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『Everyday Life:わたしはうまれなおしている』の感想

東京都美術館で 『Everyday Life:わたしはうまれなおしている』 を見てきました。見に行ったというよりふっと惹かれて入った、という方が近いかもしれません(ダメもとで事前予約なしで『ゴッホ展』に向かったら、ダメでした)。 展示されていたのは6人の女性作家による作品。作品形態は、絵画、写真、ガラス作品、織物とさまざま。制作年代も戦前・戦後に活躍されてもう亡くなってしまった方の作品もあれば現役の方が今年製作された作品もありと幅広。女性作家に対する視線、女性で作家であることの在り方に思いを馳せなくもないです。環境・バックグラウンド、製作のきっかけ、作品。自分がこれらのつながりを考えるようになったのはごく最近のように思います。 それはそれとして、貴田洋子さんという方の、津軽こぎん刺しによる作品がもうとても印象的で。人手により作られたパターンライクなテクスチャーに弱いので、近くで遠くでずっと眺めていられます。このツイートで紹介されている《津軽・歓びの春》では、水面に映る空と桜が曲線とグラデーションで表現されているのがおもしろいです。 「Everyday Life : わたしは生まれなおしている」展 作家紹介②  【 #貴田洋子 】1949- 青森・大鰐町に生まれ、独学で身につけた津軽こぎん刺しの伝統模様や運針規則を厳格に守りながらも、独自の手法で表現のあらたな可能性を追い求めています。 #東京都美術館 https://t.co/1m0wJPMsJR pic.twitter.com/yHuvZXG1Rd — 東京都美術館 (@tobikan_jp) October 22, 2021 解説で伝統模様や刺し方(奇数律)を守りながら制作されていることを知り、ドット絵あるいはドット絵のステッチやアイロンビーズでの再現を連想しました。このあたりに自分の好きな作品の共通項があるのかもしない、そんなことを思いつつ。 pic.twitter.com/Pm6d1uU0Xy — 鏡双司 (@SO_C) November 23, 2021 (自分が撮った写真を見ても、幾何学的な構成を好んでいることが伺えるよなあ)

石元泰博写真展/138億光年 宇宙の旅 at 東京都写真美術館

東京都写真美術館に行って 『石元泰博写真展』 と 『138億光年 宇宙の旅』 を見てきた。 『石元泰博写真展』のフライヤーに惹かれて行ってみたらちょうど『138億光年 宇宙の旅』が始まったところだったのでついうっかり。 『石元泰博写真展』 フライヤーに採用されているような幾何学的な構成の写真が多数見られて満足。とくに〈桂離宮〉がエレガント。2010年に写真集『石元泰博 桂離宮』が刊行されているのだけれど、まだ流通しているのかな? 純粋に静物だけで構成されるとグラフィックデザインとの差が消えていくけれど、偶然ぴったり収った瞬間を捉えた写真は見ていてとても気持ちいい。中でも 〈シカゴ 街〉1958-61年 (リンク先中程)がお気に入り。吹き飛ばされる新聞だかチラシだかはきっと左奥に向かっているんだろう、と感じられる(事実はともかく)。 展示後半の造形写真シリーズまでいくと、写真でそんなことしなくてもと思ってしまうけれど、それは今の技術を知っているがゆえの後知恵かもしれないとも思う。コラージュのように写真を素材とした作品ではなく、写真作品として見なされるギリギリまで加工を突き詰めていっているのは現代の方だろうし。 そうそう団地写真(タイトル控え忘れ)もあって、 (1) 大山顕 さん (@sohsai) を思い出したり。 『138億光年 宇宙の旅』 CMDR (ゲーム"Elite: Dangerous", 通称エリデン) にオススメ。特大サイズでプリントされたNASAや国立天文台が撮影した画像が目の前に広がるのは圧巻。キャプションの地球からの距離(光年単位)を見てジャンプ数換算するのはCMDRの嗜み。 こちらは写真撮影OK。記念に撮っていたのだけれど結局図録まで買ってしまった。 ご無沙汰しているのだけれど、エリデン熱が高まってきた。Beagle Point(Solからもっとも遠い星系)目指さないと。

写真とか絵画とか趣味の創作の話

ついなちゃんの喋ったむずかしいこと[1]が趣味で本を読んでいるトピックと重なっていたので、プラスアルファの情報や違う角度からの情報を補ってみます。別に写真に詳しくない人間が偏った知識で書いているので、学術的な裏付けなどは特にないです。 16~7世紀の画家カラヴァッジョみたいにそれを応用したとされる画家もおったし、19世紀のユトリロみたいに写真をモロパクr……ゲフンゲフン、大いに参考にした芸術家はんもいた…… そうした写真芸術との相克の結果として、後の印象派だったりキュビズムだったり、抽象絵画だったりに繋がっていく(続 — 【ついなちゃん】プロジェクト🗻公式(CV:門脇舞以)11/1は #ボイロついな誕2020 ❣ (@Tuina_chan_PJ) November 6, 2020 有名所だとフェルメールもカメラ・オブスキュラを使っていたと言われています[2]。その後、「写真のような」絵画がなくなったかというともちろんそんなことはなく、コロナウィルスの影響がなければ 超写実絵画の襲来 ホキ美術館所蔵 が渋谷Bunkamuraで開催されていたはずでした。 一方、写真は写真で芸術として認められていないという悩みを抱えていました。それを覆すため、19世紀後半に絵画のような写真を作ろうという動き〈ピクトリアリズム〉がありました[3]。ピクトリアリズムでは撮影後の加工も行われましたが、RAW現像やレタッチで仕上げられる現代のデジカメと重なるところがありおもしろいです。 写真芸術と言えば2011年にアンドレアス・グルスキーの作品が写真作品として過去最高額の430万ドルの値が付けられたというニュースを思い出します。これは加工が重ねられた写真らしくない(映り込みが取り除かれレンズの歪みがない)作品で、評価軸としての「らしさ」と「あえて」の違いについて考えたくなります(考えていない)。 それはそれとして、わざわざ美術館に足を運んで観賞するとなると人を動かすのは絵画の方で、フェルメール展が2018年10月5日~2019年2月3日の4ヶ月で68万の人を動かした[4]のに対して、2017年度の東京都写真美術館の年間来場者数が38万人でした[5]。 日本の浮世絵が当時のパリ芸術界でおおいに持てはやされたというのは… いわば新古典主義的リアルなデッサン力が珍...

ゲームの風景 - 新写真論 スマホと顔

『新写真論 スマホと顔』を読んだ。 建造物を撮る写真家が「写真とは何か?」を考えた軌跡……でもなかった。『ゲンロンβ』の連載「スマホの写真論」に書き下ろしが加筆された本ではあるけれど、連載順と掲載順が異なっている。 本書の執筆を経ても「相変わらず人の写真を撮ることに興味がない」というのがおもしろい。人の写真を撮ることに興味がない自分が、この本を読んでも相変わらず人の写真を撮りたいとは思っていない。どうにも蚊帳の外にいる気がしてならない。 そもそも、外出を控えているため、スマホやカメラで写真を撮ることも減ってしまった。代わりにゲーム画面のスクショ(スクリーンショット)が増えている。これらについて、本書では「ゲーム画面保存も記念撮影になり得る」(p.147)や「スクリーンショットと写真撮影」(p.241)で触れられている。 ゲームのスクショについて考えてみると、ゲームのスクショを撮るシチュエーションは、大きく2種類あると思う。 ひとつはゲームクリア、ハイスコア、タイムアタック、レアアイテムドロップなど、証拠写真と重なるシチュエーション。とくにゲームクリアなど誰がクリアしても同じ画面になるにも関わらず、スクショを撮ってしまう。タイムを競うRTA(リアルタイムアタック)の動画になると「写真は誰のものか」(p.249)の〈「ぼく、桃太郎のなんなのさ」問題〉が生じる気がするけれど、ライバルが研究のために見るかも? 検証可能な形で残すアーカイブとしての意味が大きいようにも思う。 もうひとつは風景が実際に存在しない「記念写真」。本書では『ゼルダの伝説 ブレス・オブ・ザ・ワイルド』を取り上げて論じている。「重要なのは写真を撮りたくなる体験を提供する場所が風景として与えられているかどうかだ。ゲームにはそれがある」と書かれている。 少し膨らませて、ゲームが写真を撮りたくなる風景を提供できるようになった理由を想像してみると、まず3Dになったのが大きいと思う。3Dになると、アングルが発生する。ただこれだけだと、著者が「建造物の図面データを入手できれば満足なのかもしれない」のと同じように、データが手に入れば満足なのかもしれない。実際、単に3Dモデルを眺めるだけのモードが用意されているゲームもある。光源に対する影のシミュレートまでユーザがやるなら、ゲームというより3Dモデリングの世界か。 本書で...

世界報道写真展2019@東京都写真美術館

昨年に引き続き、東京都写真美術館で世界報道写真展を見てきた。十分大きな解像度の画像を、World Press Photo FoundationのWebサイト ( 2019 Photo Contest | World Press Photo ) で見ることもできるけれど、足を運んで立ち止まって見ないと流し見してしまうので。 「世界報道写真渾天スト」の応募者数・受賞者数が書いてあるパネルに、女性が10%台から30%台になったというような記載があってひっかかる。女性問題だけでなく、男性の性的ハラスメント被害者 ( Mary F. Calvert CI | World Press Photo ) 、男性性労働者 ( Heba Heba Khamis PO | World Press Photo )、トランスジェンダー ( Jessica Dimmock POS-AJ | World Press Photo ) を扱っている写真もある場なんだから。 複雑で、微妙で、困難な問題だけれど、もしそういう問題を報道機関(本展の主催=朝日新聞)が自ら避けてしまっているのなら、その存在意義を疑ってしまう。

ブルーノ・ムナーリ ― 役に立たない機械をつくった男/アフリカ現代美術コレクションのすべて@世田谷美術館

世田谷美術館へ行って、『ブルーノ・ムナーリ ― 役に立たない機械をつくった男』展と『アフリカ現代美術コレクションのすべて』を見てきた。まずは前者から簡単に感想を。 幾何学的に構成された絵、モールのような作品(これが《役に立たない機械》)、絵本、タイポグラフィー作品などなど、作品形態の多様さに驚かされる。当時の新技術だったスライド(≠PowerPoint)を使った作品(今ならメディアアートと呼ばれるだろうか)もあった。 たまたま自分が最近知ったからか、何回かソ連の芸術を連想した。幾何学的な構成やタイポグラフィーからはロトチェンコ(ロシア構成主義)を、正方形から切り欠いたキャンバスを作りそこに図形を配置した《陰と陽》からはマレーヴィチ。より抽象的には、表現形態に拘泥しないところも共通しているように見える。 続いて『アフリカ現代美術コレクションのすべて』について、二言三言。 エル・アナツイ(El Anatsui)という方の《あてどない宿命の旅路》の不安定さが目を惹く。小さな地震かなにかで崩れたりしないのだろうか。それからアブラデ・グローヴァー (Ablade Glover) の《タウン・パノラマ》の密度。こういう作品、ずっと見ていられる。探せばWebで解像度の高い写真も見られるけれど、絵の具の厚みなんかもわかって直接見た方がおもしろい。 This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 .

絵と文、不可分 - インスタグラムと現代視覚文化論

『インスタグラムと現代視覚文化論』を読んだ。本書は、レフ・マノヴィッチの論考「インスタグラムと現代イメージ」全訳と、日本の執筆者による9つのテキストからなる論集の2部構成。 巻頭言から続けて「インスタグラムと現代イメージ」を読むより、論集最初の2本――「レフ・マノヴィッチとインスタグラム美学」と「なぜインスタグラムだったのか — 最後尾のメディア受容記述者としてのレフ・マノヴィッチ」を読んでおいてもよいと思う。「インスタグラムと現代イメージ」で躓くことが減る。 「インスタグラムと現代イメージ」の貢献は、Instagram[1]の写真を美学的に分類し、Instagrammism(インスタグラム美学)を発見した点にある。もちろん投稿写真の全てがInstagrammismに当てはまるわけではない。当てはまるのは、むしろ少数だ。だから、レフ・マノヴィッチがInstagrammismと名付けた特徴は、他の論考では見落とされている。 というようなことを論集最初の2本を読んで理解した。この前提が頭に入っていない状態で読んだので、自分は盛大に蹴躓いた。と言うより、すっころんで明後日の方向を向いた疑問を抱いた。 「写真論」はなぜ「「写真」論」なのか? タイトルに「現代視覚文化論」とあるが、本書が扱う対象は基本的に写真だ。いつどこで撮られたかというメタデータも扱うが、基本的には撮影により発生し(フィルタ処理など適用された)たデータを分析している。 写真とは発生過程は独立しているけれど、写真と不可分に投稿されるテキストも、俎上に乗せた論考も見てみたい。ただでさえ大きくて理解できていない問題をこれ以上大きくしようとするな、という内心からの警告からは目を背ける。 そんなことを考えるのも、 『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』 の影響。写真は写真、テキストはテキスト、と分断してしまうと、見落とすものがどんどん大きくなっているのではないだろうか。LINEで返事を書く代わりにスタンプで答えたりして、ふとそんなことを思う。 データとしては、特徴量ベクトルにしかならないのだから、どうにかならないかなあ。とラフもラフなことを考える。 [1] カタカナ表記だと、自分には別の何かに見えるので英語表記にする。

3 bird, 2 insect, 1 reptile photos

This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 . This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 . This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 . This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 . This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 . This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 .

黄色い岐路 - 世界を変えた書物展

上野の森美術館で9月24日まで開催されていた、 『世界を変えた書物展』 に行ってきた。 様々な分野の巨人の手による書物の数々が並んでいる。有名所だと、ニュートン、アインシュタイン、ダーウィン、レントゲン。名前を挙げ出すとキリがない。彼ら/彼女らの肩の上に乗って、現代の技術まで積み重ねられてきたことに、改めて思いを馳せる。黄ばんだこれらの本のどれかが欠けていたら、技術史は今とはまったく異なるものになっていたのだろうか。とか、これらの本だけではなくて、知らないだけで膨大な積み重ねがあるのだろうなあ、とか。 同時に、目の前の書物の来歴にも、及ぶところではないだろうけれど、想像を巡らせる。数百年のオーダーの時を経て、今も保存され続けている確率はどれほどのものなんだろうか。現在、出版されている本の中で、たとえば30世紀まで残り続けるのは、どれくらいの割合なんだろうか。 それはそれとして、本好きとしては触ページをめくって読んでみたくなるところ。貴重な本だから当然なのだけれど、1冊1冊ケースに入れて展示されていた。仮に手に取れたとしても、そもそも読めないし、単語を認識できたとしても、理解できないだろうけれど。いや、そもそも恐くて触らない気もする。 写真は「アポロ11号任務記録(月着陸更新記録)、月面への第一歩」。

海・石・仏 - 海の道 ジャランジャラン@東京国立博物館 東洋館

東京国立博物館に行って、企画展『海の道 ジャランジャラン』を見てきた。テーマは今年2018年で国交樹立から60年となるインドネシア。 伝統的な人形芝居ワヤンで使われる(と展示で知った)人形が、各種広告で印象的だったので、実物を見てみたいと思い。 目の当たりにすると、予想だにしなかったサイズに驚いた。展示台のうえとは言え、視線の高さが同じくらい。薄いとは言えそれなりの重さはあるはずで、芝居を演じているうちに、腕っぷしが鍛えられそう。 黒い肌に赤や金の装飾という配色、独特の表情、長い手足が特徴的だった。ところで、こういう雰囲気のグラフィックのアクションゲームがあった記憶がかすかにあるのだけれど、どうにもこうにも思い出せない。 おもしろかったのは、演じられるのがインドの叙事詩『マハーバーラタ』、『ラーマーヤナ』という点。「Java」と「JavaScript」は「インド」と「インドネシア」くらい違うという比喩を思い出す。ヒンドゥー教寺院で祭などのときに演じられたというから、ヒンドゥー教の一部として伝わってきたのだろうなあ。 『Fate/Grand Order』をプレイしているので、カルマ、アルジュナ、ラーマ(ロモ表記)の人形に反応してしまう。 ところで、インドネシアってそんなにヒンドゥー教徒が多い国だったっけ? と思って、とりあえずWikipediaをざっと眺めてみたら、人口2億人以上で世界第4位、ムスリム(イスラム教徒)人口は世界最大と、大きなイスラム国家だった。 でも偏りを見ると、観光地として有名なバリ島は90%以上がバリ・ヒンドゥー(仏教とヒンドゥー教が習合した土着の宗教)教徒とのこと。アジア地域の歴史を調べるのもおもしろそう。 と思ったのも、東洋館の常設展示で、インドと中国の仏像を見たため。今ではヒンドゥー教徒が最多だが、仏教が発祥したのはインド。そこで作られた仏像は、インド映画の主役のように巻き毛で彫りが深く、ときには髭をたくわえている。それが中国に広まってから、彫りの浅い東アジア系の顔になっていく。 展示されていた仏像は主に石仏で、中でも目に焼き付いているのは武則天が宝宅寺に建立させた像がいくつも並んでいる様。中国史において、唯一の女帝である彼女が権力を強化するための手段の一つだった模様。 展示からは外れるが、武則天は...

回って揺れて / インゲヤード・ローマン展@国立近代美術館 工芸館

東京国立近代美術館 の工芸館で、 『インゲヤード・ローマン展』 を見てきた。国立公文書館で 『躍動する明治』 を見たあと、時間に余裕があったので、そこから歩いて10~20分。 薄くシンプルなガラス製品が美しい。2年前の2016年にIKEAでお手頃な値段で発売された製品もあるらしい。限定品だったので、今は買えない。残念。 こういうシンプルな製品の方が、飽きずに長く使えて愛着が湧くと、頭ではわかっている。でも、癖のある製品と並んでいると、後者を選んでしまうことが少なくない。自分の背中を押してくれるハッキリとした何かがないと、迷いが生じてしまうのかもしれない。 衝動的だったり、変わり者気取りだったり。なんて原因の方がもっともらしい気もする。 写真はよい。とくにデジタル写真は。衝動的に撮っても後腐れが少ないし、変わった視点を探すのも楽しい。視点について考えていると、製品そのものではなくて、それが自分の暮らす部屋に置かれたときの、バランスを考えてしまう。あるいは、アンバランスが嫌でも気になる。 遠心力で整形したという製品(撮影不許可)のわずかなゆらぎが印象的だった。手仕事ではないのに、ゆらいでいるのがおもしろい。

3 monochrome photos

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смотреть≠видеть - ロトチェンコとソヴィエト文化の建設

『ロトチェンコとソヴィエト文化の建設』を読んだ。 『アート・オブ・デザイン』 のポーラ・シェアの回、彼女の作品に〈ロシア構成主義〉からの影響があると知った 『20世紀のデザイン:グラフィックスタイルとタイポグラフィの100年史』 、社会主義体制でのアートについての章がある 『人工地獄 現代アートと観客の政治学』 、ロシア現代思想を特集した 批評誌『ゲンロン 6』、『〃 7』 と〈誤配〉を楽しんでいる。 まず表紙が目を引く。〈ロシア構成主義〉の様式をうまく取り入れていて、目に入った瞬間の一撃が強烈。しかも読み終えてみれば、ピッタリだとわかる。2018/08/30時点、Amazon.co.jpには書影が登録されていないけれど、 出版社の書籍紹介ページ で見られるのでぜひ画像をクリックして拡大したのを。 その〈ロシア構成主義〉を始めた人物の一人が、アレクサンドル・ロトチェンコ。この本の主題となる――なんと紹介したらいいんだろう? とても一口に語り尽くせない。画家でもありデザイナでもあり写真家でもあり、思想家でもあった。合目的性に従って全体が構成されるべきだという思想を実践していたからだろう。表現手段を躊躇いなく切り替えていく。 とりわけ、興味が湧いたのが写真に対する考え方。ロトチェンコは見る/見えるを明確に区別していたとのこと。 ロトチェンコは「見る(смотреть = look)」と「見える(видеть = see)」を区別し、前者を意識的な視覚、後者を意識なき視覚としてとらえている」 出典:『ロトチェンコとソヴィエト文化の建設』p.186 まさに最近よく( 1 , 2 , 3 , 4上 , 4中 , 4下 , 5 の特に5)考えていた写真の見方/見え方のことだった。もう少し詳しく知りたい。 その他にもいろいろとフックになった。ただ散漫なので、 読みながらのツイートをtogetterにまとめる にとどめる。 写真だけでなく写真のテキストの関係も独特の考えを持っていたようだし、絵画では、マレーヴィチの《黒の正方形》と対比され、「最後の絵画」と評された《純粋な赤》、《純粋な黄》、《純粋な青》と《黒の上の黒》の関係なんか、 ベンタブラック が開発されたり、その独占使用権を買った アーティストの作品に観光客が落ち たり、そのアーティストだけは買え...

椅子と階段 - ブラジル先住民の椅子@東京都庭園美術館

東京都庭園美術館 に行って、展覧会 「ブラジル先住民の椅子」 を見てきた。 「ブラジル先住民」と一口に言ってもその数は多く、この展覧会ではそのうち17の部族からの椅子が紹介されているとのこと。出展元のベイ・コレクション(ブラジル先住民の椅子に特化したコレクション)には27の部族の椅子があるそう。 木肌に幾何学模様が描かれているので、遠目には落ち着いたたたずまい。近くで表情をうかがってみると、愛嬌があってかわいくて、見ていて飽きない。特にカエルがいたのは得点高い。 展示品だけでなく、美術館―― 旧朝香宮邸 も華やかだった。屋敷の階段ってなんか惹かれるものがある。 あと書斎には憧憬がある。というほどのものか、すぐに本が溢れるので大きい本棚が自由に使いたいというくらいなので。

ごっこじゃないプリント - 印刷博物館

This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 . 印刷博物館 に行ってきた。 お昼過ぎに飯田橋に行く用事ができたので、その後に寄ってみた次第。正確には、ついでにどこに行こうかと飯田橋で考えていたら、地下鉄駅構内の看板が目に入ったので、フラリと入ってみた(徒歩20分弱かかったのをフラリと言えれば。あと休館日じゃなくてよかった)。事前知識ゼロだったけれど充実した時間を過ごさせてくれた。300円という入館料がありがい。運営しているのは凸版印刷。お金、大丈夫なんだろうか(余計な心配)。 ◆ もっとも興奮したのは、総合展示ゾーンのグーテンベルク関連の展示。ドイツの博物館にある活版印刷機の想定復元模型をもとにした縮小版、『42行聖書』のレプリカ、想定復元活字。そして何より 〈グーテンベルク 42行聖書 原葉〉 。160~180部ほど刷られて、何ページあるかは分からないけれど、その1枚が目の前に。現代の活字文化がこれを起点に始まったのかと思うと感慨深い。 出口付近には 〈印刷の家〉 という名前のスペースがあって、そこでは活版印刷を体験することもできる(時間が合わなかったので諦めた)。それでも、印刷機や活字が並んでいるのを見るだけでもウキウキする。冒頭の写真はそこで印刷された配布物を、文字ごとに切り離したもの。せっかく組んだ文章を再びバラバラにする背徳感。 また、ここで印刷されたものがミュージアムショップで販売されている (商品紹介) 。一目惚れしてフォントコースターとポストカードをおみやげに購入。ここまで何の話題にもしていないけれど、〈神戸湊川貿易製品共進会〉北野恒富 (1911) が、ミュシャのスタイルを模倣して描かれていてツボだったので、これもポストカードを購入。 これらの歴史的な展示物だけでなく、印刷技術の解説もわかりやすい。「シルクスクリーン」とか「オフセット印刷」とか、見聞きするのに仕組みがよくわかっていなかったのが、わかりやすく説明されていた。調べればわかるけれど、調べようとは考えもしていなかったことを知らされると、意外と新鮮。 ◆ ミュージアムショップ横の「P&Pギャラリー」ゾーンで 「グラフィック・トライアル2018」 という展示も開催されていたので拝見。こちらは大日...

ためらい - さすらい

『さすらい』を読んだというか、眺めたというか、ランダムアクセスしているというか。ともあれ、少なくとも1回は最初から最後までページをめくったし、ふと順繰りに眺めたり適当なページを開いて拾い読みしたりしている。 この本はレイモン・ドゥパルドンのエッセイ? 写真集? 説明し辛いので、 出版社の商品紹介 を見てみてほしい。見開き左ページに文章が右ページに写真が配置されて独立に並走する構成になっている。 前から文章を追っていくもよし、写真だけを眺めるもよし、適当に見開きで眺めるもよし。いろいろな楽しみ方ができる作りになっている。文字と写真の往復でひっかからないのが意外と新鮮。縦長のモノクロ写真で統一されているからだろうか。ノベルスの挿絵入りページのように左右どちらも白黒になる。人の視野角は横に広がっているのとも関係しているかもしれない。 影響されやすいので、しばらく離れていたモノクロ写真をまた撮り始めてみた (正確にはあとからモノクロにしている)。 This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 . このエントリィ用にサイズ調整していて、フォーマットが4:3ではなく3:2になっているのに気がつく。どうりでいつもより縦に長い。これまでずっと4:3だったし、あとで戻しておこうかな。 This work by SO_C is licensed under a CC BY-SA 4.0 . でも、この文章を書くにあたって読み返していたら、こんな文章に行き当たった。 写真には、24×36mmというフォーマットがある。これは途轍もなく優れたフォーマットで、非常に使いやすい。むしろ安直といえるほどだ。20×25mmという大判のフォーマットもある。こちらはまず対象を眺め、その都度フィルムを装填し、倒立した像を見なければならない。『さすらい』に関しては両者の中間を選んだ。 中間っていくつだろう? と思って写真のサイズを測ってみると11.5×17cm。比率はおおよそ1:1.48になる。24×36mm (1:1.5) よりは縦に短く、20×25mm (1:1.25) よりも3:4 (1:1.33) よりもさらに縦長。日本ではL判 (4:3) が一般的なので、自分にとって「安直」なのは4:3。うん、あえてこのま...

写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (5/N) - 見せられる≠見える

ここまでの『写真、芸術、報道、メディア・リテラシー』エントリィ一覧。 (1/N) - ピクトリアリズム(西洋絵画調)写真 (2/N) - ルネサンス、オリエンタリズム、グローバリゼーション (3/N) -『フェルメールのカメラ 光と空間の謎を解く』 (4/N)〈上〉 -『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』 (4/N)〈中〉- 人、背景、メッセージ (4/N)〈下〉- 理由、理由、理由 終わりが見えなくなってきた。というわけでもないか。それ最初から見えていない。なら終わらせにいこう。次くらいで (今回終わる見込みがないことだけは見えている)。 ◆ 前回は〈見る側〉へと視点を切り替え、「どうして写真展を見に行ったんだっけ?」と改めて自問してみた。それで、理由なんて存在しないものを躍起になって探さなくていいか、と思い直した。そんな話だった (ハズ)。それから、偶然の連続に "Everything is connected." なんて思ったりした。これからは全体論的ブロガーを名乗ってもよいのではないか? (好きにすればよい) 今回はもう少し視点をズラして、〈見せる〉と〈見る〉という能動態から離れる。〈見せる〉と〈見せられる〉という能動態と受動態には向かわない。〈(写真が) 見える状態になる〉という中動態 [1] の動きから考える。 なぜなら、大半の人は写真展をわざわざ見に行ったりしない。世界報道写真展2017の入場者数は約3万人 [2] 。同年開催のミュシャ展は60万人以上の入場者があった [3] ので、その20分の1に満たない。これだけカメラ付き携帯 (とわざわざ言わなくても携帯といえばカメラが付いているものと相場が決まっている) が普及して、おそらく写真撮影を未経験の人の方が少ないにもかかわらず写真展に足を運ぶ人は少ない。あるいはだからこそ? 写真くらい誰でも撮影できるから大したものではないだろう、という無意識がはたらいて、見に行きたいというモチベーションが湧かないのか? 普段、大半の人は大半の写真を意識して見ていない。それが自然な状態。人間は、目に入るものすべてを同じようには見ていない。焦点が合う中央視野はごく狭く、解像度の低い周辺視野が視界の大半を占めている。そこでは、動きが知覚されないものは意識に上...

写真、芸術、報道、メディア・リテラシー(4/N)〈下〉 - 理由、理由、理由

ここまでのエントリィ一覧。 写真、芸術、報道、メディア・リテラシー(1/N)ピクトリアリズム(西洋絵画調)写真 写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (2/N) ルネサンス、オリエンタリズム、グローバリゼーション 写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (3/N) - 『フェルメールのカメラ 光と空間の謎を解く』 写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (4/N) 〈上〉 - 『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』 写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (4/N) 〈中〉 - 人、背景、メッセージ いろいろと書いてきたけれど、基本的に〈見せる側〉の話だった。企画する人、写真を撮る人、文章を書く人、写真を選ぶ人、パッケージとして編集する人。そんな人たちの話だった。 ここで振り出しに戻って「どうして写真展を見に行ったんだっけ?」と振り返ってみたい。それで、〈見る側〉について「なぜわざわざ見に行くのか?」「なぜ見てしまうのか?」考えたい。少なくとも9年前つまり 『フォト・リテラシー――報道写真と読む倫理』 を読もうとした時から、考えるともなく考えていたような気もするし[1]。カルティエ=ブレッソンの《サン=ラザール駅》を、初めてそれと意識したのも(たとえすっかり忘れてしまっていたとしても[2])この本だった。せっかくここまで来たので、うっかり続ける(だからどんどん長くなる)。 ◆ そもそも東京都写真美術館に行ったのは、写真展「世界報道写真展2018」 だけ が目的だった。出自が確かで高く評価された報道写真が何をどのように見せているのか、この目で見てみたかった。「何を」については、好奇心に近い感情もあったと思う。1ヶ月ほど前のエントリィ 『日露の日常 - ゲンロン6、7のロシア現代思想 I, II』 に書いた「わからなさ」への小さな抵抗とも言える(やっと〈哲学〉タグを回収できた)。 いまぼくたちは、同世代のアメリカ人が、ヨーロッパ人が、あるいはアジア人が、なにを考え、なにについて考えているのか、驚くほどわからなくなっている。 出典:『ゲンロン6』「受信と誤配の言論のために」 ただ、どちらかと言えば「どのように」の方に関心があったと思う。日々目に入ってくる写真にうんざりしていて、そうじゃない見せ方に触れたかったとも言える。流れ続けて...

roots, family - HOME

写真展 『HOME』 に行ってきた。富士フイルムとマグナム・フォトの共同プロジェクトで、16人の写真家が、GFX 50S( CAPA CAMERA WEB によると1人はX100F)を使って制作した、「HOME」をテーマとした作品が展示されている。 自身のルーツ、パートナーや子供あるいは親それからペット、生まれ育った家や街など色々な形があって、自分の場合についても考えずにはいられなくなる。 自分の境遇との距離は当然バラバラなのだけれど、我が子を見守る親としての心とか、親の老いを直視したときの子としての複雑な気持ちとか、久し振りに生家/生地を訪れたときの感慨とか、ノスタルジックな思いも湧く。ゲオルギィ・ピンカソフという写真家の生家を撮った作品が印象深かった。『惑星ソラリス』への言及で物語的なイメージが大きく広がったからだと思う。 そんななか、唯一の日本人写真家の作品に、もっとも強く疎外感を感じたのはなかなかショッキングな体験だった。瀬戸内海の島々を空撮した作品で、厳島神社も抑えている。日本は美しい島国でそれを表現するには瀬戸内海だそうだ。親密さも、生活感も、個人の視点さえも見えなくて気持ち悪い。 「嗚呼、我が心の 故郷 ( ふるさと ) 日本よ」というフレーズが脳裏によぎる。 余談だけれど、この方の作品、展示されていたのはカラーなのに本展写真集ではモノクロだった。どうしてだろう。 7/30 (月) まで代官山ヒルサイドテラスで開催中。詳しくは 公式サイト へ。(珍しく開催期間中にエントリィ書けた)。

写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (4/N) 〈中〉 - 人、背景、メッセージ

書き連ねること5本目の4〈中〉。〈下〉にするつもりが〈中〉になった。小分けにしないとなかなか更新できない。小分けだからといって、すぐにできるわけでもないけれど。 ここまでで、 写真展「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」の《夜明けと日没》 、 写真展「世界報道写真展2018」の《Klin Cave》 、 書籍『フェルメールのカメラ』 、 書籍『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』(以降、『カルティエ=ブレッソン』) を中心に書いてきた。 前回、脚註に飛ばしてしまったけれど「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」にはカルティエ=ブレッソンの《サン=ラザール駅》も展示されていた。ようやく一巡りした気分。でもまだ続く。 今回は『カルティエ=ブレッソン』の第III部「カルティエ=ブレッソン後の写真言説――ポストモダンの時代へ」第8章「フォト・ルポルタージュの現在」で知ったレイモン・ドゥパルドンとセバスティアン・サルガドの話。 ◆ 2本目 でも引用したドゥパルドンの疑問から始めてみる。 フォトジャーナリズムとは、いまだに〈西洋〉の自画自賛――第三世界や第四世界との対比における――にすぎないのではないか? 出典:『さすらい』 『さすらい』の底本 “Errance” の出版から20年近く経って、〈西洋〉に対する〈第三世界〉や〈第四世界〉というシンプルな構図ではなくなっている気はする。まっさきに思い出すのは、「世界報道写真展2018」で見た、イスラムを扱っていた何枚もの作品。 ただ、構図が変わっても、疑問が消滅したりはしない。 あからさまな「やらせ」は姿を消したとしても、メッセージありきで目的地へ赴き被写体を探し演出し撮影し選び加工しテキストを付けるという工程は健在だろう。 外と対比して内を讃えるのは、一般的な傾向だと思う。古くからことわざで「人の不幸は蜜の味」と言うし。それを支持する心理学系の研究もどこかで読んだ記憶がある。周囲がそれより幸福と思っていると、不幸な気持ちになるというような実験結果だった(記憶が曖昧だと過度に一般化してしまうので、あとで掘り起こそう) [2] 。 自分たちの幸福を実感するために不幸な人々を見たいという内需も、それに応えようとする意図的な供給も、意図せずにそれに応えてしまっている偶然の供給も、どれひとつなくなるとは思えな...