして、興が乗らない。ルールの中での作戦やルールを出し抜く方法について考える甲斐がない。 さらっとドぎついペナルティが描写されたり、ルールが悪意に満ち満ちていたりしているのは、いい趣味をしているのだけれど(たまには嫌な小説も読みたくなる。

祟られればたられば - タタの魔法使い 1, 2

『タタの魔法使い』の1、2巻を読んだ。学校がまるごと異世界に飛ばされる同時に、欲しい能力が付与される。どうやって生き残り、元の世界に帰ろうか? という話。 集団ならではの問題設定が新鮮だった。チート能力を持っていることと、それを適切に運用できるかどうかはまた別問題だという切り口だとか、能力の誤解による防げたはずの被害とか。 どちらかというと、1巻の方が楽しめた。続けて読んだので、刺激に慣れただけかもしれない。たとえば、2巻の食糧問題を解決する能力は、進行に必要なので取ってつけたように感じられてしまった。 おもしろいのは、ジャーナリストによる出版物という体裁で書かれていること。カポーティが『冷血』で実行した〈モキュメンタリー〉を思い出す。後知恵バイアスとマスコミに対する反感がちょっとくどいけれど、こういう試みは好きなので次巻の書きっぷりに期待。 作者のツイート によると、3巻で完結でいろいろ仕込まれている模様。読んだら2巻の位置付けも変わってくるかも。なので2月に出る3巻も読むつもり。

女将軍 - 秦良玉 from Fate/Grand Order

Fate/Grand Orderから秦良玉。中国の正史『二四史』に列伝が残されている唯一の女性武将とのこと。ちょっと調べてみようと思ったけれど、そもそも明時代の日本語での解説があまり見当たらない。『女将軍列伝』という中国小説に主役として取り上げられているようだけれど、これは絶版。残念。 中国の槍術・棒術っぽい雰囲気のポーズにしてみたつもり。描いてみたらスーパーヒーロー着地みたいでもある。槍を描くのも試みたけれどあまりにあまりだった。別に練習しないと無理そう。

BB-hotep - 水着BB from Fate/Grand Order

Fate/Grand Orderから水着BB第三再臨。自称「スーパーグレートデビル」で「BBホテップちゃん」。デビル=悪魔ではなくて、邪神では……。エクストラアタックで「名状しがたきニャルニャルビーム」とか撃つし。 というわけでいかにも邪悪そうな笑みをマスターさんに。

フリーシナリオ - ブラック・ミラー バンダースナッチ

Netflixオリジナルドラマシリーズ『ブラック・ミラー』のエピソード『バンダースナッチ』 を見た。『ブラック・ミラー』は1話完結なので、つまみ食いしても大丈夫。 ゲームブック[1]に感銘を受けた青年が、コマンド選択式アドベンチャーゲーム[2]の制作に没頭するあまり、現実と妄想の区別が曖昧になっていき――というのが本作の導入。 最大の特徴は、ゲームと同じように主人公の行動をその場で選択できる点。あるいはプレイアブル・ムービー[3]で構成されている点と言い換えることもできる。 とてもうまくできていて、セーブ&ロードの必要を感じさせない。どう選んでも物語は進んでいく。ゲームオーバーになれば自動的に別の物語を見るための選択からリスタートさせてくれる。間延びしないよう、一度見たシーンはごく短いカットをつないだダイジェスト(フラッシュバック)になる。 このダイジェストも、気持ちよいリズムでループミュージックに似た没入感を与えてくれる。浸されているうちに、物語を先に進める気持ちも溶けてなくなってしまいそう。危ない。 もっとも強く危険を感じたのは、主人公に過激な行動を取らせるのに、躊躇がなくなってきたのを自覚したとき。ループしているうちにどんどん刺激に慣れてきたのだと思うけれど、普段はゲームをしているときも、過激な選択肢は選ぶにしても最後にするのだけれど(コムルーン島は沈めない派[4])。 テーマ自体は目新しいものではないけれど、それをこういうで体験できたのはとても新鮮だった。主人公と一緒に混乱したり、主人公を操る神の視点を味わったり、「選ばされているのではないか?」とメタレベルで混乱したり、フラッシュバックがただ気持ち良かったり、と大いに翻弄された。 興味があるなら一気に見るのをお勧めしたい。前述の作りが本当に巧みで、予備知識無しで再生を始めても90〜120分くらいで収まるようになっている。先に進まなくてイライラと時間を費やすようなことはないのでご安心を。 [1] 前から順番に読んでいくのではなく、選択肢に対応するページにジャンプしながら読んでいく本。 [2] コマンド選択式が発明されるまでは、簡単なコマンドを英語で入力する方式だった。 [3] ゲームのムービーのうち、コマンドの入力を受け付けてその成否で進行が変わるもの。 [4] 『ロマン

round robin - 異セカイ系

第58回メフィスト賞受賞作『異セカイ系』を読んだ。作者・名倉編(今、気付いた。アナグラムのアナグラムだ)は、「ゲンロン 大森望 SF講座」出身。 粗筋はこう。 第58回メフィスト賞受賞作。小説投稿サイトでトップ10にランクインしたおれは「死にたい」と思うことで、自分の書いた小説世界に入れることに気がついた。小説の通り黒騎士に愛する姫の母が殺され、大冒険の旅に……♪ってボケェ!! 作者(おれ)が姫(きみ)を不幸にし主人公(おれ)が救う自己満足。書き直さな! 現実でも異世界でも全員が幸せになる方法を探すんや! あれ、何これ。「作者への挑戦状」って……? 小説世界に入ることができれば、出ることもできる。出て、書いて、入る。これで小説世界が改変される。チートどころではない。なんだってできる。でも、単純にチートでハーレムとはならないだろう。「メフィスト賞受賞作」がそんなストレートに展開するはずがない。とにかく「作者への挑戦状」の存在が気になる。一体「誰からの」挑戦状なのか? そんなことを考えながら読み始めた。 読み終えた今、どう思っているかはさておいて、読書中に浮かんだ疑問を、妄言にしてみる。 自分は作中世界の人物でも作中作世界の人物でもない(はずな)ので、「現実でも異世界でも全員が幸せになる方法を探すんや!」と言われても、他人事に思えてしまう。 そのうえ質が悪いことに悲観的なので、小説世界の現実改変はどこまでありなのか? さらには「改変により世界を壊してしまうのではないか?」という恐怖にまで想像が及ぶ。本作では、書いていない部分は整合が取られる設定のようだけれど、それなら「整合しようのない記述があったらどうなるのか?」と。 それは主人公がこんなに優しくなかったらありえた世界であり、そうでなくても意図せず辻褄の合わない記述をしてしまったり、誤字・脱字が入り込んだりしてしまうこともあるだろう。あるいは悪魔のように意図しない形で改変されるかもしれない。 考え過ぎだと思う人もいるかもしれないけれど、作者をソフトウェア開発者、小説をプログラム、作中作世界への移動がコンパイルと実行、作中世界での改変がデバッグと考えれば、プログラミング経験のある人には容易に想像できると思う。書いていない部分が整合性のある形で補間されるとしても、書いた内容が意図せず決定的に破綻

ベイベー笑いは - キルミーベイベー (10)

『キルミーベイベー 10』を読んだ。 軽く狂ってる。軽症という意味じゃない。軽いノリで深く狂ってるという意味。軽く狂ってる。 お化け屋敷のあの怖さに思わず息を呑んで引き笑いだよ!! 他に類を見ないので、ぜひこの調子で続けていってほしい。

格子の上で - SSSS.GRIDMAN

『SSSS.GRIDMAN』を見た。 キャラクター、ヒーローに怪獣、背景、動き、脚本、音楽。全てがピタリとハマっていた。中でも驚いたのが制作手段とシナリオのシンクロ。 以下、ネタバレだらけなので折りたたみで。 続きを読む 最初は、グリッドマンと怪獣の戦いはCGで描かれていた。『ダーリン・イン・ザ・フランキス』のロボット・アクションもセルで作画していたTRIGGERの制作だけれど、ここはCGなのだと落胆したのを覚えている。直後のバトルシーンでテンションが上がって、すぐに吹き飛んだのだけれど[1]。 当然、回が進むにつれ違和感は薄れていき、すっかり慣れきった最終話。最終決戦を前に真の姿を取り戻したグリッドマンは、セルで描かれていた。ずっとグリッドマンはCGだったので、これまでセルで描かれてきたラスボスの方が姿を変えてCGになるのだと当然のように考えていたので、完全に不意を突かれた。 視聴中はそこからの怒濤のアクションに夢中だったけれど、今になって振り返っると必然性が感じられる。あの世界にとってのリアルな戦いは、最終決戦が最初だったのだ。それまでのグリッドマンと怪獣の戦いは、一部の住人を除き「なかったことになる戦い」だった。 そして、アカネと六花の最後の会話を経てのラストカット。言葉を失う。 TRIGGER制作のヒーローアニメだと思って見始めたら、終わってみたら多重メタ構造を持つ百合SFだった。 [1] なおCGの制作はグラフィニカ社の3DCGチーム。 アニメ「SSSS.GRIDMAN」特集 監督・雨宮哲(TRIGGER)、脚本・長谷川圭一インタビュー (2/3) - コミックナタリー 特集・インタビュー 参照。

それの名は - バイバイマン

『バイバイマン』(原題 "The Bye Bye Man")を見た。 名前を聞いたり読んだりすると、幻覚が見えるようになり正気を失っていく。また、その過程で名前を広めようとしてしまう。 設定は魅力的なんだけれど、ビジュアルもシナリオも今ひとつ足りない感じ。まずバイバイマンの印象が薄い。それ自体が襲ってくるのではなくて、幻覚により正気を失って人を殺してしまう類いの呪いなので、いまいち存在感が薄い。それが連れている犬の方が記憶に残るくらい。必至に生きようとして知恵を絞って対策を練って、それでも逃れられないというのなら絶望感も味わえるのだけれど、どうにも中途半端。映画なのだから、もっと極端な手段を取る登場人物がいてもよかったのでは? と思う。 もっと手前の段階の問題として、そんな性質なのにタイトルで明々白々なのもよくない。性質だけが明らかになった時点で登場人物が名前を伏せようとしても、「もう見ている人みんなわかっているんだけれど」と醒めてしまう。

中身 - ジェーン・ドゥの解剖

『ジェーン・ドゥの解剖 (原題 "Autopsy of Jane Doe")』を見た。よい=怖がらせてくれたホラー映画だった。 タイトルの「ジェーン・ドゥ」は身元不明の女性死体につけられる仮称[1]。ある一軒家の地下から見つかった彼女は、検屍官のもとへと運ばれ、解剖台に横たえられ、傷一つない青白い肌にメスが入れられる。 このように倒錯的な導入だけれど彼女の中身が明らかになるにつれ、第一印象は、好奇であれ忌避であれ、まずは疑問、次に不安、最後は恐怖で塗り込められていく。 よいホラーだった。あぁ、怖かった……。 [1] ちなみに男性の場合は「ジョン・ドゥ」。

拡散は沢山だ - 情報戦争を生き抜く 武器としてのメディアリテラシー

『情報戦争を生き抜く 武器としてのメディアリテラシー』を読んだ。「はじめに」によると、『週刊朝日』の連載「ウェブの見方 紙の味方」を加筆および再構成したもので、連載に載りきらなかった典拠も全て示しているとのこと。 まず、タイトルを見て「戦争とは大袈裟な」と思った。しかし『カラシニコフ』で読んだようにカラシニコフが国家間戦争を国家の対テロ活動に変えたのなら、SNSが情報戦を今の形に変えているのかもしれない。カラシニコフもSNSも、安価で、誰でも使えて、多大な影響力をもたらす。 ネット炎上、フェイクニュース、ポスト真実など話題は多岐に渡り、それぞれ思うところもある。それらを飲み込んで、乱暴にまとめると「情報を作り過ぎ」。リツイートはじめ複製。2ちゃんねる(現5ちゃんねる)への投稿を恣意的に構成したまとめサイト。組織的盗用の行われたWebメディア (DeNAだけではないだろう)。自動プログラムで生成されるフェイクニュース。挙げだしたらキリがない。 最初のリツイートはともかく、それ以降は生い立ちからして邪な作為に満ち満ちている。最初のリツイートにしたって、真に受けて拡散してしまう中間層が数のうえでは最大らしいので問題外というわけでもない。 本書が紹介する各種調査結果を無理矢理まとめると、ごく一部の主体が作った作為的な情報が、「誰がシェアしたか」と「見出し」だけを見て拡散され続けているばかりで、内容を確認する人なんてほとんどいない。情報量が増えないまま複製ばかりがどんどん増え続ける。そんなイメージが湧いてくる。 (前向きなトピックも少なくないのにも関わらず)そんな悲惨な想像をしていると、終章「誰が情報戦争を終わらせるのか」に行き着く。ここでは4つの対策が示される。まず技術。つぎに経済制裁(市場)。それから発信者情報開示請求の改善(法)。最後に「報道」。 もうひとつあるとしたら「学習」だと思う。すぐに効果があがるようなものではないけれど、受け取った側が無批判に拡散し続けていたらいいカモである。たとえ虚偽情報の発信量者が減っても流通量は下げ止まりしてしまうだろう。だから誰もが学習しないといけないと思う。 サブタイトルにある「メディアリテラシー」を見て、そんなことを思う。

far from - 遠読

『インスタグラムと現代視覚文化論』 で知った、『遠読』を読んでみた。 この本には、文学研究者フランコ・モレッティが90年代から2010年代にかけて発表してきた論文10本が収録されている。時系列順に並べられており、各々冒頭に著者による序文が付されている。 通底する問題意識と推移するアプローチが読み取れておもしろい。キーワードは〈遠読〉。この本のタイトルにもなっているこの言葉は、主流のアプローチ=一冊一冊を深く読み込む〈精読〉に対する、著者による造語。全ての本を精読することはできないのだから多数の本を俯瞰的に読むアプローチを指す。 本の内容ではなく、本と本との関係性に着目すると 『読んでいない本について堂々と語る方法』 のような話になるのだろう。しかしこの本に収められている論文は、1冊の本を俯瞰的に読んだり、ある時代の探偵小説群を俯瞰的に読んだりと内容に踏み込む。 「ネットワーク理論、プロット分析」では、ハムレットの登場人物をネットワークダイアグラムに表している。ノードが登場人物。エッジは両者の間に会話があったことを示す。これによりグループと橋渡し役が俯瞰できる[1]。また、ここでは関連研究として「「カルチュロミクス」の論文」の名前が挙がっているが、その内容は 『カルチャロミクス:文化をビッグデータで計測する』 として一般向けにもまとめられている ( @r_maimaiさんありがとうございました )。こちらはNグラム――単語N個の並びの出現頻度の分析だった。 単語に着目しているという点では、「スタイル株式会社――七千タイトルの省察(1740年から1850年のイギリス小説)」の方が『カルチャロミクス』に近く見える。サブタイトルどおり、タイトルを対象として、単語や長さを分析している。この時代に小説とレビューの分業がすすみで、タイトルから説明の役目がなくなり、目を引くために短くなったという話がおもしろい。「ラノベ」や「なろう小説」のタイトルは長いという印象があるのだけれど、「実際に長くなったのか?」、だとすれば「その理由は?(レビューが読まれなくなった? 略称ありき?)」という疑問が浮かぶ。 「文学の屠場」では、内容に踏み込んで、〈シャーロック・ホームズ〉シリーズが今も読み継がれているのは、同時代の探偵小説と比べて何が勝っていたのか? という問いに取り

絵と文、不可分 - インスタグラムと現代視覚文化論

『インスタグラムと現代視覚文化論』を読んだ。本書は、レフ・マノヴィッチの論考「インスタグラムと現代イメージ」全訳と、日本の執筆者による9つのテキストからなる論集の2部構成。 巻頭言から続けて「インスタグラムと現代イメージ」を読むより、論集最初の2本――「レフ・マノヴィッチとインスタグラム美学」と「なぜインスタグラムだったのか — 最後尾のメディア受容記述者としてのレフ・マノヴィッチ」を読んでおいてもよいと思う。「インスタグラムと現代イメージ」で躓くことが減る。 「インスタグラムと現代イメージ」の貢献は、Instagram[1]の写真を美学的に分類し、Instagrammism(インスタグラム美学)を発見した点にある。もちろん投稿写真の全てがInstagrammismに当てはまるわけではない。当てはまるのは、むしろ少数だ。だから、レフ・マノヴィッチがInstagrammismと名付けた特徴は、他の論考では見落とされている。 というようなことを論集最初の2本を読んで理解した。この前提が頭に入っていない状態で読んだので、自分は盛大に蹴躓いた。と言うより、すっころんで明後日の方向を向いた疑問を抱いた。 「写真論」はなぜ「「写真」論」なのか? タイトルに「現代視覚文化論」とあるが、本書が扱う対象は基本的に写真だ。いつどこで撮られたかというメタデータも扱うが、基本的には撮影により発生し(フィルタ処理など適用された)たデータを分析している。 写真とは発生過程は独立しているけれど、写真と不可分に投稿されるテキストも、俎上に乗せた論考も見てみたい。ただでさえ大きくて理解できていない問題をこれ以上大きくしようとするな、という内心からの警告からは目を背ける。 そんなことを考えるのも、 『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』 の影響。写真は写真、テキストはテキスト、と分断してしまうと、見落とすものがどんどん大きくなっているのではないだろうか。LINEで返事を書く代わりにスタンプで答えたりして、ふとそんなことを思う。 データとしては、特徴量ベクトルにしかならないのだから、どうにかならないかなあ。とラフもラフなことを考える。 [1] カタカナ表記だと、自分には別の何かに見えるので英語表記にする。

北へ - ゴールデンカムイ 16

『ゴールデンカムイ 15』、『〃 16』を読んだ。16巻を読み始めてから、15巻を買ったものの読んでいなかったことに気がつく。Kindle版の予約注文ではままあること。 15巻は「スチェンカ・ナ・スチェンク」、「バーニャ(ロシア式蒸し風呂)」と男臭いことこのうえなし。軽くWebで調べてみたところ、スチェンカ・ナ・スチェンク (Стенка на стенку) はロシアの祭事マースレニツァで行われる行事のようだ[1]。それなりになじみ深いものらしく、この行事をタイトルに据えたフォークメタルStenka Na StenkuのMVが見つかった。 16巻では杉元一行は巡業中のサーカスに参加することになる。杉元と鯉登の維持の張り合いが、見ていて微笑ましい。鯉登は目的を見失っているようだが、杉元もスチェンカで我を失っていたので、どっこいどっこいか。なお、サーカス/大道芸を通じた日露のつながりは、実際にもこのような形だったようだ[2]。 個々のエピソードから視線を上げて、全体の構図を眺めてみると、各勢力がすっかり入り乱れている。アシㇼパは尾形、キロランケ、白石とともにアチャの足跡を辿り、そのあとを鶴見のもとで家永の治療を受けた杉元が鯉登、月島を追っている。今更だけれど、杉元やアシㇼパは、第七師団と完全に利害が衝突していると考えていないはずだった。一方で、土方一味も入墨人皮を継続。むしろ彼らの方が第七師団との対立が深刻だろう。さらに北上するキロランケはまた別の目的で動いているようだけれど、なんで尾形も一緒なんだっけ? 『進撃の巨人』に引き続き、これもそろそろ読み返す時期か。 [1] 5つの暴力的な伝統:スラヴ戦士のようにマースレニツァを祝おう - ロシア・ビヨンド [2] ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」 | ハフポスト

追走 - 進撃の巨人 27

『進撃の巨人27』を読んだ。 ついに壁内外の話が合流したので、ここまでの流れを振り返ろうとした結果、結局18巻まで遡ることになった。相応の時間を費やしたが、おかげでようやく話の流れが見えてきた。一方で、よく10冊もよくわからないまま読んできたものだ、と自分に呆れる思いも湧く。 しばらくしたらきっと忘れるので、ここに覚書をしたためておく。あらすじにも満たない、自分が思い出すためのトリガーに過ぎないので、他人が読んでもよくわからないだろう。ただ、目につくところに書いておかないと、どこに書いたか忘れてしまう(忘れないようにメモした紙をどこに置いたか忘れたことがある人なら、この気持ちをわかってもらえると思う)。 とはいえ、ネタバレには違いないので畳んでおく。 続きを読む 27巻のエレンは、異母兄ジーク(獣の巨人)に同調し、自由のためのテロリストとなっている。ミカサやアルミンと再会したのも束の間、歩調は合っておらず、賛同者とともに囚われの身となっているジークを探し始めたところでこの巻が終わっている。 ここに至ってようやくこれまでの話が意味を帯びてくる。 18巻で始まったウォール・マリア奪還作戦が成功し、イェーガー家の地下に辿り着いたのが21巻。そこからエレンの父、グリシャ・イェーガーの半生を挟み、壁外調査に出て海岸に辿り着いたのが22巻ラスト。この時点で、「一度目の「超大型巨人」襲来から6年」。23巻から舞台は唐突に見知らぬ土地へ。 しばらく読み進めると、ジークとライナーの場所は帰国先であり、ライナーの容姿からおそらく時間的には22巻の続きだろうと推察はできるが、エレン達は姿を見せないまま物語は進む。25巻でついに登場したかと思ったら、3年前に遡りここまでに何があったか、進行形の自体と交互に語られる。ここがややこしい。3年前から振り返りはじめ、現在に戻って1年前のエピソードが挟まれたと思ったら、次は2年前の話が始まったりする。 そして27巻でようやく時間軸が現在に一本化されたように見える。 おもしろい。とてもおもしろい。壁の中というあんな小さな世界から始まった物語が、ここまで大きくなるとは想像だにしなかった。 同時についていくのが大変になってきていると思う。副読本が欲しいくらい。誰か、作中の歴史と作品としての伏線の配置・回収ポイントが

一面相 - ドリフターズ 6

『ドリフターズ 6』を読んだ。 いやあ、読ませてくれる。ついに国王軍との戦が始まったと思えば、そこからは怒濤の展開。最後に菅野が突っ込んできたところで、この巻は終了。まったく先が読めない。 それにしても織田信長はいいキャラしているなあ。光秀に挑発されては怒りを露わにし、島津貴久に蹴り倒されて我に返ったり、いろいろな表情を見せてくれる。 その島津貴久はというと、徹頭徹尾それこそ頭のてっぺんからつま先まで島津貴久だった。少なくとも今のところ、彼だけは何も変わっていない。その在り様は、漂流者(ドリフターズ)よりむしろ廃棄物(エンズ)に近く見える。それが仇になるような展開が、いつか訪れるのだろうか。

Bullets Lead - Black Lagoon 11

『Black Lagoon 11』を読んだ。 随分と久し振りだと思ったら、かれこれ4年半振りらしい。よく戻ってきてくれた、と思う。 この巻で10巻で始まった話がきちんと畳まれた。あっさりし過ぎの感はある。でも、下手に引っ張らないで、仕切り直してリスタートしようという意気込みなのかもしれない。絵のタッチも少しライトに変わったようだし、転機といえば転機か。 これが転機になると思って思い返すと、全体的に明るくなったと思う。エピソードがあっさりしているように感じたのは、きっと暗さが減ったからだろう。モンテロ、ロブ、パクスンのやられっぷりもB級映画臭い(それはそれで好きだ)。絵のタッチをライトに感じたのも、全体的にコントラストが抑えられたからではないだろうか。コマの大小、線の強弱に多寡、トーンの使い方――ちょっとした違いが積み重なって、全体の印象がスライドしているように思う。 それは後知恵ではあるけれど、必然。ロックもすっかりロックになって、レヴィもタールの様な暗さが抜けて、当初から想定していた山場は越えてしまったのではないだろうか。 だとしたら、だからこそ、ここからが楽しみ。先行きが見えなくなった。だからこそ、どこを狙ったっていい。弾は込められた。銃口はどちらを向くのか。

枝葉と根幹 - ジョジョリオン 19

『ジョジョリオン 19』を読んだ。 プアー・トムは退けたものの、ロカカカは定助の手をすり抜けていく。果樹園が焼き尽くされてしまったので、唯一残された枝の探索に身を投じることになる。手がかりを追ってTG大大学病院へ赴き、次の敵の能力が垣間見えたところで次の巻へ。 プアー・トムのスタンド〈オゾン・ベイビー〉の怖さがビジュアルでは見えにくかったのに対して、今度の敵は既に空恐ろしさが感じられて続きが気になる。決着も対照的になって、盛り上げて欲しい。プアー・トムの最期は、いささか呆気なかった。 各バトルを比較しての山谷とは別に、全体の山谷が未だに見えないのはもどかしい。もう19巻だというのに。特にカレラや花都。思わせ振りに出てきただけに終わらないといいのだけれど。いや、そうだとしてもそんなことが気にならないくらい盛り上がってくれればよいか。

Cheers! - のみじょし 5

『のみじょし 5』を読んだ。 安定のおもしろさ。自分はハレとケでいうケの話の方が好み。 この巻でいうと、第56杯目「みっちゃんのクリスマス」とか第57杯「みっちゃん二日酔いになる」なんか。 ダメなみっちゃんが微笑ましいような、自分を見ているような。もうちょっと何かしらがんばろう。

築き律し通ず偶然 - Fate/Grand Order カルデアスクラップ

『Fate/Grand Order カルデアスクラップ 中谷作品集』を読んだ。 お目当ては第八話「時は短し恋せよ聖杯」。エミヤ〔アサシン〕、エミヤ、エミヤ〔オルタ〕――守護者たちを見るアイリスフィールの心情が描かれる。 ファン向け。作中で多くは語られない(語りきれるものでもない)。『Fate/Stay Night』のシナリオ「Unlimited Blade Works」、『Fate/Zero』、『プリズマ☆イリヤ』、『Fate/Grand Order (以下FGO)』のイベント「Fate/Accel Zero Order」。それから未プレイだけれど「魔法少女紀行 ~プリズマ・コーズ~」と「深海電脳楽土 SE.RA.PH」(復刻されないかな?)。 自分はエミヤ〔アサシン〕贔屓なので、満たされる思い。「こうあって欲しいけれど、きっとあり得ない」と抱えていた思いが、「これならなくもないかもしれない」という形で描かれている。このわずかな可能性しかあり得ないのではないか、とさえ思えてきさえする。 前述の作品を踏まえつつ、かといって今後FGOで語られる望みも薄い。それが、こうして形になっているのが、とてもうれしい。 余談。スキル1が強化されて固有スキルにならないかなあ。固有時制御になってヒット数2倍なんかおもしろい。あと霊異でスーツ姿に……(『FGO』の話)。

二人は - Venom

『ヴェノム』(原題: Venom)を見てきた。 主人公ヴェノムは、スパイダーマンシリーズに登場するヴィランの一人。正確には一人ではない。地球人のエディと彼に寄生するヴェノムの二人でヴェノム。だから彼/彼らは、 "We Are Venom." とこう名乗る、ことになる。もちろん地球人のエディが、宇宙から飛来してきた謎の生命を、すんなり受け入れるわけがない。その過程で、ヴェノムの方にだんだんと人間味が出てくるのがおもしろい。案外と世話焼きのようで、エディにあれやこれやアドバイスをしたりする。二人の軽妙な掛け合いを織り交ぜながらのアクションシーンなんか、まさにバディーもの。 エディが心を寄せる相手は、もう一人いる。元交際相手のアン(地球人である。念のため)。彼女とのキスシーンが、ムンクの描く接吻のようで、とても美しかった。そう思ったのは、たまたま ムンク展 へ足を運んだばかりで、まだ記憶に新しかったから、という理由もあるだろう。でも、ヴェノムを介して一体となっていたあの形は、溶け合うように接吻するムンクの作品によく似ている。 本作はMARVEL Cinematic Universeではないけれど、クレジット後に"Spider-Man: Into the Spider-Verse"の映像が。Spider-Verseとして展開していくのかな?

yummy sick - サジちゃんの病み日記 01

『サジちゃんの病み日記 01』を読んだ。人を選ぶ。薦める相手を選びたくなる。自分が薦めたいかどうかも怪しい。深く刺さる人がいるだろうという期待もあるけれど、ドン引きする人もいるだろうという不安も強い。 主人公のサジちゃんはいわゆる「ヤンデレ」。こう書くとテンプレの一種で軽く見えるけれど、彼女の病み方は深くて重い。Wikipediaの説明でいうと、狭義の「ヤンデレ」。その最大の特徴は「ヤン」と「デレ」の分かちがたさ。 広義には、精神的に病んだ状態にありつつ他のキャラクターに愛情を表現する様子を指す。その一方、狭義では好意を持ったキャラクター(「デレ」)が、その好意が強すぎるあまり、精神的に病んだ状態になることを指す。 出典: ヤンデレ - Wikipedia きっと、サジちゃんからしたら「デレ」ているだけだろう。病んだ心の内側に愛情があるのではなくて、(他人からしたら)病んだ心がそのまま愛情。その形が、恐しくて愛おしくて、心臓が早鐘を打つ。 2巻以降、重篤化していくのか寛解していくのか。希望としては、「心の底から後者を願っているのだけれど、実際は前者になって恐怖」したい。決して叶わないのだけれど。自覚したら叶わない希望だから。

うるさい彩 - ムンク展―共鳴する魂の叫び

東京都美術館に行って 『ムンク展―共鳴する魂の叫び』 を見てきた。もう2ヶ月近く前の10月末のことだけれども。開催は1月20日まで。公式Webサイトのギャラリーが充実しているので、作品名からそちらにリンクしておく(いつまで残り続けるだろうか)。 ムンクと言えば 《叫び》 。《ムンクの叫び》とひとかたまりで記憶しているくらい。悲鳴のデフォルメ表現としてもまま見かけるけれど、中央に描かれている人が叫んでいるわけではない。描かれているのは、聞こえてくる叫びに対して耳を塞いでいるところ。と知った風な口を聞いたけれど、他の作品についてまったく知らなかったし、叫びに複数のバージョンがあることも知らなかった。 でも、一番印象的だったのは《叫び》ではなかった(混雑してゆっくり見られなかったというのもあるけれど、何より係員が前に進みながら観賞するよう声をかけていたのにイライラして文句を言っていた人の方が気になってしかたなかった。あとで思えば耳を塞ぐパフォーマンスでもしてやればよかった(そんな度胸はない))。 まず思い出すのが、晩年に描かれた 《自画像、時計とベッドの間》 。自作を背景に、時計(=時間経過=老い?)とベッド(=眠る場所=墓所?)に挟まれて、所在なげに立つ姿。半開きのドアの向こうには具体的なものは何も描かれて折らず、塗り込められている。死後に行く先? などと想像力が刺激される。現在の象徴から敷衍するのは、押しつけがましい気もするけれど。 次に思い出すのが 《月明かり、浜辺の接吻》 、 《接吻》 、 《森の吸血鬼》 。他にも同じ題材の作品が並んでいて、手法と抽象レベルを変えながら繰り返し制作しているのが見て取れる構成だった。満足することを知らない人だったのか、何かの帰結だったのか。

What I See - グランド・イリュージョン 見破られたトリック

『グランド・イリュージョン 見破られたトリック ("Now You See Me 2")』を見た。 前作『グランド・イリュージョン』に引き続き、映像はおもしろかった。ただ、新キャラのとってつけた様な印象とストーリーの蛇足感が否めない。 次に何が起こるかのかと、前作ほどには期待感が湧かなかった。何も考えずに見られた前作は良作だったのだ、と改めて思ってしまう。 ここまで見たら、三作目まで付き合うつもりだけれども。

FGO 「雀のお宿の活動日誌~閻魔亭繁盛記~」雑感その2

「雀のお宿の活動日誌~閻魔亭繁盛記~」のメインシナリオの感想。シナリオについてのネタバレあり。 ボスが鵺だと予想できるだけの情報があったのに、見事にミスリーディングに引っかかっていた。猪年なのに、どうして既存エネミーとしてしか登場しないのだろう? という疑問に留まっていた。頭の回転が鈍い。紅閻魔が舌っ足らずなのは、文字通り舌っ足らずだからだろうということに、遅れて気がつくくらいなので、さもありなん。 エピローグでフィンがほのめかしていた、「あれ」で真っ先に思い浮かぶのは、佐々木小次郎のこと。 お手伝いを始めてから、最初にやってきたサーヴァント。子安貝が縁だと言っていたけれど、宿敵武蔵が以前にここを訪れておりシャドウ・サーバントが温泉に残っていたことの方が縁じゃなかろうか。 その温泉でのクエスト「燕月抄」では佐々木小次郎がふたたび姿を現すも、彼との戦闘はなし。相手はアサシンクラスの猿だった。これが、巌流島の決戦と同じ作戦だとすると、本命が次に来るはず。 彼の宝具〈燕返し〉には、雀=紅閻魔との縁もなくはない。「燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや」は『史記』からの言葉。これに由来するサーヴァントが、第2部3章で新登場しているし、中でも虞美人がすでに登場しているから何か言うかな? 紅閻魔の剣術も「閻雀抜刀術」と音が同じなのも気になる。 と、なると1/8 18:00開放の高難度の相手(剣他2クラス)がセイバー小次郎と猿か? と思いつつ、サプライズを仕込むなら、相手は雀を伴った紅閻魔でサポートにセイバー小次郎だったりして。 でも、それよりうれしいのが、高難度ではなくてシナリオありのクエスト。まだまだクエストが発生していない場所も多いし。らっきょコラボやぐだぐだ明治維新のように2週目から開放されたりしないかな? 抜刀術だけに「隙を生じぬ二段構え」を期待。

FGO「雀のお宿の活動日誌~閻魔亭繁盛記~」雑感

システムが変わったわけでもないのに、標題のイベントのシナリオクエスト攻略が、これまでよりおもしろく感じる。理由を考えてみたのでメモしておく。シナリオが終わってからいうと、あとづけっぽくなってしまうので最終節開放前の今のうちに。 ※直接のシナリオのネタバレはしていないつもりだけれど、少なくとも事前知識無しで攻略したい人にとってのネタバレは含む。 今回のイベント、それまでのシナリオの展開、クエスト名やエネミークラス、何より前節の引きから、次節エネミーを予測しやすくなっている気がする。以前は、編成を選択してからその節のシナリオで誰が来るかわかって、歯がゆい思いをしていたのだけれど。 実はミスリーディングで予測を逆手に取ってくるようなエネミーが出てきたりするのだけれど、それも納得感がある。当たっても外れても楽しい。 あと、随所随所で、巌窟王or狂ランスロット+Wスカディが対策されている。男湯女湯ではそもそも制限されるけれど、別のクエストでその編成だったら確実に落とされそうなギミックが。それもWスカディ使いたくなるエネミー情報だった。 意地が悪いと腹を立てる人もいそうだけれど、自分は素直に取るか裏の裏にかけるかメタゲームがおもしろい(正月休みで時間があるのも大きな理由だろうけれど)。ちゃんと、序盤は素直に狙えばよいけれど、後半に変化球が混ざってくるように設計されているように見えるし。 第二部参照で実装された蘭陵王や、このイベントで実装された紅閻魔、強化された玉藻前の性能を見るに、これまでArtsパーティーを組みにくかったクラスでのArtsパーティーを導入しようとしている気がする。スカディ実装から半年経つし、環境を変えようとしているのかな?