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bet time story - 賭博師は祈らない1~5

『賭博師は祈らない』の1~5巻を読んだ。これにて完結。5巻が発売されると知って積ん読をようやく読み始めたら、すっかり引き込まれて発売を待たずして全巻既読に[1]。

電撃文庫から発売されているけれど、ライトノベルに留まらない一般性を感じる。テンプレっぽいラノベ(異世界、能力バトル、ハーレム)は受け付けない、逆それらしか受け付けない、どちらの人にもお勧めできる(のでこうしている)。

まず舞台設定。十八世紀末のロンドン。異世界でもないし、剣も魔法も超自然も出てこない。登場人物達が異能力を持っていたりもしない。主人公ラザルスはじめ、賭博師たちが尋常ではない能力を発揮するけれど、手品や占い (ホット/コールド・リーディング [2]) の技術の延長線上。

そして魅力的な登場人物達。主人公ラザルスは鈍感でも難聴でもない。鈍感な賭博師だったりしたら、いいカモにされてしまう。賭博の場から離れた途端に難聴になったりもしない。そもそも表紙を飾るリーラとのコミュニケーションは筆談だ。彼女は言葉を発することができない。ついでに言っておくと最初から好感度MAXだったりもしない。むしろマイナススタート(念のためいっておくがツンデレ・クーデレの類でもない)。

脇を固めるキースとジョンもそれぞれの生き様があってよい。自分はジョンの豪放磊落さ加減がお気に入り。1巻あとがきによると、ジャック・ブロートンという実在の人物が元ネタとのこと。ボクシングのルールを制定した人らしい[3]。二人とも、全てを投げ打って主人公を助けたりはしない。この距離感が心地良い。

もちろん賭博シーンも手に汗握る。のだけれど、それ以上に面白いのがメタゲーム。大事なのは、ただ勝つことではなくて、それで得るものということを改めて思い出させてくれる (好きにできるお金の範囲で過程を楽しむ娯楽は別として)。だから目的のものを持っている相手を、テーブルにつかせて、さらにそれを賭けさせないといけない。だから賭博の場が開かれる前から引き込まれてしまう。それはもうぐいぐいと。

一方で、相手にそれを賭けさせるということは自分も相応の何かを賭ける必要がある。お互いが自分の手にしているものより相手の手にしているものの方が欲しいなら、売買なり交換なりで穏便に片がつく。養父から「何かを得たならば、それは何かを賭けたということ」で「往々にして、何を賭けたのか見失いがちになる」と教えられたラザルスが、何を得るために何を賭けるのか。賭けの時間が始まる前から、「何に」賭けるか選ぶ前から、「何を」賭けるか想像するだけで心拍数が上がってしまう。

ところで賭博師に限らず、誰だって食事のたびに生き物の命を(直接/間接に)手にかけてモノやサービスにお金をかけて何より何をするにしても時間をかけているわけで、そのうえメニュー選びや料理に失敗したり買い物に失敗したり費やした時間に報われなさを覚えたりで、自分は何を失って何を得ているんだろうか? と考え込んでしまって思いがけず、こんなに長々と感想を書けたりしたので、とりとめに欠けているけれどこのあたりで。

[1] 1巻が出た2017年3月からずっと気になっていたので、約2年の隔たりがあることになる。気の長い話。
[2] 平たく言うと、事前の情報収集と対話と観察による情報の獲得。
[3] 気になってきたのでボクシング成立の歴史でも調べてみようか。

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