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un-build/anti-build - インポッシブル・アーキテクチャ

埼玉県立近代美術館に行って、『インポッシブル・アーキテクチャ』を見てきた。テーマはアンビルド=建築されなかった建物。

当時の技術的では実現不能な思想先行の設計や、実現性を度外視して描かれた建築家の空想が楽しめる。中には実現しなくてよかったと思う構想も。

建築の分野でもロシア構成主義は理想主義的だった。ここでもマレーヴィチの作品が出てきて[1]驚く。ロシア構成主義にはザハ・ハディドも影響を受けていて、卒業制作タイトルにも彼の名前が引かれているそうだ。

実現性を度外視したものでは、ハンス・ホラインの航空母艦都市が〈境界線上のホライゾン〉シリーズの“武蔵”だったのと、レム・コールハースの図書館設計で取られたヴォイド戦略の地と図の反転させたような発想がおもしろかった。後者は著作『S, M, L, XL』に詳しい模様。気になる。

房総半島を原爆で吹き飛ばして東京湾を埋め立てるなどという当時の偉い人の放言は、実現しなくて心底よかった。わざわざ構想まで作って付き合わなくてもよかったのにと思う。

実現性があった設計の中では、鋭角部分がある土地に建てるビルのコンペティション案が好みだった。キャプションを見ると「レス・イズ・モア」や「神は細部に宿る」の箴言が有名なミース・ファン・デル・ローエの設計。これらの言葉に影響を受けているので、嗜好が近くなっているかもしれない。だとしたら嬉しいこと。

技術的にはできても現実的には使えなさそうなのがフレキシブルな作り。いつどこにどれを配置するかどうやって決めるのか、誰が移動コストを負担するのか。それに可動部に負担が集まるから、壊れやすくなり保全コストも跳ね上がるのではないか? 夢がないことを考える。『伽藍とバザール』における伽藍のデメリットが目立つばかりにならないか。

最後の部屋には「建築可能であった」プロジェクトとして、ザハ・ハディドによる新国立競技場の設計が展示されている。ここだけは毛色が異なり、構想や模型だけでなく詳細な設計図書まで展示されている。そこまで具体的に詰められていたということ。にも関わらず実現しなかったと知ると、虚無感が押し寄せてくる。

気持ちも話題も切り替えよう。これらアンビルドを見ていたら、Netflixドキュメンタリー『世界の摩訶不思議な家』を思い出した。この番組では本当に建っちゃってるおもしろい家が目白押し。本展では絵だったけれど、生活空間の高さが森の梢と同じ家は実は存在するよ!

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