2019年9月20日 (金) ~ 9月22日 (月) にかけて、あいちトリエンナーレを見て回ってきました。会場となった下記4ヶ所とも訪れました。全て見られたわけではありませんが、行った甲斐はありました。
なお、〈表現の不自由展・その後〉への抗議と公開中止に始まる問題が今日もニュースになっていますが、掘り下げません。という断り書きを最初に書かないと落ち着かない気持ちになることにさえ、不自由を感じます。
何を見てきたか思い出しながら、2017年10月20日に公開されたテーマ『情の時代 Taming Y/Our Passion』とコンセプトと読み返してみると、感情に訴える情報が多い作品が多く見られた印象です(全部は見られなかったので印象です)。それらの作品は、問題の存在を知らせて (informして) きて、ネガティブな反応――ある種の情けなさを引き起こします。逆に何が見られなかったか考えてみると、その情けなさを解消してくれるような作品が少なかったように思います。
これはひとつにバランスの問題なので、作品ではなく企画に起因するように思います。監督の津田大介さんは著書『情報戦争を生き抜く 武器としてのメディアリテラシー』(2018)で「隠されている問題を覆い隠してしまう懸念はあるが、問われているのはネガティブな報道とポジティブな報道のバランスなのだ」と書いていたので、この点は残念でした。男女比を同数にしてくれたように、これも同数にしてくれていたら、まったく違う印象になったんだろうな、と。
見られた範囲と見た順番が、もうひとつ別の問題だったかもしれません。見られた範囲の最初と最後の印象が支配的になるので。ただ、今からどうこうする気はないので、このまま自由気ままに続きます(と言い聞かせないと自由に書いている気がしません)。
ところで、偶然に気がついたのですが、"Taming"を原型"Tame"には形容詞としての用法もあり、
「情けなさの解消」を感じさせてくれたのは、"Shoum"でした。内容はリンク先を参照してください。「セルビア人である彼らは英語がわかりません」とか「作家が生まれた旧ユーゴスラビアは」とかさらっと書かれていますが、「国」「民族」「生国」「母語」について簡単に書ける気がしません(これは自分の能力不足に起因して自分に課した制約なので、不自由は感じません)。書けるのは2冊の本を思いだしたことです。思い出したのは、『たった一つの、私のものではない言葉―他者の単一言語使用』の「「私は1つの言語しか持っていない.ところがそれは私の言語ではない」や『中動態の世界 意志と責任の考古学』で紹介されている「世間の人とはしゃべっている言葉が違うのよね」という言葉です。こうして日本語で書いていますが、私の言語という感じはしませんし、世間の人に通じているか今ひとつ自信が持てません。少なくとも、通じない人がいることは疑わない程度に。
もう少しいろいろ書いて、最後に自分は言葉にこだわり(あるいはコンプレックス)があるけれど、それゆえに現代アートにそこは期待しておらず、小説なら小説の方がおもしろいし(翻訳が主題の円城塔さんの『道化師の蝶』収録作品群とか)、映像作品は自分のペースで見られないので不自由を感じる話をして、最後に好きなのは、視界の端から端まで続くドローイングだったり、垂直に立ち上がったモノリスみたいなプールの底だったり、大部屋に座り込んだり寝転んだりしているピエロだったりする、と書いて終わるつもりでした。
割と複雑さと秩序が混ざっているものが好きなようです。ドローイングのゆらぎと構成、プールの底の表と裏、ピエロの仕草と配置。一見シンプルでも距離や視点を変えるとそうでもないような。
書いたので終わります。
あと少しだけ。もう少しいろいろの部分では、「我が子ながら情けない」という親子の話や、「男として情けない」というジェンダーの話とか、「同じ日本人として情けない」という民族主義的な話とか、展示作品と「情けなさ」はつながるので、その情けなさとどう付き合うか(tameというほどの介入はしないで、距離と時間をどう確保するか)考えながら書こうと思っていました。
思考が堂々巡りしてきたのでこの問題から距離をおくために、今度こそ終わります。
ちなみにタイトルは思いつきだけの北斗有情破顔拳のもじりです。
- 愛知文化芸術センター
- 名古屋市美術館
- 四間道(しけみち)・円頓寺地域
- 豊田市駅周辺・豊田市美術館
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なお、〈表現の不自由展・その後〉への抗議と公開中止に始まる問題が今日もニュースになっていますが、掘り下げません。という断り書きを最初に書かないと落ち着かない気持ちになることにさえ、不自由を感じます。
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何を見てきたか思い出しながら、2017年10月20日に公開されたテーマ『情の時代 Taming Y/Our Passion』とコンセプトと読み返してみると、感情に訴える情報が多い作品が多く見られた印象です(全部は見られなかったので印象です)。それらの作品は、問題の存在を知らせて (informして) きて、ネガティブな反応――ある種の情けなさを引き起こします。逆に何が見られなかったか考えてみると、その情けなさを解消してくれるような作品が少なかったように思います。
これはひとつにバランスの問題なので、作品ではなく企画に起因するように思います。監督の津田大介さんは著書『情報戦争を生き抜く 武器としてのメディアリテラシー』(2018)で「隠されている問題を覆い隠してしまう懸念はあるが、問われているのはネガティブな報道とポジティブな報道のバランスなのだ」と書いていたので、この点は残念でした。男女比を同数にしてくれたように、これも同数にしてくれていたら、まったく違う印象になったんだろうな、と。
見られた範囲と見た順番が、もうひとつ別の問題だったかもしれません。見られた範囲の最初と最後の印象が支配的になるので。ただ、今からどうこうする気はないので、このまま自由気ままに続きます(と言い聞かせないと自由に書いている気がしません)。
ところで、偶然に気がついたのですが、"Taming"を原型"Tame"には形容詞としての用法もあり、
informal dull and disappointingという意味もあるようです。そう言えば、自分に直接には関係しない話は、どれだけ熱心に聞かされてもつまらない (dull) ものだと思い出します。そうとでも思わないと、精神衛生上やっていられないと思い出させます。
出典: tame | ロングマン現代英英辞典でのtameの意味 | LDOCE
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「情けなさの解消」を感じさせてくれたのは、"Shoum"でした。内容はリンク先を参照してください。「セルビア人である彼らは英語がわかりません」とか「作家が生まれた旧ユーゴスラビアは」とかさらっと書かれていますが、「国」「民族」「生国」「母語」について簡単に書ける気がしません(これは自分の能力不足に起因して自分に課した制約なので、不自由は感じません)。書けるのは2冊の本を思いだしたことです。思い出したのは、『たった一つの、私のものではない言葉―他者の単一言語使用』の「「私は1つの言語しか持っていない.ところがそれは私の言語ではない」や『中動態の世界 意志と責任の考古学』で紹介されている「世間の人とはしゃべっている言葉が違うのよね」という言葉です。こうして日本語で書いていますが、私の言語という感じはしませんし、世間の人に通じているか今ひとつ自信が持てません。少なくとも、通じない人がいることは疑わない程度に。
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もう少しいろいろ書いて、最後に自分は言葉にこだわり(あるいはコンプレックス)があるけれど、それゆえに現代アートにそこは期待しておらず、小説なら小説の方がおもしろいし(翻訳が主題の円城塔さんの『道化師の蝶』収録作品群とか)、映像作品は自分のペースで見られないので不自由を感じる話をして、最後に好きなのは、視界の端から端まで続くドローイングだったり、垂直に立ち上がったモノリスみたいなプールの底だったり、大部屋に座り込んだり寝転んだりしているピエロだったりする、と書いて終わるつもりでした。
割と複雑さと秩序が混ざっているものが好きなようです。ドローイングのゆらぎと構成、プールの底の表と裏、ピエロの仕草と配置。一見シンプルでも距離や視点を変えるとそうでもないような。
書いたので終わります。
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あと少しだけ。もう少しいろいろの部分では、「我が子ながら情けない」という親子の話や、「男として情けない」というジェンダーの話とか、「同じ日本人として情けない」という民族主義的な話とか、展示作品と「情けなさ」はつながるので、その情けなさとどう付き合うか(tameというほどの介入はしないで、距離と時間をどう確保するか)考えながら書こうと思っていました。
思考が堂々巡りしてきたのでこの問題から距離をおくために、今度こそ終わります。
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ちなみにタイトルは思いつきだけの北斗有情破顔拳のもじりです。