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11月, 2009の投稿を表示しています

よつばとばすよ

『よつばと! 9』 を読んだ。 相変わらずなのに、飽きない不思議。 でも、よく読むと相変わらずでもないような気もする。 それとも、相変わらずだから些細な変化に気がつけるのだろうか。

檸檬爆弾2

『不気味で素朴な囲われたきみとぼくの壊れた世界』 を読んだ。 『不気味で素朴な囲われた世界』 から14年後が舞台。 『不気味で素朴な囲われた世界』では中学生だった串中弔士が、本作では教師になって登場する。 惹句には「本格ミステリー」とあるけれど、楽しめたのはミステリー要素ではなく、串中弔士の言動だった。 自分としては、それで満足。 相変わらず、檸檬爆弾を置いて回っている。 しかし、置くのに社会的な理由(一種のエクスキューズ)が持ち出されることから、大人として描かれている、と思う。 こんな大人がいるかという人もいそうだけれど、これくらいならいそうだという人もいるだろう(少なくともここに一人いる)。

未登場

Mirror House Annex: 再登場? に載せた絵の色を調整した。 なかなかしっくり来ない。 来るかどうかを判断しているのは感覚なので、言語化しにくい。 強いて言えば、全体のバランス(言えていない)。 どことどことどこの(以下略)バランスと列挙できないし、できだとしてもそういう問題でもない気がする。 ディスプレイの設定で変わってしまうし、あまりこだわるのも不毛かな? とも思い始めてきた。

空の輪郭

sky outline by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 見ることと観察することは違う。 自分は、この言葉を「視界に入ることと知覚することは違う」ということだと理解している。 見ていても気がついていないことの、多いこと。

どこ吹く風 - 自由をつくる自在に生きる

『自由をつくる自在に生きる』 を読んだ。 自分は不自由になったな、と思う。つまり、以前より摩擦を避ける選択をする傾向が強まった。言い換えると、何かを捨てる選択を考えもしなくなった。 本書を読んで、もう少し抵抗してもいいかな、と思えるようになった。いや、正確に言えば、抵抗しようかどうしようか、と逡巡していたところを、本書が後押ししてくれた。 いざそう決めてみると、具体的な障壁は見当たらない。このことから、自分がいかに自分の思い込みから不自由だったか分かる(本書に記載されている法則通り)。 応用して、自分は自由だと思い込むだけで、随分と他の思い込みからは自由になれる。ただ、代わりに不自由にしているものが見えなくなるから、時々不自由だと思い直した方がいいかもしれない。 あるいは、この二値的な思考を思い直した方が効果的か。

再登場?

Mirror House Annex: 再会の兆し に載せた絵に色をつけている。 色を塗ると、それらしく見えるから不思議だ。 再現性が保てるように、ベタ塗りにした。 ベタ塗りだと、時間もかからないというメリットもある。 本ブログ右上の自分の写真とのバランスを、もう少し整えた方が良い気がする。 線の太さが大分違う。 どちらをどちらに合わせようか。

再会の兆し

絵を描いている。 以前公開していた『Mirror House』というウェブページで登場させていたキャラ。 名前は希(のぞみ)。 『Mirror House』では、日記代わりに希達(他にもいる)と対話形式で雑記を書いていた。 またそういうことをやりたいと思い、右の絵を描いてみた。 以前使っていた絵は、色んな意味で使用に堪えない。 たっぷり時間が取れるわけではないので、次の2つのポリシィを持ってやってみるつもり。 準備が完璧になるのを待たず、スモールスタートする。 代わりに、スタート後に気長に拡張する。

酷い正義 - イングロリアス・バスターズ

『イングロリアス・バスターズ』(原題 "Inglourious Basterds") を観た。 ちょっと長いと感じたけれど、実際の上映時間は151分とちょっとどころじゃなく長かった。実際より短く感じたのは、その分後半の爆発力があったからだろう。対照的に、前半~中半はじりじりとした展開が続くため、長く感じたのかもしれない。 全体を通してアンチな映画だった。定石というかステレオタイプというか、その種の通念は、淡泊なまでにあっさりと裏切られる。この無情感は、西尾維新と共通のものを感じる。ブラックな描画も多々あったし、観る人(観て後悔しない人)を選びそう。 本作が面白いのは、そのステレオタイプを中立化させようとしていないところ。脚本も映像も逆に吹っ切れている。Inglorious Bustardsがひょろひょろで格好良くて正義で酷い。

継続は力なり

10月20日 にMOLESKINEを購入して以来、一ヶ月が経った。 昨日11月20日までの31日間で、75ページを使った。 平均すると2.5ページ/日のペースだ。 全部で192ページあるので、このペースを維持すると、3ヶ月弱で使い切る。 コストパフォーマンスは、定価\1890で買った場合\630/月、Amazonで\1000で買った場合でも\330/月。ノート3冊以上買えることを考えると、決して安いとは言えない。 有体に言うと、高い。 でも次も買おうと思っている。 何に価値を見出しているか省みてみた。 買う前は、Detourを見ての衝動買いだったけれど、次に買おうと思わせているのは何なのだろう、と。 ハードカバー。机がなくても書きやすい。 ゴムバンド。鞄に無造作に突っ込んでも、ページがくしゃっとならない。 栞。書き始めのページがすぐ見つかる。 ポケット。ポストイットを入れておくのに便利 こう考えると、よく出来ているなぁと思う。 でも、何より重要なのは上記のハード面ではない。 最大の理由は、きっとこれからもずっと買い続けられる(売られ続ける)だろうという安心感だと思う。 良いものでも、売られなければ手に入らない。 どれだけおいしくても来年も売られるとは限らないから、という理由で期間限定のお菓子を買うことを頑なに拒んでいる知人のことを思い出す。

名前は要らない

『なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学』 を読んだ。 本書は記憶にまつわる諸々を集めている。 学説から一編の詩にいたるまで、収集先は多岐に渡っている。 ともすれば散漫さも感じるけれど、それだけ記憶については分からないことが多いということだろう。 その中で自分の記憶に残っているのは、「記憶」と「抽象化」にはトレードオフの関係があるという仮説だ。 人間の記憶は、個別の具体的な事象をそのまま記憶・想起するのは苦手だ。それを補うように、それらをグループ化(一種の抽象化)してそこから個別の記憶を連想する。 『考える技術・書く技術』 はじめ、複数の書籍で相手に理解してもらうためのTIPSとして紹介されている。 面白いのは、抽象化が進めば進むほど、個別の記憶を直接想起できなくなる点だ。 抽象的な記憶が、個別の記憶へのアクセスをブロックしてしまう。 この部分を読んで、自分はキルドレ(森博嗣の小説 『スカイ・クロラ』 シリーズの登場人物たち)を思い出した。 次の引用が端的に示すように、彼らは個別の事象を記憶しない。 固有名詞を僕は覚えない 観察が直接抽象化されるのだろうな、と想像する。

a cat-and-mouse game

『貧乏はお金持ち』 を読んだ。 本書には、節税の方法が書いてある。 こういう人為的な制度に依存する方法には興味が沸かない。 いずれ使えなくなるだろう、という予測が関心を薄めてしまう。 著者が言うとおり、節税できるのは、今のところ、税金とそれをきっちり取り立てるコストが釣り合わないからだ。 みんなが同じ方法で節税するようになったら、その大小関係が逆転して取り立てられるようになる。 再び節税方法が考え出されるだろうが、恐らくより複雑になっているだろう。 それが広まれば、またその複雑さに対応した取り立てが行われるのだろうな、と思う。 いたちごっこに加わる気はしない。 総コストをどんどん上げるだけだ。

Without Thought

Without Thought by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . ここ数日、考えられない。 つまり、集中できない。 せっかくだからぼんやりしてみよう、と思う。 考えられない理由は不明だし、考える気にもなれない。 ともすれば、余計なことを考えて精神的に疲弊しがちなので、考えない方が健全かも、とも思う。 考えたくもないことを考えてしまうときは、スピードオーバーなのでコントロールが難しいけれど、考えたくても考えられないときは、エンジンがかかっていないだけ。 少なくとも対向車線に飛び出すような危険はない。 それに、考えなくても手は動かせる。 こんな風に。

檸檬爆弾

『不気味で素朴な囲われた世界』 を読んだ。 結局の話、この世界ではばらまいた檸檬が爆発した、とそういうことだと思う。 物事が起こる前に色んな可能性を想定し、複数の手を打っておいて、事後には実現した可能性とそれに対して打っておいた手だけを取りだす。 そうすれば、外からはあたかも事前に予測できていたように見える。 それだけでなく、自分でも最初から分かっていた気になる。 予測を全く絞らなかっただけなのに、だ。 これっぽっちも分かっていなくても、だ。 おめでたい話だけれど、人間共通の傾向らしい。

バンブルビー!

以前、 『トランスフォーム!』 で欲しいと言っていた玩具を買ってしまった。 間近で見ると塗装は粗いけれど、成型が細かいせいか遠目には気にならない。 飾っておくだけでなく、つい手慰みに変形させてしまう。 他のも買おうかなぁ。 オプティマスプライムは置き場所に困るので、バンブルビーくらいのサイズのを。 と言いながら、またバンブルビーを買っていたら笑う。自分が。

みぴょこぴょこ

3種類のシークレットのうち1種類出てしまった のが運の尽き。 残り2種類を買ってしまった。 まさにカエルぴょこぴょこみぴょこぴょこ。 上の画像がダルマガエル。 下の画像がナガレタゴガエル。 シークレットだけあって、ノーマルとは違う。ジオラマ仕立てになっている。 このように作りから違うと欲しくなる。 対照的に同じ作りで色違いだと集める気にならない。 レアリティにお金を払っているわけではない。 それも人為的に作り出されたレアリティならなおさらだ。

システム思考プロセス

『なぜあの人の解決策はいつもうまくいくのか?』 を読んだ。 本書は、システム思考の入門本。 システム思考は、システムダイナミクスというシミュレーション手法から生まれた、問題の捉え方の一つ。思考フレームワークと言っていいと思う。 システムダイナミクスを適用できるように数式に落とし込もうとするとコストが過大になりがちだけれど、同じ考え方で問題を捕らて定性的に分析するとコストパフォーマンスが高いよね、ということだと思う。 本書が紹介している「システム思考」、 『ザ・ゴール 2 』 が紹介している「思考プロセス」と通じるものがあるように思う。 例えば、レバレッジ・ポイントはボトルネックに対応している。 思考プロセスもシミュレーションに端を発しているので、合理的に考えた結果、解が収束したということだろうか。

速さの先にあるもの

巧遅拙速という四字熟語がある。 孫子の兵法 (「三十六計逃げるに如かず」で有名なあれだ) の一つ――「巧遅は拙速に如かず」の略で、その意味は「巧みでも出来上がりが遅い仕事は、拙くても出来上がりが速い仕事に及ばない」。 (少しググると、この意味は文脈から離れてしまっているという主張も見つかりますが、ここでは辞書に載っている意味で) これを「巧み⇔拙い」と「速い⇔遅い」の2軸に分解すると、2×2のマトリックスが描ける。 巧 拙 速 遅 孫子が正しいなら、優れている順に番号を振るとこうなるだろう。 巧 拙 速 1 2 遅 3 4 速くて巧みにできるのなら、それに越したことはない。 だから、できればここ (以下、巧速) を目指したい。 今、自分は右下 (以下、拙遅) にいる。 そこから巧速に至る最短ルートは2本ある。 拙遅 → 拙速 → 巧速 拙遅 → 巧遅 → 巧速 とかく拙速が巧遅より推奨されがちだけれど、自分が何かを覚えたときのことを振り返ると、2のルートを通っていたように思う。 拙速から巧速へと変わるイメージがない。 イメージがないだけで道があればいいのだけれど、もしかしたら行き止まりかもしれない。 この思いは、拙速に対する疑問に繋がっている。 拙速の先には何があるのだろうか。

危なげない数字

『数字に弱いあなたの驚くほど危険な生活』 を読んだ。 不安を煽るタイトルは、本書の趣旨に反している。 本書は、不要な不安を抱かせるべきではないと言っている。 特に問題にしているのは、不要な(しかも間違った)不安を与える数字だ。 例えば、何かの病気の検査にひっかかったときに本当にその病気である確率 (真陽性率) 。 この確率を、患者はもちろん医者さえも、本当にその病気の人がその検査にひっかかる確率(感度)と取り違えていることが多い。 前者は後者に比べて何十倍も低い。 この誤りは、数字を確率ではなく自然頻度(何人中何人が云々)で表現することで、かなり軽減される。 どのくらい軽減されるかは、本書を読んでみて欲しい。 調査結果が自然頻度で表現されている。 それに、少し考えてみて欲しい。 自分が数字オンチを克服できると、数字が本当は難しくないと、思わせてくれる。 そして、きっと実際に克服できる。 少なくとも、自分はできそう。

誤植を見つけたとき

本やWebの誤植に気がついたら、どうしているだろうか。 振り返ると、ほとんど無視している。 たまにTwitterでつぶやいたりする。 もっと面白いと、ブログに書くこともある。 そんなことがしたいんだろうか。 いや、その時はそうしたいからしたんだろうけれど。 後から本当にしたかったんだろうか、と振り返るとそうでもない気がする。 少なくとも、今、そうしてよかったとは思わない。 ところで、今、図書館から借りて読んでいる本には書き込みがある。 書き込みの内容は、校正だ。 偽陽性と偽陰性が入れ違っているなどの深刻な誤りを正しているので、理解の一助になっている。 ただ、もちろん、図書館の本に書き込みをするのは、マナー違反だ。 でも、Twitterやブログでネタにするのとどちらが上品だろうか。 そんなことをつらつらと考えている。 そっと指摘するのがスマートだろうな、と思うのだけれど、そんなチャンネルがないこともしばしば。 「当社へのお問い合わせは」なんて言われたら、しゃちほこばってまうわ(名古屋つながり)。

とっかかりかカット

『経済物理学の発見』 を読んだ。 本書は全8章からなる。 経済物理学の手法について説明しているのは、主に3, 4章。 それ以前の1, 2章の役割は、導入と背景となる物理学の説明。5章以降は、経済物理学から得られた知見や、筆者の提言。 手法についてもう少し掘り下げて欲しかったと思うけれど、それ以上に、自分の本の選び方がよくなかったのだろうな、と思う。 手法について詳しく知りたかったら、新書じゃなくて専門書を読んだ方が良さそう。 ただ、読み物として面白かったし、経済物理学の誕生・発展の背景も分かりやすかった。 とっかかりとしては、良かったと思っている。

事実だからといって理解できるとは限らない

『金融工学の挑戦』 を読んだ。 『ブラック・スワン』 に通じることが書いてある。 VaRの場合、九九%VaR点の先一%のところにどんな大きな落とし穴が待っていても、それは気にしなくて良いことになる。これがこの指標の大きな欠陥である。 この「大きな落とし穴」が、『ブラック・スワン』の著者タレブがいうところの「悪い方の黒い白鳥」にあたる。 欠陥の原因は、収益率が正規分布しているという仮定だ。 本書によると、この仮定は七十年代に否定されている。 それにも関わらず、なぜ今でも正規分布が持て囃されているのだろうか。 正規分布が真の分布の良い近似になっているの分野ではもちろん使えばいいのだけれど、金融工学のようなそうではない(恐らくそうではなさそうな)分野でも使われ続けているのはなぜだろうか。 理由の一つは、計算が容易であるということ。 正規分布を仮定すると、美しい解析解が得られる。 このことは回帰分析の過程を追ってみると分かる。 それから、もう一つ。 理解が容易であるということもあるんじゃないだろうか。 エイモス・トバースキーとダニエル・カーネマンによれば、人びとは、自分に理解できない案は、そこに内在する リスク に関係なく「 リスク が大きい」と判断し、理解できる案は、内在する リスク に関係なく「 リスク が小さい」と判断する傾向があるという。 『イノベーションのジレンマ』 よく分からないものには手を出したくないという気持ちは分かる。 でも、「理解できる/できない」と「事実に即している/即していない」とは、何の関係もない。

温かかATTA - UA/ATTA

UAの8枚目のアルバム『ATTA』を聴いている。 雨のイメージを喚起するエキゾチックな雰囲気が好き。 エキゾチックだけれどエキセントリックではないので、聴いていると落ち着く。 ポップではないので取っつきにくいけれど、この独特さが他に代え難い。

まに☆わに

『真庭語』 を読み終えた。 本書は次の4篇からなる短篇集。 初代真庭蝙蝠 初代真庭喰鮫 初代真庭蝶々 初代真庭白鷺 『刀語』 から200年前の物語であるため世界設定は共有しているが、直接的な繋がりはない。 そのため、本巻だけ読んでも、置いてけぼりを食うことはない。 『刀語』には何代目かの同名の人物が登場するけれど、初代の方が魅力的。 中でも真庭白鷺が良かった。 ところで、刀語に真庭○○はあと8人登場しているのだけれど、続きは出るのだろうか。

引金

『刀語 第十二話 炎刀・銃』 を読み終えた。 これにて『刀語』以下12冊読了。 『第一話 絶刀・鉋』 『第二話 斬刀・鈍』 『第三話 千刀・鎩』 『第四話 薄刀・針』 『第五話 賊刀・鎧』 『第六話 双刀・鎚』 『第七話 悪刀・鐚』 『第八話 微刀・釵』 『第九話 王刀・鋸』 『第十話 誠刀・銓』 『第十一話 毒刀・鍍』 『第十二話 炎刀・銃』 虚刀流七代目党首・鑢七花と奇策士・とがめの旅もこれにて終了。 本巻は西尾維新らしく、益体もないし、身も蓋もない。全く、報われない。 それでいて結末にどこか清々しさを感じているのが不思議。 恐らく狙っているのだろう。 1冊あたりの分量が少ないこと、同著者の戯言シリーズや人間シリーズに比べるとアクが弱いことからも、間口が広いものにしようという意図が伺える。

青灰

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported License . パンツスーツが描きたかった。 以下、反省点。 ちょっと頭大きくなった感がある。 足の位置がおかしい気がする。 右手を描いていないのは、上手くかけなかったから。 背景を描いていない。 まだまだ精進が足りない。

同じ阿呆なら

『されど罪人は竜と踊る 7』 、 『されど罪人は竜と踊る 8』 を読み終えた。 相変わらずの 梯子を下ってどん底、どん底♪ あれ、どん底の底も抜けちゃった♪ な、展開。 期待を裏切られたと思った部分もあったけれど、そう思うのは期待の方向がずれているのであって、期待されている側の方が一貫していたりすることに気がついた。 とにかく、これで角川スニーカー文庫から出ていた長編が出揃った。 7巻『あとがきではなくあくまで後記』によると、新作長編も短編も執筆中とのことなので、続刊を待とう。

で何の話だったのか

『アンビエント・ファインダビリティ』 を読んだ。 世の中には「アバウトネス(何についての情報か)」がない情報が多いことに気がつく。 少なくとも軽視されていることが多い。 このブログのデザインもそうだった。 アバウトネスの一つであるラベルが本文より下にあった。 こんなところにあっても役に立たないだろう、と思い、タイトル下に移動させてみた。 軽視されているのは、予備知識やその場の環境など、間接的な情報を参照すれば事足りることが多いからだろう。 こういう考え方が広まって、目にする情報がもっと見やすくなったらいいな、と思う。