国立新美術館で『クリスチャン・ボルタンスキー – Lifetime』を見てきたが、どうもおもしろくなかった。前半でわかったつもりになって、思考が収束モードになってしまったのもいけなかったかもしれない。
場所と作品の相性が悪かったようにも思う。みどころに「日本で過去最大規模の回顧展」とあるが、それでも狭過ぎたのでは。例えばCat.41〈黄昏〉の作品リスト掲載の写真と実際の展示形態は大きく異なる。そのため、視覚的にも聴覚的にも複数作品からの情報が混ざるため気が散る。3~4の作品の視覚情報+1作品の聴覚情報が入ってきたりする。ただ、作家の意に沿わない形ではない。概要に「作家自身が、展覧会場に合わせたインスタレーションを手がけます」とある。
というのも後付けの理屈で、ものの信じ方が違ううえに好みではなかった、というのが本当のところなのかもしれない(そんなところがあるとして)。
まずネオンサインの "DEPART"が目に入るわかりやすさ (Cat.39)。最初に映像作品で足を止めさせて動揺を誘うわざとらしさ(Cat.1, 2)。
時系列に並べられたある一家族のアルバム (Cat.6)、シャッフルされた「匿名の人々」の写真(Cat.30)、自分の記憶の復元 (Cat.3, 4)。自分の過去のポートレイトのモンタージュ(Cat.33)、自分の仕事場の映像ログ(Cat.34)。
礼拝堂 (Cat.27)、隣接する死後の世界 (Cat.8)、自分の心臓音Cat.31、Cat.30の変型ともいえるモーフィングする自分の顔(Cat.35)、その向こうには天国からの死者Cat.7。その周囲に展開されるのは、死者の写真をイコンのように配したCat.9-20, 22, 23, 26, 29。聖骸布と聖母を重ね合わせたようなCat.25。
作者は、他者の記憶と交わらず、自分の過去と交わりながら、その心臓はいつまでも鼓動を続け、心象風景の中で神聖視する死者に祈りを捧げつづける。こんなイメージを抱いてしまい、その他者の入り込む余地のなさに、軽く言えば白けてしまい、重く言えば拒絶反応が出た。
自我なんて曖昧なもので、やがて死者になるもので、そこに信心もさしてないと思っているので、まったく重ならない。
以下はここまでに参照した作品のタイトル。
- Cat.39 出発
- Cat.1 咳をする男
- Cat.2 なでる男
- Cat.6 D家のアルバム、1939年から1964年まで
- Cat.30 青春時代の記憶
- Cat.3 1951年にクリスチャン・ボルタンスキーが所有していた一組の長靴の粘土による復元の試み
- Cat.4 1948年から1950年にクリスチャン・ボルタンスキーが使用していた椀とスプーンの粘土による復元の試み
- Cat.33 自画像
- Cat.34 C・Bの人生
- Cat.27 コート
- Cat.8 影
- Cat.31 心臓
- Cat.35 合間に
- Cat.7 影(天使)
- Cat.9-15 モニュメント(シリーズ)
- Cas.16-19 保存室(シリーズ)
- Cat.20 シャス高校の祭壇
- Cat.22 死んだスイス人の死霊
- Cat.23 174人の死んだスイス人
- Cat.26 三面記事
- Cat.29 往来
- Cat.25 ヴェロニカ
ところで本展では作品のとなりにキャプションがなくて、代わりに作品リストに載っているのだけれど、それをちゃんと見ている人が多いのがおもしろかった。作品の隣にあるときに確認している人よりずっと多い。自分が何を見ているかわからない(わかっているつもりになれない)のが不安なのかもしれない。