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2011の投稿を表示しています

さよなら2011

「今年ももう終わりやね」 「あっと言う間でしたね」 「お疲れ様でした」 「こちらこそ」 「今年はよく更新したなぁ」 「これも入れて285エントリィもありますね。とくに後半が多いです。7月移行は毎月27エントリィ以上」 「色々あったからなぁ。来年は穏やかな年になるといいな」 「そうですね」 「というわけで、来年もよろしくお願いします」 「よろしくお願いしまーす」

危機一髪

UNCHARTED 3: Drake's Deception gameplay screenshot Ⓒ BY-NC-SA Naughty Dog 2010 『アンチャーテッド - 砂漠に眠るアトランティス -』をクリアした。 前作『黄金刀と消えた船団』と負けず劣らずの演出で楽しめた。本作では、例えば砂漠でフラフラと彷徨うシーンなど、緩急の緩がついたように思う。 このシリーズ、銃撃戦や謎解きも楽しいけれど、自分の場合、脱出シーンが一番テンションが上がる。 きっと、失敗するとしっかり死んでしまうからだと思う。冒頭の写真のようなシーンでは、映画だと必ず間一髪で助かるのだけれど、本作はゲームなので操作次第であっさり落下して死んでしまう。 すぐ手前から再開だし、そんなに難しい操作を要求されるわけじゃないけれど、成功して脱出できた瞬間はやっぱり嬉しい。 洋画の世界で遊んでいる気分。吹き替えも金曜ロードショーみたいで良い雰囲気。

ミリメートル

『スーパー8 (原題: Super 8 )』を観た。 残念ながら、ちょっと眠たくなってしまった。クライマックスに緊迫感がないし、全体的に展開が何だか唐突だった。 子供達の遣り取りは良かった。特にヒロイン(エル・ファニング)が素敵。でも、話が大きくなってくると、ご都合主義を感じて展開への関心が薄くなる。自分にとって、子供が活躍する話は、もう少しこぢんまりしている方が、違和感が小さい。 あるいはファンタジーなら割り切れる。

何に乗るジョニー

『フリーライダー あなたの隣のただのり社員』を読んだ。 ダイヤモンド・オンラインの タダ乗り問題の本質は、個人ではなく組織にあり! フリーライダーを罰するよりも「出さない仕掛け」を が面白かったのが手に取ったキッカケ。 本書が問題にしていうフリーライダーは、ただのりしていることに加え、(次の3条件を満たす意味で)意図的かつ一定期間以上継続している人だけを指す。 その人は(その条件が満たされていれば)どんな状況でもその行動を取る(一貫性) その人はその条件が満たされないときにはその行動を取らない(弁別性) その条件下で、他の人々はしていないのにその人だけがその行動を取る(合憲性) ただのりの動機が「自己損失回避」が動機の、「腐ったリンゴ効果」で腐ってしまった人は問題にしていない。問題としているフリーライダーがいなくなれば、自然といなくなる。 さらにフリーライダーを「サボり系⇔略奪系」と「実務的負担系⇔精神的負担系」の二軸で下記4種類に分類している。 アガリ型 成果・アイディア泥棒型 クラッシャー型 暗黒フォース型 これらのフリーライダーに対するアプローチは、次の一節に要約される。 これに対し意図的なフリーライダーは、ただのりすることが得である限り、ただのりし続けます。したがって、意図的フリーライダーの行動を変えるには「ただのりすることが決して得にならない」状況をつくり、それをフリーライダー自身に理解してもらわなくてはなりません。 従って、連載のタイトルにある通り、ある意味でフリーライダー自身を扱っていない。扱っているのは、それが有利な状況だ。フリーライダー問題を本人のメンタルに帰着させる(本書も研究成果を引いている山岸敏夫の言葉を借りれば)心でっかちなアプローチとは対照的。 従って、本書が紹介するアプローチは、人事評価など組織的なものが主だ。個人ができることとしては、周囲のフリーライダーへの対策ではなく、自分がフリーライダーにならないための対策を紹介している。 読む前は、こういうメンタルになってはいけない、と声高に危機感を煽る内容だったら嫌だな、と思っていた。けれど全くの杞憂だった。 それどころか、罰が脳にとって報償であることを示す事件を紹介し、フリーライダーへの罰が過剰になりがちだと警告したり、自分はフリーライ

開示の快事

『安心社会から信頼社会へ』を読んだ。『「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門』( 感想 ) が面白かったけれど、こちらの方が好み。分かりやすい例は減っているけれど、密度の高い議論それを補って余りある。 本書で扱う「信頼」は、「相手の意図に関して、不確実性があるけれど、何らかの行動を期待すること」だ。ここには、能力に関する期待や、不確実性がないときの期待は含まれない。信頼社会では、相手の意図を推し量ることが重要になる。 一方、「安心」を「不確実性がない(無視できるほど小さい)状態」としている。この意味での安心社会の典型例は、いわゆるムラ社会。利害を共有していて、裏切りが相手の損失にもなる集団だから、裏切りのインセンティブがない。安心社会では、相手が時分と同じ集団に属しているかどうかを推し量ることが重要になる。 信頼と安心は、概ね「罪と文化」と「恥の文化」に対応している。面白いのは、後者が恥ずかしいと思う相手がいない場合にタガが外れがちな点。集団内では協調的だけれど、集団外とは非協調的になる。 これらはどちらが優れているというわけではない。環境によってどちらが向いているかが異なるだけ。だから、ある社会を目指すなら、それが向いている環境を作れば自然にそうなる。これは『文明崩壊』( 上巻感想 、 下巻感想 1 、 下巻感想 2 ) と同じ主張だ。『文明崩壊』では、企業に環境を守って欲しければ、環境を守る企業が生き残る市場を作ればよいと言っている。 筆者は、安心社会に閉じこもっていることは不可能になりつつあるので、信頼社会を目指す方が良いとし、その手段の一例として情報開示を挙げている。でも、それが開示側のインセンティブになっていないことも指摘している。「失敗を隠したい」、「責任の所在を曖昧にしたい」という誘惑は誰にでもある。だとすれば、もうワンステップ必要だ。情報開示した方が有利な環境を作らないと、進めない。 それは、失敗の内容や責任の所在を明らかにしても、個人攻撃されない環境であり、隠していて後から明らかになると、最初から明らかにしていたより、ずっと不利になる環境だと思う。 そう考えると、ミスをみつけては鬼の首を取ったように勝ち誇り、ミスを犯した人を槍玉に挙げることが、いかに自分たちの首を絞めているか。

とっとと蕩々とトート

Grameen UNIQLO トートバッグ を買った。 Grameen UNIQLOは、ユニクロがグラミン銀行グループと協力して進めているソーシャルビジネス。トートバッグの商品説明も含めて、 10月14日のUNIQLOのプレスリリース に詳しい。 ソーシャルビジネスというと、グラミン銀行が始めたマイクロクレジットが有名。貧困層への少額融資を通して自立を支援している。 一方で、下記のような犯罪も起こっている。ニュースでは見つからなかったけれど、グラミン銀行創始者ムハマド・ユヌスの著作によると、ソーシャルビジネスやマイクロクレジットの名前だけを借りた悪質な融資もあるらしい。 彼らが臓器提供を持ち掛けていたのは、マイクロクレジットの返済に追われる貧しい農民。世界から注目を集める融資制度の発祥の地で、こうした違法取引が横行するとは皮肉な話だ。 臓器売買に走るマイクロクレジットの闇 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト これはマイクロクレジットの問題というよりも、日本も話題になったことがある「貧困ビジネス」の問題だろう。 貧困ビジネスとは「貧困層をターゲットにしていて、かつ貧困からの脱却に資することなく、貧困を固定化するビジネス」という意味。 Business Media 誠:貧困ビジネスとは何か? 低所得者を喰う者たち(前編) (1/3) 今までお金を借りられなかった人が、マイクロクレジットのおかげで借りられるようになったから、ターゲットになり得るようになってしまった。かと言って、そもそも借りられないと、貧困を脱却するための元手ができない。 ■関連エントリィ Simplify : ムハマド・ユヌスの著作 『貧困のない世界を創る』 の感想。グラミン銀行の活動を紹介している。 貧困根治 : 上記書籍と同じく、ムハマド・ユヌスの著作 『ソーシャル・ビジネス革命』 の感想。こちらは、ソーシャルビジネス全般について書いている。 緊急の貧窮 : 『COURRiER Japon (クーリエ ジャポン) 2011年 11月号』 の感想。特集『世界を「もっと良くする」仕事』で、『ソーシャル・ビジネス革命』を含め、多数の事例を紹介している。

病んどるキャンドル

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported License . 「メリィィィィッ、クリスマーッス!!」 「メリークリスマスですね、フッ、フフ」 「笑い方がこえーよ」 「じゃあ、ケーキ切りますね」 「ナイフ凝視し過ぎだろ」 「何言っているんですか、刃物を持っているときは目を離したら危ないじゃないですか」 「それはそうかもしれんが、ナイフだけ見てたら周りが見えんだろ」 「周りなんて見えなくたって、いいじゃないですか」 「いや、ダメだろ」 「どうしてですか? 君以外に見る価値のあるものなんて、どこにもないのに!!」 「せめてナイフから目を離してから言え。俺はナイフか」 「キレたナイフだったんですよね、ね、ね?」 「いや、それはで」 「酷い、騙してたんですね……許せないっ!!」 「えー」

クマ、走る走る

「東京マラソン BE@RBRICKを買ったよ」 「一応訊きますけれど、東京マラソン参加の予定は?」 「ないよ?」 「ですよね。そもそも参加したくでも、10人に一人くらいしか参加できないみたいし」 申込総数は28万3988人。そのうち「マラソン」は抽選対象2万9400人(定員3万5500人からエリート・先行・チャリティーランナーを除いた人数)に対して28万2824人のエントリーがあり、抽選倍率は約9.6倍に。 「東京マラソン」参加申込者数は28万3988人に-抽選倍率は9.6倍 - 新宿経済新聞 「転売目的の申し込みも何パーセントかいそうだな。2010年の記事だけれど、こんなのが見つかった」 それ以上に問題になっているのは、ネットオークションで出走権を転売するケース。ランナーは1万円の参加料を支払うが、オークションでは4万円以上の値が付くこともあり、明らかに転売ビジネスが成立している。 転売ビジネスも…東京マラソン困った“不正出走”続々 - スポーツ - ZAKZAK 「買う人が出てくると、ますます転売目的の申し込みが増えると予想できるんですけれど」 「そうだよなぁ。『買う人がいる → 転売の在庫を増やしたい → 転売目的の申し込みが増える → 出走したい人の当選が減る → 買いたい人が増える → さらに転売目的の申し込みが増える』と、走りたい人の首を絞めることになる」 「それはそれとして、BE@RBRICKのラインはコースを表しているんですね」 「うん。左手のODAIBA (お台場) がゴール。実際のコースは コース紹介 はこんな感じ。42.195kmも走るとこれだけ移動できるんだね。普段、電車や地下鉄で移動しているから、距離感が全くない」 「ついでに方向感覚もないですよね?」 「よく移動できているなぁ、自分」

deeper and deeper

river by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 情報検索の分野に "Deep Web" という言葉がある。簡単に言うと、ウェブ上にはあるけれど、検索エンジンが放つクローラーが収集できない情報のことを指す。 たとえば、データベース内の情報、Flashなどに埋め込まれた情報、mixi, facebookのようなSNS内の情報、ニュースサイトの有料記事がそう。 これらのうち、最初の2つは技術的な問題だから、解決されていくはず。でも、最後の2つは、そういう問題ではない。情報を提供する側が検索されることを望んでいない。 その理由は異なっている。SNS内の情報はプライバシーを守りたいからで、有料記事は商品だからだろう。有料記事の見出しとリード文くらいならともかく、全文を対価無しで検索されたら、商売として成立しない。 最近、これらの情報が増えて、"Deep Web" が広がっているように思う。SNSの利用者増加に伴い、mixiで友人限定, Facebookでフレンド限定, Google+ではサークル限定の情報が増えているはずだし、各ニュースサイトは、記事の有料化あるいは出版物の電子化を進めている。 少し調べたら、日本では日経新聞が先行して、朝日新聞がそれに追随。読売・毎日もその予定で、アメリカでは "New York Times" が成功事例みたい。 朝日新聞「アサヒコム」終了、来年初めに「有料版」に一本化有力 (1/2) : J-CASTニュース 【肥田美佐子のNYリポート】米新聞業界に有料化ラッシュ―ハイエンド層をねらえ? - WSJ日本版 - jp.WSJ.com SNSの情報は、本人が見せたくないならそれでいい。有料記事は、無料記事の減少に繋がると不便になりそう。Webでの議論で出典として示せるものが減って、検証可能性が低くなってしまう。自分が読むだけなら、必要であればお金を払えば済む話だけれど、出典として示された場合には、コスト的に現実的ではないと思う。 その結果、どうなるんだろうか? 可能性をいくつか考えてみた。 引用・転載が増える。有料会員のブロガーが有料記事に

数々の車

『カーズ2 (原題 "Cars 2")』を観た。 前作ののんびりとした雰囲気とは打って変わって、アクション映画になっていて驚いた。 さらに驚いたのは、レッカー車のメーターの活躍。中盤以降は彼が主役だった。 最初は面食らったけれど、笑いあり友情ありのこれはこれで。

神々の遊び - ゼウスガーデン衰亡史

『ゼウスガーデン衰亡史』を読んだ。 ゼウスガーデンという架空のテーマパークの、勃興から衰亡までを、淡々と紡いでいる。淡々と紡いではいるんだけれど、いちいちその内容がシュールなので、不思議な雰囲気が漂っている。 嫌いじゃない。むしろ好きだ。主人公不在で連綿と続いていくのが良い。オチがもう少し強かったらもっと良かったんだけれど。 途中のシュールさ加減と比べて劣っているわけじゃないんだけれど、もう一押し欲しかった。

ジョリジョリ

間髪いれずスタートした第8部の、第1巻『ジョジョリオン1』を読んだ。 舞台は第4部と同じ杜王町。でも、作者は、 第4部を全然読んでなくても、思い出さなくても、または記憶がなくても大丈夫なのです。 と書いている。 実際、きっとそうなんだろう、と思うけれど、記憶がなくなりかけている自分でも気がつくファンサービスがちらほら描かれているので、第4部に詳しいとより楽しめるだろう。 さっそくスタンドバトルが始まる一方で、記憶喪失の主人公の名前さえ定かになっていないという、スピード感があるのかないのかよく分からない展開。 訳が分からないままグイグイ引っ張られていく感じが楽しい。

up or down

up or down by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 上がっているつもりでも、振り返ってみたら下がっていることがあってもおかしくない。 進んでいたつもりが、貯金を吐きだしていただけで、留まっていたときにこそ、蓄積が進んでいた。何てこともあるかもしれない。 写真だって、撮った向きで見ないといけない、なんてことはない。 ただ、たった今、足を付けている場所は、そこでしかあり得ない。 ここはそこではないし、そこもここではない。 それでも、どちらもどこでもないわけじゃなくて、どこかではある。

50:50

『COURRiER Japon 1月号』を読んだ。 『オープン・イノベーションの文化がP&Gを真の世界的企業に変えた』が面白かった。特に次の一節。 しかし08年の時点で、P&Gの商品の成功率は50~60%になりました。つまり、新商品の約半数が成功したのです。そしてこれが、最も望ましい成功率といえます。なぜなら、これ以上成功率を高めようとすれば、"ゲームを変える"可能性が低い無難なイノベーションしかしなくなるからです。 これ、どうやって評価しているんだろう。成功したチームを評価すると、各チームは成功率を上げるために無難なイノベーションを目指すようになる。オープンイノベーションというくらいだから、全体で評価しているのかな?だとしたら、異なる商品を開発しているチームをどうやってオープンに協調させているんだろう?  成功率の目標を定めるだけじゃ、きっとうまくいかない。全体を見渡せば、統合された仕組みができていると予想するのだけれど、それはどんな風になっているのかが気になる。

何が何を決める

『「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門』を読んだ。 副題には「高校生からの」とあるけれど、いつ読んでも面白いと思う。少なくとも自分は面白かった。著者もあとがきでこのように書いている。 そういったことを、若い人たちだけではなく、大人の人たちにも考えてもらいたくて、この本を書きました。 いずれにせよ、入門だから広く浅く分かりやすく書かれていると思う。読みやすい。 中心となるテーマは、「心でっかち」な考え方への疑いだ。「心でっかち」な考え方とは、何でも心で解決しようとする姿勢のこと。極端な例を挙げると精神論。ワイドショーの犯罪の原因を犯罪者の心の闇に求める姿勢もそう。それから、 『天才! 成功する人々の法則』 が指摘している、成功を個人の才能で理解しようとする姿勢もこれだと思う。 これを著者は「エミックな理解」としている。これは、直感的で多くの人に納得と安心をもたらしている。しかし、これが「現実を見る目を微妙に曇らせてしまう」とも言っていて、それはその通りだと思う。 『錯覚の科学』 でいう「知識の錯覚(見慣れたもの、使い慣れているものは、深く理解していると誤解する)」と、理解していると思っている事象のリスクを過小評価する認知バイアスとが重なって、問題をひどく過小に捉えているはずだ。 「エミックな理解」に対して、「エティックな説明」がある。厳密には違うらしいけれど、本書の中では科学的な説明というような意味で使っている。じゃあ科学的ってどういうこと? という疑問が湧くけれど、主題ではないため特に説明されていない。自分の理解をざっくばらんに言うと、再現性・整合性・検証可能性があれば「科学的」だと思う。最近読んだ本では、 『科学的とはどういう意味か』 や 『もうダマされないための「科学」講義』 が詳しい。 どちらが優れているというわけではないけれど、「エミックな理解」が今の日本の社会では支配的なように見える。よく耳にするコミュケーション力は、「エミックな理解」に立脚している。 だけど、実際にそうだろうか? 本書第5章で、著者の研究グループが日本人の「協調性」について調べた結果は、そうではない可能性を示している。端的に書くと、「理想的には独立的な生き方をしたいけれど、周りが協調的な生き方をしているから、自分も協調的な生き方をしている」と

笑顔の絵

『バッカーノ!1711―Whitesmile』を読んだ。 この後、約300年に渡って続く馬鹿騒ぎ(バッカーノ)の始まりの物語だった。 自分の目に中心として映ったのは、ヒューイ・ラフォレット、ラヴロ・フェルメート・ヴィラレスク、エルマー・C・アルバトロスの3人。 1705と1710では、1930年代と違って、ヒューイに人間味があったけれど、本巻では既に変わってしまっていた。 それから、これまで謎めいていた作者曰く「ラスボス」のラブロ。本巻で初めて狼狽えのようなものを見せた。 最後に、エルマー。笑顔中毒者(スマイルジャンキー)だけは徹頭徹尾変わらない。不死者になる前から笑顔中毒者で、なった後も笑顔中毒者。「悪魔」との遣り取りといい、実は最も人間離れしているんじゃないだろうか? 本書のあとがきによると、バッカーノ!シリーズも残すところあと数冊。馬鹿騒ぎが終わってしまうと思うと、寂しいものがある。

どちらも魔女

『ヴァルプルギスの後悔〈Fire4.〉』を読んだ。 本巻でこのシリーズは完結。魔女どうしの争いもこれで一応の決着を見る。 「魔女」ってなんだったんだろう? 著者自身があとがきで書いているけれど、それとは別に考えている。 もう少し正確に言うと、「魔女にとっての世界」ってなんだったんだろう? と考えている。 過去も未来も一望できる俯瞰認識者 (オーバースケール) で、ほとんど万能に見える能力を持っていて、でも関心は唯一対立するもう一人の魔女だけ。 案外そんなものなのかな。想像の域を出ないのか、想像の域を超えているのか、それさえも分からないけれど。

イチョウに八千代に

gingko leaves by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 歩道に落ちたイチョウの葉。並んで何かを待っているように見える。 どこに向かって進んでいるんだろうか。

月影・日陰・見かけ

eclipse by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 12月10日から11日にかけての月食を撮ってみた。次の月食は約3年後の2014年10月8日らしい ( 皆既月食:全国で観測 - 毎日jp(毎日新聞) に依る)。貴重な機会。 CANONのPowerShot A480で撮影。エントリィモデルのコンデジでも意外と撮れるものだな、と思う。2年ほど使っていて、露出時間を設定できるモードがあることを、初めて知った。 一応、説明書はざっと読んだつもりだったけれど、必要に駆られないと使わないからか、記憶していなかったみたい。そもそも、どういう時に何が必要になるか分かっていなかったとも思う。 これに限らず、必要なものが、実は手元にあったことに、後から気がつくことがある。

約束に即妬く

『境界線上のホライゾンIV (下)』を読んだ。 今回も盛り沢山なので、箇条書きで。 「夏服と夏全裸」の夏全裸ってなんだ。冬全裸もあるのか。あるとしたら何が違うんだ。 商人カップル、大好きだ。また新しい形の土下座が。 アサマチが例のごとく発射。今回は1発、2発じゃ済まない。 あの野郎、許せねぇ……。 ネタ成分100%なのは、ストーリィの核に触れないようにしているからですよ?

どこまで進むのか

『進撃の巨人 (6)』を読んだ。 さらに謎が増えている。小出しで良いから、解決を、あるいはせめて解決への道筋が見たい。 それはそれとして、リヴァイが率いるチームが熱い。

気分は上々?

『The Book―jojo’s bizarre adventure 4th another day』を読んだ。 先日読んだ『恥知らずのパープルヘイズ』( 感想 ) が第5部を下敷きにしていたのに対して、本作は第4部を下敷きにしている。 二つの時間軸上の物語が交互に語られる形式といい、敵役が暗い過去を背負っているという設定といい、結末といい、ミステリィ色が濃い。 よく言えば作者の味が出ている。悪く言えばジョジョらしさが薄い。 あと、気になったのが散見されるメタフィクション。具体的にはジョジョ第4部に関する言及。これもミステリィ的と言えばミステリィ的。嫌いじゃないけれど、本作には期待していなかった。 ジョジョらしさより乙一作品らしさを楽しめば良かったのかもしれないけれど、前者に期待していたので肩すかしを食らった気分。

パワパフ

パワーパフガールズ、今年で日本放送開始から10年だそうだ。 キャラクタのデフォルメが面白い。劣化しないデザインだよなぁ、と思う。

計って統べる

『ヤバい統計学』を読んだ。 タイトルは似通っているけれど、『ヤバい経済学』との直接的な関連はない。間接的には、付注で「さらに学びたい人のための文献」として紹介している。 本書は、統計学が問題を解決する様を描いている。 『その数学が戦略を決める』 や『数学で犯罪を解決する』と同じ方向性。 本書は下記5章からなる。 第1章 ファストパスと交通渋滞 ――平均化を嫌う不満分子 第2章 ホウレン草とクレジットカード ――間違っているからこそわかること 第3章 大学入試とハリケーン保険 ――グループ分けのジレンマ 第4章 ドーピング検査とテロ対策 ――非対称がもたらす動揺 第5章 飛行機事故と宝くじ ――「不可能」が起きるとき 特に面白かったのは、第4章。第一種の過誤と第二種の過誤 (本書の言葉を借りれば、間違った警告と逃したチャンス)について、頭では理解していた。だけど、本書が指摘するように、第二種の過誤=逃したチャンスについてあまり考えを巡らせたことがなかった。 ドーピング検査の例で簡単に説明する。ドーピングしていない人に陽性を示してしまうのが、間違った警告。ドーピングしている人に陰性を示してしまうのが、逃したチャンス。ドーピング違反者を残さず見つけようとすれば、間違った警告が増えてしまう。一方で、間違った警告を減らそうとすれば、逃したチャンスが増えてしまう。つまり、讃えられるべき選手を押しのけて、ドーピングのおかげで成績を残す選手が出てきてしまう。 問題は、間違った警告と逃したチャンスとで、影響が違う点だ。間違った警告を受けたら、その選手の選手生命が絶たれてしまう。一方で、逃したチャンスが増えても、誰が得をして誰が損をしたかは明白ではない。その結果、検査は間違った警告を減らして、逃したチャンスを増やす方向で設計されてしまう。これがサブタイトルの「非対称」だ。 では、どれくらいが妥当かというと、これは統計では決められない。価値判断を伴っている。 じゃあ、統計なんて役に立たないかというと、そうではないと思う。ここまでやって、初めて価値判断が活きると思う。統計的に考慮できることを考慮しないで下した価値判断は、統計的検証で覆される。

ベア広し

2011 Xmas BE@RBRICK を買った。 顔の星模様や体のツリー模様が透明になっているから、後ろから光を当てると透過して面白い。 今月中には BE@RBRICK SERIES 23 も発売される。Jelly BeansとVelbet Underground & Nicoのジャケットが良い感じ。いくつか買ってみようかな。

進む/曲がる/止まる

highway by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 車よりも道路の方が好き。 車は高速道路を作るための言い分となるために存在しているに違いない。

タタタンタンタン

『タンタンの冒険 ユニコーン号の謎 ( 公式サイト )』を観てきた。 CGなんだけれど実写らしくも見えるキャラクタが、不思議な感覚。一歩間違えたら、不気味の谷に落ちてしまいそう。でも、観ているうちに慣れた。 舞台を、ヨーロッパの街、古びた洋館、船、海、飛行機、砂漠、砂漠の中の街、港と、舞台を目まぐるしく変えたり、実写ではできないアクション・アングルを見せたりできるのは、CGならではだと思う。 それにしてもスノーウィが健気でかわいかった。

WWT2

BE@RBRICK World Wide Tour 2を見てきた。写真は、開催記念商品のConrad Leach。"Lucky 13" という作品がモチーフみたい。 Conrad Leachのブログ で写真が並んでいる。金歯が良い感じに胡散臭い。 次の写真は10周年記念BE@RBRICK。入場券に当たりが付いていたら貰えるみたい。そもそも入場券に当たりがついていることすら知らなかったので、思いがけず貰えて嬉しい。 展示自体も、素敵な作品が沢山あった。服を着ていたり、レトロなロボット風だったり、ビーズやデニム地に覆われていたり、苔生していたり、こんがりキツネ色に揚がっていたり、とバリエーションが豊かで見ていて飽きない。 印象的だったのは、おそらく火であぶったと思われる作品。形が歪んでいたり、土手っ腹に穴が開いていたりしていた。破壊されたのか加工されたのか何とも言えず、異彩を放っていた。他の作品では、人形の素体だったりキャンバスだったり土台だったりしていた中、材料になっていたのは、これだけだったと思う。

良いシーン見るネ

illumination by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 「イルミネーション要る? 見ねーっしょ?」 「言いたかっただけじゃないですか。見るだけじゃなくて、写真まで撮って」 「こんな風には見えていないけれどね。Lentで撮った写真だから」 「トイカメラのアプリでしたっけ」 「ところで、政府が節電要請しているけれど、イルミネーションは点灯するんね。今年はないのかと思っていた」 「いいんじゃないですか? 他で節電していれば。LEDなら消費電力も微々たるものでしょうあし」 「写真のイルミネーションじゃないけれど、ここまでやっているところもあるみたい。執念のようなものを感じる」 イルミネーションには、丸の内イルミネーション実行委員会が独自開発し、従来品と比べ1球あたりの消費電力を65%削減(2009年度使用のLEDと比較)するLEDを使用。 丸の内イルミネーション2011 /レッツエンジョイ東京 「ちゃんと読んで下さい。「昨年度から試験導入」とあるから、節電要請より前からの取り組みですよ」 昨年、世界で一番地球にやさしいイルミネーションとして試験導入した"エコイルミネーション"を全面的に導入いたしました。 「ホントだ。すみませんでした」

キラキラキラーチューン

Krevaの『Go』を聴いている。 1曲目の『基準』で自らハードルを上げた後、最後の12曲目を『探求心』で締めているところが、気が利いている。 間には『KILAKILA』や『EGAO』のようなしっとりとした曲もあって、メリハリも利いている。 韻の踏み方も心地よくて、面白くて、つい耳を傾けてしまう。 前作 『心臓』 の『中盤戦 feat. Mummy-D』で『これからです』なんて言っていたけれど、本当にその通りだなぁと思う。

走狗では私はたおせない

The Birthdayの5thアルバム"I'm just a dog"を聴いている。 本作は、これまでのアルバムの中で、Amazon.co.jpのレビューが最多だ。1st~4thについたレビューが次の通りおおよそ10~20件なのに対して、本作には、56件とのレビューがついている (2011/12/04 9:30頃の数字)。 1st "Rollers Romantics" (11) 2nd "Teadrop" (9) 3rd "Night on Fool" (21) 4th "Star Borrows" (15) 理由はなんとなく分かる。ギターが変わって、曲調が変わって、アッパーな曲が増えたからだろうな、と想像する。有り体にいうと、特に初期のThee Michelle Gun Elephantとベクトルが近くなったからだろうな、と。 "Night on Fool"や"Star Borrows"で、「ああ、The Birthdayでは、こういうことがやりたかったのかな?」と感じていた自分としては、複雑な気分。もちろんこれはこれで嫌いじゃないどころか好きなのだけれど。

小説の饒舌 - 少女不十分

『少女不十分』を読んだ。 小説ではないと地の文に書かれていても、自分はこれを小説として読んだ。特に、私小説のようだ、と思った。 もう少し正確に言うと、私小説のようだと思う箇所もあった。そもそも私小説ってなんだ、という気もするけれど、カテゴライズに対する関心が薄いのでさておく。 読んでいる間感じたのは、自分が自分でいることの居心地の悪さと同時にそれに対する居直り。私小説のようだと思ったけれど、つまり筆者がそう感じているのかもしれないと思ったけれど、それ以上に、自分がそうなんだろうな、と思う。 だからと言って、自分以外の何者になれるわけもない。そう言えば、自分って探されたり見失われたりするけれど、自分であることしかできないんだから、なんでそんなことが起こるんだろうと思ったことがある。セルフイメージと実際の自分とのギャップがそういう感覚を生むんだと分かったのは、割と後になってからのこと。 実際の自分を出発点としてそこから漸進的に前進するしかない。と言うか、他にやりようを知らない。

紫煙の深淵

『恥知らずのパープルヘイズ』を読んだ。これは面白い。上遠野作品らしくもありジョジョシリーズらしくもある。 思えば、上遠野作品で見られるMPLSどうしの戦闘は、スタンドどうしの戦闘と通じるものがある。一見、隙がなさそうな能力に、戦闘に向いていなさそうな能力が、使い方や相性次第で優劣がひっくり返ったりするところなんか特に。 そういうところとは別に、上遠野作品によくある何か悟ってしまう瞬間と、ジョジョシリーズのテーマである人間賛歌も、噛み合っていたように思う。 第5部を読み返したくなってきた。

苦学の学歴の瓦礫

『人はなぜ学歴にこだわるのか。』を読んだ。 読んでみて、自分はこれほどには学歴にこだわっていないな、と思った。 でも、外からはそれなりにこだわっているように見えるかもしれないな、とも思った。 学歴にこだわっているように見える人がいて、それに合わせている節があるからだ。 もしかして、今は大半がそうなのかもしれない。 誰もこだわりを持っていないけれど、持っているように見える人がいるから、それに合わせているだけ。でも、持っているように見えている相手も、同じことを考えている。 もし、そうだとしたら、滑稽な状況だ。 あまり現実味のない仮定を持ち出しても、空想に過ぎない。 強くこだわっている人から全くこだわっていない人までが分布しているんだろう。ただ、傾向として、強いこだわりを持つ人は、少なくともそれをあからさまに示す人は、減っていってる、というのが自分の観察。 直行した評価軸が増えるのは、良いことだと思う。代わりの単一の指標(たとえばコミュニケーション力)が、絶対視されるようになってしまうと、問題がすり替わるだけだけれど。

目をそらした先の空目

山積みの矢を待つ身 に引き続き、『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)』の感想をもう少し。 前回のエントリーでは「とりわけ深刻な"十二の環境問題"」についての感想を書いた。今回は、過去に崩壊した文明がこれらの問題の解決に失敗した原因について、感想を書く。 著者は、その原因を、集団の意思決定の観点から、大きく次の4つに整理している。 問題の予期の失敗 問題の感知の失敗 問題の解決に試みることの失敗 問題の解決の失敗 問題の予期の失敗は、次の2つによって発生する。 過去に経験のない問題 誤った推論 問題の感知の失敗は、次の3つによって失敗する。 そもそも感知できない 管理者が遠く離れている 振動の大ききな上下動に、緩やかな傾向が隠れてしまっている 問題の解決に試みることの失敗は、次の4つによって発生する。 合理的かつ非道徳的な行動 環境破壊に結びつく価値観 非合理的行動が生み出す失敗 問題の解決の失敗は、ケースバイケースだ。解決しようとしている問題による。 自分の関心は、3つ目の「問題の解決に試みることの失敗」に向いている。ここに含まれているのは、ゲーム理論だったり認知バイアスだったり行動経済学だったりミクロ経済学だったりする。特に自分もしばしばそういう選択をするのに、不思議だなと思うのが、「心理的な拒絶」。 「個人的心理学で正確に定義された意味を持つ専門用語」とあるけれど、少し検索しても見つからないので、自分なりの理解を簡単に説明する。分かりやすいのは、「起こってはならない問題」という表現だと思う。「起きない問題」でも「起こさないようにしている問題」でもない。心のどこかでは起こる可能性があることを知っていながら、直面を避け対策を怠っている問題、と言い換えられると思う。 結果的に酷いことになることが多いのに、目を逸らし続けられるこの力は、どこから湧いてくるんだろう。

山積みの矢を待つ身

上巻を読み終えて、ちょうど2週間( 感想 )。『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)』を読み終えた。 上巻では、過去の文明崩壊を振り返り、その原因について考察していた。下巻では、それを受けて、現代の問題について考察している。 著者が「とりわけ深刻な"十二の環境問題"」として、4つのカテゴリに分けて挙げているのが、次の問題。 ■天然資源の破壊または枯渇 自然の生息環境 野生の食料源 生物の多様性 土壌 ■天然資源の限界 エネルギー 真水 光合成能力 ■わたしたちが生み出した、もしくは発見した有害な物質 毒性化合物 外来種 温室効果ガス ■人口の問題 世界の人口の増加 増加した人間が環境に与える影響 これらの問題に対する著者のスタンスは、次の一節に端的に表れている。 「今日の世界がかかえている最も重要な環境問題、人口問題をひとつあげるとすれば、それは何か?」という質問がよく聞かれる。簡潔な答えを返すなら、「最も重要な問題をひとつあげるとすれば、それは、問題を順位づけして、ひとつに絞ろうとする我々の誤った姿勢だ!」ということになるだろう。 著者は、これらの問題は独立していないから、全ての問題を解決しないといけないと主張する。確かに、各問題は独立していないし、どれも深刻かもしれない。 でも、「ひとつに絞るもなにも、ひとつでも手に余っていないか?」と思う。少なくとも自分には、こんなに沢山の問題と気にし続けられるとは思えないし、どの問題も容易ではないように見える。ただ、じゃあひとつに絞った方がいいか? というと、それも違うと思う。 このチグハグは、主語を整理すると、幾分見晴らしが良くなる。つまり、社会全体としては、全部の問題に取り組んでいると同時に、一個人・一組織としては、問題の一部にしか取り組めない。 言葉にすると、当たり前のことだけれど、当たり前のことなら簡単に実行できるかというと、そうではない。 各問題に取り組んでいる組織は、社会全体で限られたリソース (例えば国からの補助金) の配分について競争状態にあるから、自組織が取り組む問題が最優先だと主張するインセンティブが発生してしまっている。 これは、社会全体として全問題に取り組んでいるという状態から、離れる力として働く。リソースが集まって

紫水獣

CAPCOM FIGURE BUILDER Monster Hunter vol.3 を買った。 出てきたのはロアルドロス亜種。意外と大きくて驚いた。vol. 2で出てきたハプルボッカと比べたら、この通り。 ゲーム内のサイズだと、ロアルドロス亜種の方がハプルボッカの4分の3くらいのサイズなのに、このシリーズだとロアルドロス亜種の方が大きい。 おかげで最初の写真くらいアップでの撮影でも粗がが目立たないくらいのディティール。イビルジョーも欲しくなってきた。

ピザ食べたい

『よつばと! 11』を読んだ。宅配ピザを食べたくなった。 このシリーズ、食事のシーンを読んでいるとお腹が空いてくる。よつばをはじめ、登場人物がみんなとても美味しそうにものを食べるからだと思う。 なんてことを書いていたらますますお腹が。

傾き曇り沈む

東京競馬場に行って来た。競馬場は初めて。 トラックの中央の広場から観戦。芝生の上に座っていたので、ピクニック気分。 ちなみに残念ながら当たらなかった。

かく語りき

『ニーチェの馬』( 公式サイト ) を観てきた。 とても情報量が少ない。 それなのに、受け取ったイメージはとても豊かだ。 情報量が少ないからこそ、よく似たシーンが繰り返されるからこそ、些細な差異に気がつくことができる。自分は食事のシーンが印象的だった。 長回しの映像も面白い。シーンが切り替わっていないのに、いつの間にか手品のように構図が変わっている。カメラの向きを変えながらの長回しのおかげで、登場人物が生活する空間をイメージできたのも新鮮だった。 ところで、その映像はモノクロなんだけれど、こんなに綺麗さを感じたのは初めてじゃないだろうか。これまではどちらかというと古さの方が勝っていた。特に、農夫の視線が強力だった。あの瞳は何色なんだろいう。 と、観た後に反芻するように味わうことができるけれど、観ている間は退屈に感じる時間も少なくなかった。監督自ら"Boring"なんて言っていたし、実際エンターテインメント性はない。しかも、上映時間が長い。約2時間30分もある。 観ている最中は眠たくなるのに、観終わった後に色々とイメージが湧いてくるなんて不思議だよなぁ、と。

素のスノウマン

「クリスマスまであと1ヶ月を切ったね」 「そう言えばイルミネーションが目に入るようになりましたね」 「まれに派手に飾られた一般家庭があるよね。サービス精神旺盛だな、と思う」 「あれって部屋の中から見たらどんな感じなんでしょうね」 「車でもたまにいるよね、外向きに人形を飾っている車。あれも、内側から見て楽しいのかな? と思う」 「中から自分が見ることよりも、外からの視線を集めることを志向しているんじゃないでしょうか」 「そういう視点だと、写真はいいよね。誰の視線も同じ視点になる」

過大の課題

『日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか』を読んだ。 第4章が生々しい。あとがきによると、本章は「ダウンロード違法化はどのようにして決まったのか」は、私的録音録画小委員会などの議事録を元に構成されているとのこと。 そもそも委員会の構成が歪だったり、言いたいことを言いっ放つためだけの、合意を積み上げていこうという姿勢がほとんど見えない発言があったり、パブリック・コメントで集まった意見をほとんど無視したり、とこんな風に決まっていいの? と思う経過が描かれている。 ところで、その第4章に、「数字の信ぴょう性」という節がある。本節では、文化庁著作物流通推進室長が、2004年にファイル交換ソフトで違法ダウンロードされた音楽ファイルの推計を示している。その推計は、偏ったサンプルから集めた、分散が大きい(裾が長い)データの平均値に基づいている。 ここに大きくな問題が2つある。まず、この推計値は過大だ。このことは本書でも指摘されている。もう一つ、「係留と調整のヒューリスティック」 ( アンカリング - Wikipedia ) の影響がある。 嘘でもデタラメだろうと先に大きな数字を見せられると、人はそれに引きずられる傾向がある。この場合、示された推計が過大だと分かっていても、補正が過小になっている可能性が高い。 分かってやっていたら、結論ありきなんだろうな、と思う。

マウスとキーボードとディスプレイと

Logicoolのマウス M510 とキーボード K270 を買った。きっかけは、仕事用ノートPCで使っているMicrosoftのマウス IntelliMouse Explorer 4.0の故障。ホイール部分のゴムが切れて、回転させようとすると引っかかるようになってしまった。3~4年使っていたから、寿命だろうか。 最初はまたMicrosoftのにしようと思ったけれど、ワイヤレス・フルサイズ・5ボタン・右手用で探したら、一つも残らなかったので諦めた。自宅用PCで使っているLogicool MX400が気に入っていることもあり、Logicool製品から探した結果が、M510。 白いデスクの上でマウスパッドなしで使っていると、わずかにポインタががたつくことがあるけれど、滅多に起きないし、1pxをポイントするようなシビアな操作は不要なので許容範囲。 K270は、衝動買いの側面を否定できない。ノートPCの変則配列になかなか慣れないこともあるけれど、Unifying対応だからUSBポート1つで済むし安かったので試しに使ってみようという気持ちの方が大きい。 ノートPCに液晶ディスプレイつないでマルチディスプレイにして、ノートPCのキーボードを使っていると、高解像度の液晶ディスプレイに正対できないという問題があるけれど、これで解決するはず。 キーを打った感触が好みじゃないのと、テンキーが邪魔だけれど、M510と合わせて使うと、USBポート1つでケーブル2本の取り回しから解放されて、4000円強。良コストパフォーマンス。

落ちきらない砂時計

『砂の本』を読んだ。本書は、先日読んだ 『モレルの発明』 に序文を寄せていた、ホルへ・ルイス・ボルヘスの短編集。 表題作の『砂の本』が最も印象的だった。これはある始まりも終わりもなければ、二度と同じページを開くこともできない本を渡された男の話。 でも、普通の本だって、始まりと終わりこそあれ、開く度に違った風に読める。 それは読まれる本じゃなくて、読む自分が変わったからなのだろうけれど、だからこそ、参照点として有効だ。

ジャスト・アジャスト

『アジャストメント (原題: "The Adjustment Bureau")』を観た。 何となく主題が古いと感じていたら、原作はフィリップ・K・ディックの『調整班』という短編小説らしい。 設定は面白かったけれど、物語自体は単なるラブ・ストーリーになってしまっていたのが残念。主人公の逃亡劇もゴリ押しだったし。設定を生かした巧い逃げ方をするシーンとかあったら、また違った印象を受けたかもしれないのに、勿体ないと思う。 あと、ラストも何かスッキリしない。あれ、また後から書き足されるかもしれないとは、思わなかったんだろうか。

頂上の表情

crow by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 先日、こんなことをつぶやいた。 「あれは金メダリストのウサイン・ボルトを目標にするくらい間違っていると思いますね(笑)。」が面白かった。 Twitter / @SO_C 「草食男子」世代を攻略するマーケティングとは~対談・深澤真紀 - ヒット研究所 - 日経トレンディネット を読んで思ったことを、何の気なしにつぶやいたのだけれど、「(笑)」につられて笑っている場合じゃないと思い始めた。 上のつぶやきだけだと文脈が分からないので、前後も含めて改めて引用する。乱暴にまとめると、トップを目指さなければならないと思い込まされているということだと思う。 さらに、吉永小百合さん、八千草薫さんなどのような人を目標にする。あれは金メダリストのウサイン・ボルトを目標にするくらい間違っていると思いますね(笑)。市民ランナーはボルトを目標にしないけど、女というランナーはボルトを目標にしてしまう。 これは、女性に限った話じゃない。 『津田大介の「メディアの現場」vol.11』 の『今週のニュースピックアップ Expanded 《part.2》』で、インタビューを受けている山本さんは、日本の農業についてこんな風に言っている。 みんな一番上のブランドものだけを捉えて「農業はこういうふうにやっていけば大丈夫」と言う。それは「みんながグッチ、プラダになればいい」論ですよ。できるわけがない。 こんな風に、「みんな一番上のようにやれ」と言われるのは、農家だけではない。サラリーマンもそうだ。Amazon.co.jpにも、「本 > ビジネス・経済 > ビジネス実用 > リーダーシップ」なんてカテゴリがあって、現時点で2000冊以上が登録されている。 「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」とか、「鶏口となるも牛後となるなかれ」とは言うけれど、自分は、「船頭多くして船山に上る」と思っているので、リーダーは少ない方がいい、と言うか一人で良いと思う。 あるいは、いなくてもいいかもしれない。鳥の群れはあんなに綺麗に飛んでいるけれど、リーダーはいない。たった三つのルールで、その動きをシミュレーションできる ("Bo

どっせーい

『赤ずきん (原題:"Red Riding Hood")』を観た。 サスペンス風味のダークファンタジーといった雰囲気。雪景色に、主人公ヴァレリーの赤がよく映える。 ただ、雰囲気を重視したためか、雪が積もっているのにやけに薄着だったり、とところどころチグハグさを感じた。 雰囲気が好みだったから、まぁ、いいかと思う。

メカニカル・シニカル

映画『メカニック (原題:"The Mechanic")』を観た。本作は、1972年に公開された同題の作品のリメイク版。 基本的な話の筋は、殺し屋の主人公アーサー・ビショップが実は騙されていたことに気がついて黒幕を殺す、という分かりやすいもの。面白いのは、途中からできる弟子のような存在ベン・フォスターとの関係が、最後まで余談を許さなくて面白い。 ところで、アーサーを演じるジェイソン・ステイサムのイメージが、『トランスポーター』の運び屋、『エクスペンダブルズ』 ( 感想 ) の傭兵と無敵感あふれるものばかり。このままスティーブン・セガールに比肩するくらいまでになって欲しい。

カメラへの視線、カメラの視線

red flower by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 2ヶ月ほど前に、 「新しいデジカメ欲しいなぁ」 とつぶやいたりもしたけれど、ちょっと欲求が低下してきた。 デジカメ (PowerShot A480)を買ったそもそもの理由は、ケータイをW42HからPRISOMOIDに機種変更した時の、写りの悪さだった ( デジカメ購入時のエントリ )。 買って2年弱が経って分かったのだけれど、普段は持ち歩かないし、わざわざ持ち歩くようなイベントの時はそんなに撮らない。気に入っている写真は、ふと目に留まるものを見つけたときに撮った写真だから、自分にとっては、普段から持ち歩いているもので撮れることが大事なんだな、と思い当たる。 さらに、4~5ヶ月ほど前に機種変更したInfobar A01のカメラで何十枚か撮影していたら、「これでいいかな」と思えるようになってきたのも大きい。たとえば、冒頭の写真は、Infobar A01で撮影したもの。普段持ち歩いて、自分が撮りたいなと思った時に撮る分には、これで十分だと感じる。 じゃあ、PowerShot A480は用済みかというと、そんなことはない。このエントリィを書いている間に思い出したけれど、1cmマクロが撮れる。面白い視点で撮れるのはもちろん、写したくない物が入りにくいのも地味に嬉しい。 board by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . というわけで、新しいデジカメはいいかな、と思い始めている。一眼ならではの前景や背景をぼかした写真もいいと思うけれど、欲しさ加減と価格が釣り合わない感じ (あぶく銭があったら買いたい)。

渡したわ

『モレルの発明』を読んだ。良い意味でモヤモヤする作品。ああだろうか、こうだろうか、と色々と考えを巡らせられる。 『沈黙ピラミッド―ブギーポップ・クエスチョン』 を思い出した。作品として似ているというわけではない。『沈黙ピラミッド』で語られていたピラミッドの謎に対する見方が、本作にも当てはまるんじゃないか、と直感した。 つまり、本作は、解き明かされるべき謎が書かれているんじゃなくて、読者が謎を見出そうとせざるを得なくなるように書かれているんじゃないだろうか? 本作はボルヘスから「完璧な小説」と賞されている。その完璧さは、きっと腕が欠けたミロのヴィーナスのそれだ。単に自分の理解が及んでいないだけかもしれないけれど、そう考えることにする。 そうしないと、いつまでも考えを巡らせ続けそうなので。

楕円の縁

『デザインの骨格』を読んだ。 本書はブログ 『山中俊治の「デザインの骨格」』 を書籍にしたもので、次の10章からなる。 第1章:アップルのデザインを解剖する 第2章:デザインを科学する 第3章:コンセプトを形にする 第4章:スケッチから始める 第5章:モノ作りの現場から考える 第6章:人と出会う 第7章:骨を知る 第8章:人体の秘密を探る 第9章:漫画を描く、漫画を読む 自分が面白いと思ったのは、第4章 ( 山中俊治の「デザインの骨格」 » Sketches に相当)。 次の一節の「中心軸のような仮想の線」は、顔を描くときには必ず引く。たとえば、 見返りミカエル にアップした絵に残っている。こういう仮想の線を引くか引かないかで、安定感が全然変わる。 絵を描くことは、ものの輪郭を描く事ではない。重要なのは向こう側にあって見えていないものや、中心軸のような仮想の線を描く事。そうやって立体や空間の構造を把握したときに迷いなく輪郭を決定することができる。 中心軸なしで輪郭を辿ろうとすると、自分の場合、どんどん歪みが蓄積していく。 これも面白い。見慣れたものでも描いて初めてわかってくることは、とても多い。描こうとするときの観察は、他のどんなときの観察よりも事細かだと思う。 絵を描く訓練はわかっているものをあえて捉え直す作業です。 ところで、写真は 『楕円』 に書いてあった楕円の描き方を実行してみたもの。面白い。著者はこれをスケッチのウォーミングアップとして描いているらしい。自分のウォーミングアップは網掛けなので、周りに描いてみた。 手で描かなくても、ソフトウェアなり定規なりスクリーントーン使えばいいじゃないかと思うかもしれない。でも、正確に描いてあることと、自然に見えることは違う。錯視が働くからだ。 たとえば、一部が隠れた棒状の物を描く場合、「ポゲンドルフ錯視 ( Wikipediaの該当記事 )」があるから、まっすぐ描くとずれて見える。そういうわけで、最後には目を頼りにしている。少なくとも、自分の目には自然に見える線を引ければ良いと思う。

トリックに取り付く

『アウトギャップの無限試算』を読んだ。 本作は手品論にも見える。 『彩紋家事件』 を思い出す。 自分は、手品を見るのが好き。トリックについて想像は巡らすけれど、見破りたいとかやってみたいとかう気持ちはあまりない。 大学時代に奇術研究会に友人がいたせいかもしれない。長時間に渡って練習を重ねていると聞いていたし練習台にもなったから、間接的ながら、漠然と想像していたよりずっと地道なんだと感じた記憶がある。 あるいは、単純にそんな躍起になるより気軽に楽しみたいというだけ。楽しんだ方が楽しい(同語反復)。

事前の次善

『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)』を読んだ。堅くて複雑なのに面白い。 特に、第2章「イースター島に黄昏が訪れるとき」 。太平洋に浮かぶ、モアイで有名なその島の人工が激減し文明が崩壊していくプロセスを再現していく様は、とてもスリリング。 そうしたプロセスを再現できるのは、もちろんその島に関する深い調査のおかげでもあるんだけれど、それ以上に同時期に同じポリネシアが渡った多数の島の存在が大きい。 こうした島があるおかげで、"自然実験"すなわち比較対照できる。Webサービスなら好きなように条件を変えてA/Bテストできるけれど、文明はそうはいかない。だから、こういった島々が必要になる。 自然実験にせよ、A/Bテストのようなコントロールされた実験にせよ、比較するという姿勢は、とても信頼を増すし効果的だと思う。 先日、TED.comで見た エスター・デュフロ: 貧困に立ち向かう社会的実験 では、たとえばマラリアを防ぐための蚊帳をどのように普及させると良いか、多数の村を対照にいろいろな普及のさせ方を試している。 人を対象にしているからか抵抗を覚えたけれど、今は、最も効果的なやり方が分からない場合、これが最善の次善かと思い直した。効果が最大の方法が分からない以上、机上の空論に時間を費やすより、甲乙つけがたい方法を全部試した方が、ベターなはず。どの方法だって程度の差こそあれ改善するという見込みなのだから。 以下、2011/11/20 追記 クーリエ・ジャポンの編集部ブログに、まさに最初に自分が感じた抵抗についての回答が掲載されていた。 デュフロの研究について「貧しい人を実験の対象にするな」と文句をつける人もいるようですが、デュフロはこう言います。 「自分たちの援助がいい効果をもたらすのか、それとも悪い効果をもたらすのかも知らずに援助をすることのほうがよほど実験的ではないでしょうか」 実験を駆使して開発経済学を変えたエステル・デュフロ ? クーリエ・ジャポンの現場から(編集部ブログ)

光と影と人と

国立西洋美術館で展覧会 『ゴヤ 光と影』 を観てきた。 大きな作品は少し離れてゆっくり眺めたいのだけれど、今回のような来客の多い展覧会だと、人の流れが途絶えないので落ち着かない。 その流れは、長めの解説があったり、音声解説付きの作品があると、そこで滞る。解説に興味がない人は追い抜いていくし、手前の人が移動するのを待つ人もいる。 特に解説がなくても、真剣な眼差しを作品に注いだまましばらく立ち止まっているいる人もいる。そういう人が見ている作品の、何が目に留まったのか想像するのも面白い。 自分が立ち止まる作品もある。大きな作品の前ではだいたい立ち止まる。小さめの作品だと、シニカルあるいはペシミスティックな視点で描かれた素描の前で立ち止まることが多かった。 特に詳しい訳ではないけれど、人が描いた絵を見ると、何となく力が湧く。 写真は、すぐ近くの国立科学博物館入り口に置かれていたクジラの像。合わせて常設展示も見ていたら閉館時間になってしまって、外に出たらすっかり暗く、寒くなっていた。

ドロドロドロイド

「ドロイド君のフィギュアを衝動買いしてしまった」 「androidのキャラクタですね」 「海外では有名な人がデザインしたみたいだね」 「そうなんですか」 「Kidrobotの人らしいね。せっかくなのでもう1枚」 「後ろが気になるんですけれど」 「もう一体集まったら、オワニモが発動するね」 「ぷよぷよじゃありません!!」 「折紙に負けないくらいの見切れっぷり」