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7月, 2008の投稿を表示しています

割り切れない - 素数の音楽

『素数の音楽』 を読んでいる。 調和級数が出てきたあたりで、 『ウロボロスの純正音律』 を思い出した。たったいま、芋づる式に 『フォア・フォーズの素数』 も。 『素数の音楽』は読み物としては面白い。話題が極めて広範で、掘り下げが足りないと感じる。もう少し掘り下げて=数学的に厳密に記述してあった方が、今の私にとっては好みだ(2,3年前ならこれくらいが良かっただろう)。 ただ、そんなことをしたら読者層は狭くなるだろう。

『「バラの名前」覚書』覚書

Amazon.co.jpでは 『薔薇の名前』 には上下合わせて、39件もカスタマレビューがあるのに、 『「バラの名前」覚書』 には、ただの1件もない。 それはさておき。 『覚書』の訳者は、『薔薇の名前』を ひどい親本(邦訳『薔薇の名前』) とこき下ろしている。 確かに、『覚書』で ポストモダンの態度は、非常に教養のある女性を愛していて、彼女に向かって、「ぼくは狂ったように君が好きだ」(I love you madly)とは言えない――なにしろ、この文言はすでにバーバラ・カートランドによって書かれていることを彼女が知っていること(そして、彼本人が知っていると彼女が知っていること)を本人が知っているのである――そういう男性の態度のようなものなのだ。 とあるにも関わらず、各国の既訳はおろかエコ自身による『薔薇の名前』への言及を参照しなかった『薔薇の名前』訳者の態度は、(『薔薇の名前』の読者の多くは、原本および各国訳者によって書かれていることを知らないことを差し引いたとしても)ポストモダンではない(『薔薇の名前』訳者あとがき参照)。 一方で、(『「バラの名前」覚書』訳者あとがきによると、)エコは 作品は独自の生命を有しており、ひとたび作家の手を離れれば、もう作品は作家に対して一定の距離ができる と主張しているのだから、『薔薇の名前』訳者のような解釈があり、さらにそれを読んだ読者の解釈があっても、目くじらを立てるようなことでもないような気がする。 ところで、『「 薔薇 の名前」覚書』ではなく、『「 バラ の名前」覚書』としたのはなぜだろうか? 著者名の片仮名表記をエーコではなくエコとしたのはなぜだろうか? 『覚書』が出版されたのは1994だからSEOの概念はあったとしてもマイナだっただろうけれど、 こうした表記の揺れは、被検索性を低下させる。 Googleは割と吸収してくれるようだけれど。 (この間"β分布"を検索したら、"ベータ分布"がちゃんとひっかかった)。

安直さを選ぶ困難

以前、こんな絵を描いた。 同じことを考える人はいるものだ。 電脳フィギュア モップのことです。 メイド+ロボットからビームサーベルあるいはライトセーバーを 連想するのは、そんなに難しくないだろう。 むしろ、安直だと思う。 そこまで行けば、モップ以外にビーム化できるものはない。 安直だと、説明が要らないから、楽でいいと思う。 それに気がついてしまうと、安直な選択をすることに抵抗を覚えるけれど。

広告洪水

広告史上におけるテレビの牙城が崩れつつある。 広告出稿量ナンバー1企業のトヨタは、レクサスの顧客となる高所得層はテレビをあまり見ないというデータを持ってますから、レクサスのテレビCMをほとんど打っていません。 パチンコ解禁は断末魔? 信頼も文化も失ったCMの未来(前編) : 日刊サイゾー 今のところ、テレビからシェアを奪っているのは、インターネットだ。 しかし、もちろん広告はどこにでも載せられる。 トヨタ自動車は、新車購入者が広告を車両に取り付けることで報酬を得る新たな新車購入サポート「カーバイト」を開発して導入すると発表した。 広告付の新車、6万円サポート…トヨタ カーバイト(レスポンス) - Yahoo!ニュース 現代版サンドイッチマンと言ったところか。 同じく一般の車を広告塔にしようというアプローチを、映画でもやっている。 映画「少年メリケンサック」(宮藤官九郎監督、来春公開)の宣伝ステッカーを車に張ると、1リットル当たり5円引きになる。 asahi.com(朝日新聞社):車に映画のステッカーでガソリン5円引き - 日刊スポーツ芸能ニュース - 映画・音楽・芸能 どちらも、一般の車に広告してもらう代わりに、金銭的インセンティヴを与えている。 この調子で、しばらくは広告が増え続けるんじゃないだろうか。 でも、反動が来るはず。 どこにでも載せられるからと言って、広告であふれていればうんざりする。 すでにその兆しは見え始めている(失敗したけれど)。 おそらく、何がプリインストールされているかについては、当のメーカーでさえ正確に把握できていないというのが本当のところだろう。パソコンは広告媒体と目されており、マーケティング契約は次々と入れ替わるため、消費者が次に買うパソコンにどんなガラクタが搭載されているのかは誰にもわからない。 ソニー騒動で改めて考える、プリインストール・アプリの現状と対策 | WIRED VISION ここでいう「ソニー騒動」のソニーは米ソニー。 「ガラクタ(広告)載せないのも売るけど、その分値段が上がります」と言ったら、猛反発を喰らってしまったというのが顛末。 載せることができた広告を載せなかったことによる収入減をユーザに転嫁してしまったから、残念な結果に終わってしまったけれど、これをある少数の広告主に転嫁することはできないのだろうか。 つまり、排

無意味の解釈

コピー・キャットが殺人を通じて発信するメッセージには「内容」がない。 「これは記号です。みなさん、解釈してください」というのがそのメッセージの唯一の「内容」である。 (中略) まるで無内容な歌であっても、「これはもしかすると、あまり知る人のいない『あの古歌』をふまえているのではないか」というような「おせっかいな」解釈を呼び寄せる可能性があるからである。 コピーキャット社会 フーコーの振り子 を思い出した。 (これもまた一つの「おせっかいな」解釈だ) ソーカル事件にも通じるものがある。 (これもまた一つの「おせっかいな」解釈だ) 『∵』のように、点が三つあれば顔に見えてくるくらいだから、 (ほら、ハニワに見えてきた) 何でも何かには解釈できる。 解釈できない情報は、処理できない。 観察には、理論負荷が必要だ。 このエントリにも「内容」はない。 このブログにさえも「内容」はない。