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『ifの世界線 改変歴史SFアンソロジー』を読んで

 SF短篇集『ifの世界線 改変歴史SFアンソロジー』を読みました。収録されているのは次の5篇。私のお気に入りは後半3作でした。 石川宗生「うたう蜘蛛」 宮内悠介「パニック――一九六五年のSNS」 斜線堂有紀「一一六ニ年のlovin' life」 小川一水「 大江戸石廓突破仕留 ( おおえどいしのくるわをつきやぶるしとめる ) 」 伴名練「二〇〇〇一周目のジャンヌ」 一番のお気に入りは「大江戸石廓突破仕留」。直接描かれている以上の広がりが感じられました。本作の舞台となった場所・時間の外ではどんな物語が繰り広げられていたのかと、想像が膨らむばかりです。どストライクでした。違和感から歴史改変を予感させつつ終盤での種明かしへと至るダイナミズムには否が応でも盛り上がります。 逆に非常に美しく閉じていたのが「二〇〇〇一周目のジャンヌ」。タイトルから察せられるとおりループものです。ループものでは周回を繰り返しながら目指す世界に辿り着くのがよくあるのですが、その先入観を逆手にとった展開。ですが逆張りが目的化しておらず、ジャンヌであればこうなのだろうという十分な説得力がありました。 「一一六ニ年のlovin' life」も非常によかったです。いとエモし。改変歴史の必然性が情緒的に語られていたのが好みからズレるのですが、そこが理知的だと水を差してしまう気もします。今思えば、「歴史改変SFアンソロジー」という文脈に第一印象が引きずられ過ぎな感は否めません。

『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』感想

SF小説『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を読みました。事故で片足を失ったダンサーが、AI制御の義肢とともに新たな表現に挑戦する物語です。 著者はアニメ化された『BEATLESS』で知られる長谷敏司さん。Twitterアカウントでは、AIについての思索をよくツイートされています。2022年11月にChatGPTが一般公開されて以来、AIの可能性について多くの意見が見られるようになりましたが、SF小説家らしく冷静に自身や社会への影響を分析なさっていて、とても参考になります。 なお、本作が出版されたのは、ChatGPT一般公開のほんの1ヶ月前――2022年10月(あとがきによると、前身となった中篇はさらにその6年前――2016年に遡ります)。わずかなタイミングの違いで、AIの描かれ方が激変していたかもしれないと考えると、変化の速さを改めて実感します。 そう感じる一方で、私が本作から最も強く感じたのはAI技術の変遷で風化しない生きることと切っても切り離せない気持ちでした。それは「ままならなさ」です。本書はままならないことに溢れています。 事故に遭う可能性は、ゼロにはできません。事故後しばらくは動くことさえできません。リハビリでは自分の身体を思いどおりに動かせません。日常生活を送れるようになっても、AI制御の義足では事故以前の身体表現はできません。ダンサーとしての収入が失われたため、生活も苦しくなる一方です。そこに父母の自己、母との離別、父の介護というさらなる不幸が降りかかります。認知症を発症した父とのコミュニケーションはほとんど成立しません。同じダンサーとして父を尊敬している主人公と違い、もともと父と不仲だった兄は連絡を寄こしません。 正直に言って生々しく重々しいです。得意不得意でいえば不得意な物語です。 それにも関わらず一気に読み切ってしまいました。ダンスを選択し続ける主人公に美しさを見たからです。無数の「ままならなさ」を引き受けてなおダンスのための選択を続ける意思には、機能美が感じられます。「機能美」というと余分なものをそぎ落としたイメージを抱かれるかもしれませんが、現実には種々の制約が存在します。その範囲の中で隅々まで目的意識が行き渡っていて、かつ高いレベルで達成されているため、そぎ落とされたように見えているのではないでしょうか。 ...

『ムーンシャイン』の「僕」と「私」――あるいは『円城塔「ムーンシャイン」について』について

短篇集 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』に収録されている、円城塔の「ムーンシャイン」についての感想。 円城塔「ムーンシャイン」について - SF游歩道 とおもしろいくらい重ならなかったので、どれだけ違う読み方をしたか書いてみる。 文学の人が円城塔を詳しく検討するための材料も十分に提供出来たと思う。 出典: 円城塔「ムーンシャイン」について - SF游歩道 ともあるし(文学の人ではないけれど。なお数学の人でもない。計算機科学の人が近いけれど、それでも遠いことには違いない。もしかすると人より計算機の方に近いかもしれない)。 なお、結末について言及するので、未読の方は先に読んでください。理解できなくても読めるし、読んでいると楽しくなってくるので。ラストはほんとうにあぁもう。 モンスター群に纏わる数とj-不変量に纏わる数に意外な関係がありそうだ――というのが数学の命題「ムーンシャイン予想」だが、理解できなくても(私は理解できてません)読めます。 出典: 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』「ムーンシャイン」編者による著者紹介 (前略)わからない部分もあるだろうが、ぜひ美しいラストまでたどり着いてほしい。 出典: 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』「ムーンシャイン」編者による著者紹介 と著者紹介も引用して「ムーンシャイン」を推しているけれど、他の円城塔作品でもいい。まだの方は触れてみて欲しい。「SFのエッジ作品を優先した次第」で収録されたこの作品よりやわらかい作品の方も多いのだから。 著者紹介でお勧めされているのが短篇集『シャッフル航法』。表題作なんか言葉の響きだけでも十分に楽しい。初出の『現代詩手帖』2015年5月号』の特集「詩×SF」で読んだときに詩だと思った。 たくさんの作品があって、それぞれに自分には思いも寄らない読み方があるのだろうと想像するとわくわくする。 ◆ 言いたいことは言いきったので、あとは蛇足。 読み方が重ならないのは当たり前で「理解できなさ」「わからなさ」への態度がまったく違う。わからないまま読んで「ほんとうにあぁもう」などと語彙力のない感想を持つ読み方がある一方で、 作中で使ってる数学が簡単かつ物理でも多用する馴染み深いものであったとはいえ、ここまで綿密に解体して深く理解出来たと強く感じられる作品ははじめ...

滞留と - 『竜と流木』

パニックミステリー小説『竜と流木』を読んだ。できるだけリスク管理していたうえで、想像を越える形で事態が悪化していく過程が描かれていて、息が詰まるような恐怖を味わえる。 太平洋に浮かぶ美しい島ミクロ・タタに固有の両生類ウアブを、絶滅の危機から救うために隣のメガロ・タタに移すところから物語が始まる。 端的に書くとこのとおりなのだけれど、考えなしに捕まえて別の場所に放すわけではない。些細なミスがきっかけになるパニックものもあるけれど、本作はそうではない。単体で人間への危害がないと判断している生物を、メガロ・タタの環境への影響を可能な限り小さくした形で、保護のために持ち込み管理しているにも関わらず、被害が出てしまう。 原因の特定の困難さ、判明してからの対策のあてのなさ、さらには問題が他国まで拡散するシナリオまで、現実味をもって語られており、主人公たちの感じているであろう閉塞感が自分にまで重くのしかかってくる。複数の要因――ウアバの生態、ミクロ・タタとメガロ・タタの地理的条件、現地住民と観光客の経済事情――が重なっているため、途方に暮れてしまう。 そこは物語なので、最後にきちんとオチがあるのだけれど、希望と不安が同時に感じられる幕引きだった。絶妙。

『日本SFの臨界点 [恋愛篇]』/『〃 [怪奇篇]』/『カント・アンジェリコ』

短篇集『日本SFの臨界点[恋愛篇] 死んだ恋人からの手紙』を読んだ。どれもおもしろかったのだけれど、一番他作品も読みたいと思ったのは「G線上のアリア」(高野史緒)。 「G線上のアリア」はでいわゆる歴史改変SFで、電話が存在する171X年(18世紀)ヨーロッパを舞台にしている(実際に電話が普及したのは19世紀半ば)。史実で電話網はインターネットに繋がっていくけれど、この後この世界はでどのように発展していくのだろう? といつまでも妄想を掻き立ててくれる。 編者の著者紹介によると、長篇『カント・アンジェリコ』の後日談でもあるとのこと。というわけでさっそく『カント・アンジェリコ』も読んでみた。「G線上のアリア」でネタが分かってしまっているにも関わらず、おもしろいのなんの。どっぷり嵌って読み耽ってしまった。 ◆ ところで、両作品とも〈去勢歌手(カストラート)〉が重要な役割を担っているのだけれど、『日本SFの臨界点[怪奇篇] ちまみれ家族』で冒頭を配置されている「DECO-CHIN」(中島らも)も身体的特徴と音楽が鍵になっている。第一印象はまったく異なるのだけれど、こうして同時に思い返していると、思考が内側に向いていく。これらの第一印象をまったく異なるものにした評価基準をたどり直そうとしていく。そして迷子になって途方に暮れている。 ◆ デビュー作『ムジカ・マキーナ』や短篇集『ヴェネツィアの恋人』にも手を出してみようか。『翼竜館の宝石商人』もおもしろそうだ。

狙撃手リーパー ゴースト・ターゲット

スナイパーものが好きなので手に取ったみたけれど、いまいち合わなかった。話の筋はおもしろく先が気になるけれど、読み進めていったら周到な伏線があったわけでもなかった。しかも、そのときそのときで新しい情報が出てくるので、途中から無理矢理飲み込んだみたいに読み切った。 訳文にも違和感があったので、ターゲット読者層はもっと上の世代だったかな? 気になったところだと、ゲームタイトル"Call of Duty"を《義務履行》と書いて「コール・オブ・デューティー」とルビを振っていたりしたし。

ここ1,2ヶ月で読んだSF系の本

ここ1,2ヶ月で読んだSF系の本を振り返る。 マルドゥック・アノニマス4 〈アノニマス〉シリーズもはや4冊目。ついにウフコックが彼女の手に。事態は進行していないのに読み応えを感じたのが自分にとっては珍しい。物語を追いたいあまり、急かされるように読むことさえあるので。 マルドゥック・デーモン こちらはスピンオフ・コミック。上下巻できっちり描ききられているのがうれしい。表紙を見ての第一印象では、コミカルで軽めかな? と思いきや、小説と肩を並べる絶妙な 半熟 ( ウフコック ) 加減。 巨星 テッド・チャンが解説ということで『ブラインド・サイト』が気になっていたのだけれど、続編まで含めて計4冊(『ブラインド・サイト』、続編『エコー・プラクシア』の各上下巻)あったので、短篇集のこちらから手を出してみた。「天使」と「遊星からの物Xの回想」の印象が強い。いずれも非人類の一人称ハードSFで、「天使」がAIで「遊星からの~」が地球外生命体。人間が読める文章なんだけれど、思考の方向性が人間とは異質でぞくりとする。 遊星からの物体X 『巨星』の「「遊星からの物体Xの回想」は本映画へのオマージュ。タイトルだけは聞いたことがあって、古い映画(1982年日本公開)だったので敬遠していたけれど、いい機会なので見てみた。いわゆるデスゲームに近い状態に置かれた登場人物達のやりとりといいXの造形といい、古さを感じずに見られてびっくり。さらに「遊星からの物Xの回想」を読んだすぐあとだったので、複層的に見られたのもよかった。 筐底のエルピス 6 シリーズ6冊目。残る1つのゲート組織《I》が表舞台に出てきたり、あの人の過去が明らかになったりと、ますます話が広がって期待が膨らむばかり。早く、早く続きが読みたい……。 巨神計画 上・下 巨神がぐわーん、がしゃーんってなるかな?って期待とは裏腹に、巨神を巡るパワーゲームに引き込まれる作品だった。『巨神覚醒』、『巨神降臨』へと続いていくので、きっと持ち越しということだろう。終盤はそれを期待されてくれる展開だったし。もしそうじゃなくてもきっと楽しめるはず。本作は本作でおもしろかった。 零號琴 形容しがたい作品だった。何をどう取り上げても足りない気がする。ごった煮というには澄んでいる。バカバカしくもあれば、切々ともしている。いろいろ過剰に...

天冥の標 X 青葉よ、豊かな PART 1, 2, 3

『天冥の標 X PART 3』まで読んだ。ついにシリーズ完結。 重症を追ったアウレーリアを特に案じていたのだけれど「まさかこんなことになるなんて」と思った。同時に「これを〈こんなこと〉と感じてしまうのだな」とも。アウレーリアのことだからきっとよろしくやっていくのだろうと信じてはいるのだけれど、いまだに思い出すと複雑な気持ちになる。 もう少し心の準備ができていればよかったのかもしれない。けれどそれもどうすればできるものなのか。考えてみれば、受け止められるものが小さい人間というだけのことのようにも思えてくる。未熟か。 もうしらばくこの喪失感めいた何かを燻らせ続けるのだろう。 それでも、シリーズが完結してよかったと思う。続きを楽しみにしてきただけに、もうああやって待ち遠しさを味わうこともないのだな、と残念に思わないでもないけれど、素晴らしい終幕に辿り着けたことへの達成感もある。 千々に乱れているというか、万感の思いが去来しているというか。

ずっとおもしろい - 錆喰いビスコ 1, 2, 3

『錆喰いビスコ』の既刊3冊を読み終えた。愉快痛快熱い熱いアクションエンタメ。1巻からスケールを加速度的に上昇させながらも、しんみりするところではしんみりさせてくれる。特にミロの振る舞いに滂沱してしまった。というかボタボタ垂れるほど泣いてしまった。 そのままの勢いで3巻まで貫き通してくれるので、これから読むという人は安心してビスコに振り回されて欲しい。矢のように時間が過ぎていく。2巻以降はさすがに心の準備ができるようになったらしく、さっき書いたほど泣きはしなかったけれど、とんでもないところにまで連れていかれてしまった。 ビスコとミロ。2人の少年らはもちろん、彼らの周りの人々もとても魅力的。ビスコの育ての親であり師匠でもあるジャビとその相棒(ビスコの相棒でもある)アクタガワのコンビがたまらなく好き。飄々とした老爺がときにその身で身軽に、ときに巨大ガニの背に立ちながら、弓を引き矢を射るわけで、かっこよくないわけがない。 巻を追うにつれアクタガワがどんどんかわいく見えてくる、史上最高にカニが素敵な小説でもあるのでカニ好きにもおすすめ。

字と地 - 文字渦

字と地を巡る壮大な法螺話だった。 ふりがなで目一杯に遊んだ「誤字」と、{空白、一、口、門、日、問、閂、間}でXOR演算をする「天書」がお気に入り。註遊びがなかったのは『烏有此譚』で済んでいるからか。 特にふりがなに関しては、再び可能性を開いてくれたと思う。最近よく目にするのだとFateシリーズの宝具名。日本語で意味を表して読みが技の名前というのは、少年漫画では珍しくない。 技の名前に限らず、「本気と書いてマジと読む」とか「宇宙」を「そら」と読ませるとか、本文とふりがなの差を、そうすることでしか現れ得なかった意味として読み解こうとすることができたりして想像が膨らむ。 あるいは、仲間内だけで通じる言い回しをさせつつ、それを読者にも通じるようにするのにふりがなが使われているのを見たことがある。この場合だと仲間に入れてもらえたような親近感が出てくる。 今でこそ文字・読み・意味が三項組で扱われているけれど、昔は同じ読みなら異なる漢字を当てたりおおらかというかいい加減だったし、同フォントでも等幅でもなく感情が書き方と一体になっていたり(フォントでもサイズが変えられたりすることあるけれど)、したのだよなあ。 もちろん、今のように辞書=メタデータが整備されている方が、時間の変化に耐えられるだろう。でも、趣味の領域ではもっと儚い、小説的でタイポグラフィー的で書的なものがあってもよいか。もっと自由でよいか。なんて思う。 あるいはそれは中〜長篇の手書きの詩なのかもしれないのだけれど。

Do Not Cry, You Can Get Well. - 人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?

『人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?』を読んだ。10作目にあたる本書で〈W〉シリーズ完結。シリーズ1作目『彼女は一人で歩くのか? Dose She Walk Alone?』を初めて読んだのがつい先日のよう。 8作目 『血か、死か、無か? Is It Blood, Death or Null?』 以来、「ゆっくりとした思考」についで断続的に考えている。不連続な思考をしている。ほとんどの時間は考えていない。 人間は「ゆっくりとした思考」をできないだろう。マガタ・シキ博士も例外ではない。コンピュータの思考に先回りしている。最も速く思考しているとさえ言える。 もちろん彼女を除いた人間の思考はそんなに速くない。思考の加速さえできない。ソフトウェア開発についての本『ゆとりの法則』でこんな言葉が引用されている。 人間は時間的なプレッシャーをいくらかけられても、早くは考えられない ーティム・リスター そのうえ考える対象の選択すら容易ではない。集中して考えるためや嫌なことを考えないための自己啓発本が、いくらでもある。自分も苦手で、こうしてブログを書くことで、思考に区切りをつけている節がある。 人間が「ゆっくりと思考」できないもう一つの理由が忘却だと思う。 コンピュータならキャッシュからすぐに記録を読み出せなくても、メモリそれからSSD/HDDと次第にゆっくりと読み出せる。自分が持っていなければネットワークで接続されている別のコンピュータに尋ねることもできる。そして、その間ずっと待っていられる。答えが得られたら、待ち始めたその状態から思考を再開できる。 人間の思考の不連続性は、思考中に積み上げたものを崩してしまう。文字が文が文章が本が発明されてこれに対抗できるようになったけれど、どうしたって行きつ戻りつしてしまう。この問題はおそらく抽象化によってロールフォワードの形で対処されているのではないか。 今の自分が辿り着ける限界に近づいてきた感触があるのでこのあたりで。 シリーズは終わったけれど、こういうことについて自分はまだまだ考えたり考えなかったりし続けると思う。

魔法(の罠に)かけられて - タタの魔法使い3

『タタの魔法使い 3』を読んだ。2、3巻が上下巻構成でこれにてシリーズ完結。 ドキュメンタリー形式で描かれる、特殊な環境=異世界での群像劇。先が気になってつい一気に読み進めてしまった。 自分の感覚では、後書きにあった最初の構想のまま、単巻でスパッと終わっていた方が美しかったとは思う。 シチュエーションと形式を踏襲してリブートしたりしないかな。

可能性を考えるのが早すぎる - 井上真偽作品5冊

井上 真偽 ( まぎ ) の、『探偵が早すぎる』(上・下)、『その可能性はすでに考えた』『聖女の毒杯 〃』、『恋と禁忌の 述語論理 ( プレディケット ) 』を読んだ。つまりすべての単行本を読んだ。 上記は自分が読んだ順。出版された順に並べると、『恋と禁忌の述語論理』、『その可能性はすでに考えた』、『聖女の毒杯 〃』、『探偵が早すぎる』。偶然だけれどおおむね出版順を遡っていて、結果的には歯ごたえが強くなる方へと進むことになった。 いずれもミステリーで、探偵役のアクの強さが群を抜いている。JDC[1]メンバにも引けを取らない。それでいて解決はあれほど突飛ではない。 『探偵が早すぎる』では事件は起こらない。正確にいうと起こるのだけれど、犯人の思惑どおりの結果にはまったくならない。なぜなら、被害が出る前に探偵役が犯人(未遂犯)を見つけて解決してしまうからだ。だから「探偵が早過ぎる」というわけ。こういう探偵の存在について考えたことはあるのだけれど、こんな風におもしろい小説にできるなんて。感動すら覚える。 『その可能性はすでに考えた』では、探偵は事件を(一般的な視点では)迷宮入りに導こうとする。探偵の視点では、奇跡の存在を証明しようとしている。ある事象が発生し得るあらゆる可能性が否定されたら、その事象は奇跡と呼ぶ他ないという。おおよそミステリィって一般的には不可能に見える事象が発生した過程に理路をつけるものだけれど、この作品の探偵は反対に不可能性を追い求めている。それはいわゆる悪魔の証明であり、どんなトンデモでも可能性があれば奇跡とは呼べなくなるわけで、それはもう沢山の可能性が披露される。〈境界線上のホライゾン〉シリーズの文系の相対を思い出す(ただし、この作品では戦争になったりはしない)。 最後に読んだ『恋と禁忌の述語論理』が著者のデビュー作。一階述語論理とか二階述語論理とかの述語論理。数理論理学の一分野であるところの述語論理。本作の探偵役は「論理的に話したり」しない。論理で話す。おもしろかったけれど、既刊の中でこれがもっとも敷居が高い。一応の説明はあるものの、((予備知識がない)∧¬(活字中毒))⇒(読み切れなかったのではないか)。でも探偵役の女性が素敵だったので読み切れたようにも思う。副読本として『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』なんかいいか...

大きな絵 - 竜のグリオールに絵を描いた男

『竜のグリオールに絵を描いた男』を読んだ。 タイトルに惹かれて読み始めたら短篇集で、冒頭に表題作が配置されていたので、2篇目以降は何の考えもなしに読むことになった。以前はそれが当たり前だったのに、Twitterなどからプッシュされてくる前情報にすっかり慣されてしまったらしい。困惑しつつ読み進めることになった。 ただ、少なくとも本作の場合、事前知識があったとしてもきっと困惑しただろうな、と思う。どの作品も自分の知る物語の型に当てはまらない。それなのに、吸い寄せられるように読み進めてしまった。グリオールの影響かも知れない。 ちなみにこの本に収録されているのは4篇だけれど、あとがきによると〈竜のグリオール〉シリーズは7篇あるとのこと。この4篇だけで終わった感じはしなかったけれど、実は続く感じもしなかった。いったいどんな話が残っているんだろう。

うらやま - 裏世界ピクニック3 ヤマノケハイ

『裏世界ピクニック3 ヤマノケハイ』を読んだ。 裏世界の存在を前にした空魚の、異質なものへの恐怖感が少し薄れてきて寂しい。ホラー要素よりアクション要素が目立つ。物語が進むうえでの必然だと頭では了解しているものの、心情的にはなかなか。 とはいえ、同時に空魚の思った以上のタフさが明らかになった巻でもあった。だんだんと冴月に接近しつつあるから、クライマックスへの期待は高まる。 これまで短篇を1篇ずつ読んできた本シリーズだけれど、ここからは文庫にまとまったタイミングで読むことにした。文庫版書き下ろしの心配をしなくてよくなるので。

どうしてそんなに - 六人の赤ずきんは今夜食べられる

『六人の赤ずきんは今夜食べられる』を読んだ。人狼ゲームを連想したけれど、童話『赤ずきん』をモチーフにしたダークファンタジーだった。 童話ではおばあさんのフリをしていたオオカミが、この物語では6人の赤ずきんに紛れ込んでいる。 そのしつこさ。執念深さ。執拗さ。姿を表して謎が明らかになると、より恐ろしくなるというオマケ付き! しっぽの先まであんこギッシリの鯛焼きのように最後まで楽しめる。 オオカミだけでなく、赤ずきんイチゴずきんやリンゴずきんと呼ばれて固有名詞が排されているところも、雰囲気が出ていてよかった。 物語は主人公の一人称視点で進むけれど、三人称視点でずきんみんなのパートがある形でもおもしろそう。書くの大変そうだけれど。

inbox - 霊感少女は箱の中 1~3

『霊感少女は箱の中』の1~3巻を読んだ。ホラーだよ、ホラー。怖いよー。イメージ的にもメンタル的にも抉ってくるよー。1、2巻はそれぞれ話が完結しているけれど、3巻は続くから生殺しだよ……。 シリーズもののオカルトは危険だ。続いていたら怖いものみたさで次から次へと読んでしまうし、続きがまだなくても解決を見ないままの宙づりが辛い。 毒をもって毒を制すというか、霊障に霊障をぶつけているので、シリーズの行く末も気になる。人を呪わば穴二つというけれど、呪う人を呪いで制すと穴がいくつあっても足りないんじゃないだろうか。

戦う泡沫 - 終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか? #06, #07

『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06, #07を読んだ。 『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06と#07を読んだ。#06でフェオドールの物語がひとまずは決着して、#07から第二部開始といったところ。 これまでの彼の戦いが通過点のように見えてしまったのがちょっと悲しい。もしも#07がシリーズ3作目の#01になっていたら、もう少し違って見えたかもしれない。物語の外にある枠組みが与える影響は、決して小さくない。 一方で純粋に物語に抱く感情なんてあるんだろうか? とも思う。浮かび上がる感情には周辺情報が引き起こす雑念が内包されていて、やがて損なわれてしまうことになっているのかもしれない。黄金妖精 (レプラカーン) の人格が前世のそれに侵食されていくように。

垂直統合 - ψの悲劇

『 ψ ( プサイ ) の悲劇』を読んだ。森博嗣による〈Gシリーズ〉の5冊目であり、『 χ ( カイ ) の悲劇 』に続く後期三部作の第二部。 本書の背表紙で〈Gシリーズ〉は「 失われた輪 ( ミッシングリンク ) をつなぐ」と形容されているせいか、内容=輪そのものよりも、位置づけ=どこから失われたのかの方が気になる。 〈Gシリーズ〉を締め括るのが『 ω ( オメガ ) の悲劇』というタイトルなので、素直に〈Wシリーズ〉につながるんだろうと思っている。ギリシャ文字のωが対応するアルファベットはWだ。〈Wシリーズ〉で描写されているウォーカロンの要素技術 が形になりつつあることも読み取れるし。 その〈Wシリーズ〉は『人間のように泣いたのか?』で完結している。こちらでの真賀田四季博士の状態を考えると〈Gシリーズ〉で彼女はなすべきを終えるのだろう。終えたところだということが示唆される程度に留まるかもしれないけれど、どのような縦糸が通ることになるのか。 ところで 浮遊工作室 (近況報告) によると、『ωの悲劇』は2020年。今年は新シリーズが始まるらしい。どんな物語が始まるのかな。

bet time story - 賭博師は祈らない1~5

『賭博師は祈らない』の1~5巻を読んだ。これにて完結。5巻が発売されると知って積ん読をようやく読み始めたら、すっかり引き込まれて発売を待たずして全巻既読に[1]。 電撃文庫から発売されているけれど、ライトノベルに留まらない一般性を感じる。テンプレっぽいラノベ(異世界、能力バトル、ハーレム)は受け付けない、逆それらしか受け付けない、どちらの人にもお勧めできる(のでこうしている)。 まず舞台設定。十八世紀末のロンドン。異世界でもないし、剣も魔法も超自然も出てこない。登場人物達が異能力を持っていたりもしない。主人公ラザルスはじめ、賭博師たちが尋常ではない能力を発揮するけれど、手品や占い (ホット/コールド・リーディング [2]) の技術の延長線上。 そして魅力的な登場人物達。主人公ラザルスは鈍感でも難聴でもない。鈍感な賭博師だったりしたら、いいカモにされてしまう。賭博の場から離れた途端に難聴になったりもしない。そもそも表紙を飾るリーラとのコミュニケーションは筆談だ。彼女は言葉を発することができない。ついでに言っておくと最初から好感度MAXだったりもしない。むしろマイナススタート(念のためいっておくがツンデレ・クーデレの類でもない)。 脇を固めるキースとジョンもそれぞれの生き様があってよい。自分はジョンの豪放磊落さ加減がお気に入り。1巻あとがきによると、ジャック・ブロートンという実在の人物が元ネタとのこと。ボクシングのルールを制定した人らしい[3]。二人とも、全てを投げ打って主人公を助けたりはしない。この距離感が心地良い。 もちろん賭博シーンも手に汗握る。のだけれど、それ以上に面白いのがメタゲーム。大事なのは、ただ勝つことではなくて、それで得るものということを改めて思い出させてくれる (好きにできるお金の範囲で過程を楽しむ娯楽は別として)。だから目的のものを持っている相手を、テーブルにつかせて、さらにそれを賭けさせないといけない。だから賭博の場が開かれる前から引き込まれてしまう。それはもうぐいぐいと。 一方で、相手にそれを賭けさせるということは自分も相応の何かを賭ける必要がある。お互いが自分の手にしているものより相手の手にしているものの方が欲しいなら、売買なり交換なりで穏便に片がつく。養父から「何かを得たならば、それは何かを賭けたということ」で「往々...