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#おもしろ同人誌バザール 大崎10で買った本

年の瀬も迫った本日12月30日、ふと思い立って(大掃除や動画編集をほっぽり出して) 「おもしろ同人誌バザール大崎10」 に行ってきました。これは、全年齢対象のみで情報系(及び評論系)同人誌がラインナップにあればOKというゆるやかな企画です。なお「サークル側で「これは情報系同人誌だ」という信念を持って頒布される分には、あまり細かい追及はいたしません」とのこと。 グッズ2点と本3冊をゲットしてきたので簡単にご紹介。 最初にお伺いしたいのは ついなちゃんのところ 。ボカロ界隈では先月末に発売したばかりの Synthesizer V (Std/AI) が話題ですが、『方相氏&追儺式ガイドブック』や『方相氏&追儺式年表』を頒布する方相氏&追儺式の研究者でもあります。寺社との交流も深く、12月18日に 紅冨台寺様 にて 第1回ついなちゃん祭り が開催されたばかり。 こちらではついなちゃんモチーフのカードホルダーとストラップをゲット。これを装備して第2回ついなちゃん祭りには参加する意気込み。第2回からは夏に開催される予定なのであっという間な気がします。ともあれ、たくさん遊んでもらっているのでご挨拶できてよかったよかった。ちなみにガイドブック二〇二〇年度版と年表第一版は所有しているので次版に期待中。 というわけで最初に紹介する本は 音食紀行様 の『音食紀行 総集編 vol.III シャーロックホームズ』。カジュアルなシャーロキアン(ホームズファン)なので、原典の食事シーンと合わせて写真やレシピ、食レポが見られるのが楽しいです。パラパラと眺めていると 『シャーロック・ホームズとお食事を―ベイカー街クックブック』 を参考に作られているご様子。イギリスは飯マズというステレオタイプがありますが、なかなかどうして好評だったメニューもあるので試してみたいところ。 2冊目は ささつゆ様 の『みりんの飲み方 総集編』。今年の頭あたりに、フォロワーさんがみりんを飲んでいたのを見て、 みりんと炭酸水でコーラの味に? 17種のみりんを飲み比べたレビュー本で新たな扉が開けそう:司書メイドの同人誌レビューノート を読んでみて、自分でも「三州三河みりん」を飲んでみたりしていたのですが、今や紹介されているみりんは倍の34種類。レシピやみりんを使ったお菓子の紹介もあれば、碧南みりん旅

『Everyday Life:わたしはうまれなおしている』の感想

東京都美術館で 『Everyday Life:わたしはうまれなおしている』 を見てきました。見に行ったというよりふっと惹かれて入った、という方が近いかもしれません(ダメもとで事前予約なしで『ゴッホ展』に向かったら、ダメでした)。 展示されていたのは6人の女性作家による作品。作品形態は、絵画、写真、ガラス作品、織物とさまざま。制作年代も戦前・戦後に活躍されてもう亡くなってしまった方の作品もあれば現役の方が今年製作された作品もありと幅広。女性作家に対する視線、女性で作家であることの在り方に思いを馳せなくもないです。環境・バックグラウンド、製作のきっかけ、作品。自分がこれらのつながりを考えるようになったのはごく最近のように思います。 それはそれとして、貴田洋子さんという方の、津軽こぎん刺しによる作品がもうとても印象的で。人手により作られたパターンライクなテクスチャーに弱いので、近くで遠くでずっと眺めていられます。このツイートで紹介されている《津軽・歓びの春》では、水面に映る空と桜が曲線とグラデーションで表現されているのがおもしろいです。 「Everyday Life : わたしは生まれなおしている」展 作家紹介②  【 #貴田洋子 】1949- 青森・大鰐町に生まれ、独学で身につけた津軽こぎん刺しの伝統模様や運針規則を厳格に守りながらも、独自の手法で表現のあらたな可能性を追い求めています。 #東京都美術館 https://t.co/1m0wJPMsJR pic.twitter.com/yHuvZXG1Rd — 東京都美術館 (@tobikan_jp) October 22, 2021 解説で伝統模様や刺し方(奇数律)を守りながら制作されていることを知り、ドット絵あるいはドット絵のステッチやアイロンビーズでの再現を連想しました。このあたりに自分の好きな作品の共通項があるのかもしない、そんなことを思いつつ。 pic.twitter.com/Pm6d1uU0Xy — 鏡双司 (@SO_C) November 23, 2021 (自分が撮った写真を見ても、幾何学的な構成を好んでいることが伺えるよなあ)

『阿・吽』 一~十二巻を読んだ感想

ついなちゃんに薦められて、マンガ『阿・吽』の一~十二巻を一気読み。天台宗開祖の最澄と真言宗開祖の空海を描く歴史ロマン、でいいのかな。 そーいえば最近、おかざき真里先生の『阿・吽』読んでるんやけど、これも面白いね……💓ξ😊ξ ウチ、お坊さんの中では最澄はんが一番好きなんやけど、ウチのイメージ通りの最澄はんやった………❣ 出典: @Tuina_chan_PJ 午後7:56 · 2021年2月16日 マンガワンで2月19日までの限定公開だと知ったのが2月17日。そこからチケット購入も駆使して3日で読み切りました。急く気持ちや疲労に流されて読み飛ばしたりはしたくない。終始そういう気持ちがあったので、1ページ1ページをいつめくるか決断の連続でした。もしかしたら渡唐して経典を読み耽る最澄もこんな気持ちだったのかもしれません(恐れ多い)。 その最澄ですが、坂上田村麻呂から「貴殿に欠けはないのか?」と問われ「“欠け”があるので仏の道におります。」と答えます。若き空海(そのときの名は真魚)は三論宗の僧・勤操へと赴き「我を満たせ!」と叫びました。“欠け”が満ちるとはどういうことか? “欠け”に嵌らないものが幾らあろうと満ちることはありません。一方で嵌る“欠け”を知っているということは、“満ちた”形を知っていることで、それは最早“満たされている”ということでは? などと抽象的なことを思ったりします。 具体的には、十三集をいつどうやって読もうか? ここから買い始めるのも気持ち悪いし。もうこれで読み終わっているということにしてはいいのではないか? というしょうもない悩みなのですが。 2021/02/25 22:00までなら (一) 、 (二) 、 (三) がKindle無料お試し版で読めるのでぜひ。

『裏世界ピクニック5 八尺様リバイバル』の感想

『裏世界ピクニック5 八尺様リバイバル』を読んだので簡単に感想を。 2021年1月から始まったアニメも見ていると、どちらもより楽しめる1冊でした。 短篇5つの構成のうち、表題にもなっている「八尺様リバイバル」が象徴的。これがシリーズ第2話「八尺様サバイバル」の続きの話だし、他の話も空魚が二人の関係だったり自分を見直したりしていて、全体として新しい関係ができていく流れで、百合成分増量巻。 ホラーテイストがお気に入りの一篇は「ファイル18 マヨイガにふたりきり」。日常が裏世界に侵食してくる話はこれまでなんどもあったけれど、まさかこういうケースもあるとは。

『言語学講義――その起源と未来』の感想

『言語学講義――その起源と未来』を読みました 一見ランダムなやり方でとり上げることで、「言語学の今」を浮かび上がらせてみたいと考えている。 とあるけれど、言語学の予備知識がほぼゼロなのでその試みがうまくいっているかどうか、なんもわからん。 でも、楽しめました。例外は最後の第5章。著者の専門領域の話らしくさっぱり。ソシュールの『一般言語学講義』成立の経緯はおもしろかった。本人が書いたのではなく、生徒が講義を復元したらしい。あと、ジャック・デリダの『グラマトロジーについて』の中でのソシュールを批判したとあったところで、内容が気になったくらい。 以下、枝葉ばかりだけれど感想を。 「包括形」と「除外形」 2人称を含めるのが「包括形」。含めないのが「除外形」。日本語では区別なく「私たち」と表記される。「私たちは人間としてみな平等だ」というのは包括形で、「私たちは君たちを助けたい」は除外形。ここが気になったのは、ニコ生で「私たちはそう考えますが、みなさんはどうですか?」というような言葉を聞いたばかりだったので。おかげでこの言葉に違和感があった理由がわかった。ニコ生で「私たち」と言われたら、自分は包括形を想定するらしい。対称ではないけれどテレビより双方向性があるからだろう。 言葉の「正しさ」 国語教育の一部として指針が必要だとは思うけれど、想定する受け手に伝わればいいとも思っているので、外野から正誤を押しつけるのに意味はない。と頭では思うのだけれど、つい指摘したくなる気持ちが湧くこともある。そこで一拍おいて飲み込めるようにしたい。反射的に言ってしまうこともあるのだけれど、〈物語〉シリーズの阿良々暦が言っていたことを思い出す。言いたいことと言うべきことは違う、みたいな。思い出すというには曖昧過ぎるか。 [m], [n], [ŋ] 「ん」の話。[m], [n]の区別はつくけれど、[ŋ]はだいぶ怪しい。ま行の音が続くときの口を閉じる「ん」が[m]で、口を開けたまま言える「ん」が[n]。「感激」などが行に続くときの音、らしい。らしいというのも衰退していて、おそらく自分も普段使っていなくて自信が持てないから。どれくらい衰退しているかというと、1940年時点で都区部の15歳の学生を対象に調べたら、鼻濁音があったのは約半分だったらしい。東北方言だと「烏賊」は[iga

『言語の起源』の感想

『言語の起源』を読んだ。 原始的なコミュニケーションはイントネーションとジェスチャーを通して行われており、そこから構造化されていって言語が生まれたという話。言葉が通じない相手とコミュニケーションするために、イントネーション・ジェスチャー・絵、使えるものはなんだって使うだろうから、原始的なコミュニケーションには構造がなかったという主張には納得させられる。 もうひとつ繰り返される主張は、言語を使えるようなったのは、コミュニケーションできた方が生存に有利だったためそのように進化していったということ。突然変異で言語を扱えるようになったという仮説や脳に言語を司る部位があるという仮説に、しつこいくらい反論している。以前の自分はそういう仮説に惹かれていたかもしれないけれど、今の自分はこの主張に違和感を覚えないし、もっと言えば起源単体への関心が薄くなっていることを改めて実感。現在の言語がどう発展してきたのか、遡る方向の本も探して読んでみようかな。 ところで、個人的な関心は記号の進化過程にあったのだけれど、こちらはあまり掘り下げられていなかったのが残念。まずインデックス(物理的につながりのあるものを示す。例は足跡)、それからアイコン(物理的ににているものを示す。例は肖像画)、シンボル(ほとんど恣意的)と徐々に抽象化されたのではないか、というくらいの話はあった。いずれにせよ「起源」を考えると、声と身振りより先にあったとは思えないので、これは「言語」で真っ先に「書かれたもの」を思い浮かべた自分の方がズレていた。 メモ:チョムスキーの「生得文法」があり、その反証として著者の『ピダハン――「言語本能」を超える文化と世界観』があり、その延長として本書があるみたい。チョムスキー、計算機科学における形式文法の発案者として知ったのでそのイメージが抜けない。