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Fate/Grand Order 『惑う鳴鳳荘の考察』ネタバレありの感想というか妄想というか

Fate/Grand Orderのイベント『惑う鳴鳳荘の考察』が最後の17節まで公開されて(5/21)、小説版が発売されるまで(5/25)に書いておきたいことができたので、簡単に。ゲームシナリオについてネタバレありのプレイ後の妄想。











どこまでが問題編か明かされる前に、先を予想するにあたって次の2つを「疑えた」ので自己満足している。
(1) モリアーティが「善人役」である可能性
(2) 特異点での撮影前から、紫式部から粗筋を知らされていた可能性
(3) 既に撮影に介入している可能性
(4) 練習分も含め、撮影順とは異なる順序で映画として成立させる可能性
そのうえで何を企んでいるのか? と疑うのだけれど、あらかじめ紫式部に入れ知恵していて、紫式部が倒れたのまで彼のせいでは? と考えたのは疑い過ぎた。読み返してみると撮影中に思考を誘導していたよ、「今の映像は本編に使わなくてはいけないヨ。」とか! 「実は生きていた説が出てこない限り、私はやりたい放題なのだヨ……!」とかほとんど自白じゃないか!!

ともあれ。(1)に思い当たったきっかけは、ホームズのモリアーティに対する「正しく疑えない」という評価。これを思い出すと、どの考察に投票すべきか? も、紫式部がどんな脚本をで撮ろうとしていたか? もあらかじめ問われているのでミスリードだと思えてくる。バーソロミューは途中入退場なので除外。マシュも考察こそなかったがジャンヌ案に賛同していたので除外。というわけで「モリアーティをどう疑うか?」を考えて、(1)〜(4) の可能性に辿り着いた。

そのメタ疑問を念頭にそれまでのシナリオを思い出すと、出演者の中で彼だけがカルデアでの紫式部から出演を依頼されるシーンが描かれていて、それが「難しい役」だというのが引っかかる。そこを足場に疑問に疑問を重ねていったら「彼は、カルデアにいたとき=撮影前段階から、紫式部から、「善人役」を演じることを知らされていたのでは?」という疑問に行き着いた。「善人役」を疑ったのは、「善人の振りをした悪人」よりも「悪人と思われているけれど実は善人」の方が彼のキャラクタから離れているから。そっちの方が、彼にとっては難しいと考えたくなるじゃない?(ここで大事なのは彼にとって難しいかどうか? ではなくて紫式部が彼に「難しい役」として頼みそうなのはどちらか?)。そこを疑えれば、(2), (3)は地続き。(4)はそれに加えて、このシナリオでは「いつ」がポイントの「映画ならでは」の解決を自分は期待したので、ホームズが言われたようにそこから逆算。

そのあと、きっと暗躍を好むだろうモリアーティならでは動機を考えさせられたのは、直前の事件簿コラボで「ホワイダニット」を強調されていたせいというのは考え過ぎか。ああいう形で前に出るとはまったく思わなかった……。

解決編が公開されて1日経って、モリアーティに掻っ攫われて正直さらりと読み流してしまった、そこに至るまでをちゃんと振り返ってみると、紫式部がゲームシナリオで語った範囲が狭過ぎるような気がする。アンデルセンが「バッドエンド」と言っていたことだし、ミゲルとしては親から子へと向けた愛情だったのだけれど、それを恋愛感情と思い込んで彼のあとをガブリエラが追ったあとに、実はミゲルが生きていてガブリエラの幸せを願っていることが明かされるくらいのすれ違いが構想されていてもおかしくない。小説にはどこまで書かれているかなあ。

というわけで最後にゲームシナリオと小説版の関係について。『竹箒日記』の「2019/5/16:無題。(きのこ)」によるとシナリオ原作も小説版を書いたのもミステリー小説家・円居挽さん。シナリオ原作ができたのは1月で、ゲームのライターチームによるリライトを経てゲームシナリオとして完成。小説版はその後にシナリオ原作者が小説として執筆。ゲームでプレイ済みでも楽しめそうなので届くのが楽しみ。

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