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Do Not Cry, You Can Get Well. - 人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?

『人間のように泣いたのか? Did She Cry Humanly?』を読んだ。10作目にあたる本書で〈W〉シリーズ完結。シリーズ1作目『彼女は一人で歩くのか? Dose She Walk Alone?』を初めて読んだのがつい先日のよう。

8作目『血か、死か、無か? Is It Blood, Death or Null?』以来、「ゆっくりとした思考」についで断続的に考えている。不連続な思考をしている。ほとんどの時間は考えていない。

人間は「ゆっくりとした思考」をできないだろう。マガタ・シキ博士も例外ではない。コンピュータの思考に先回りしている。最も速く思考しているとさえ言える。

もちろん彼女を除いた人間の思考はそんなに速くない。思考の加速さえできない。ソフトウェア開発についての本『ゆとりの法則』でこんな言葉が引用されている。
人間は時間的なプレッシャーをいくらかけられても、早くは考えられない ーティム・リスター

そのうえ考える対象の選択すら容易ではない。集中して考えるためや嫌なことを考えないための自己啓発本が、いくらでもある。自分も苦手で、こうしてブログを書くことで、思考に区切りをつけている節がある。

人間が「ゆっくりと思考」できないもう一つの理由が忘却だと思う。

コンピュータならキャッシュからすぐに記録を読み出せなくても、メモリそれからSSD/HDDと次第にゆっくりと読み出せる。自分が持っていなければネットワークで接続されている別のコンピュータに尋ねることもできる。そして、その間ずっと待っていられる。答えが得られたら、待ち始めたその状態から思考を再開できる。

人間の思考の不連続性は、思考中に積み上げたものを崩してしまう。文字が文が文章が本が発明されてこれに対抗できるようになったけれど、どうしたって行きつ戻りつしてしまう。この問題はおそらく抽象化によってロールフォワードの形で対処されているのではないか。

今の自分が辿り着ける限界に近づいてきた感触があるのでこのあたりで。

シリーズは終わったけれど、こういうことについて自分はまだまだ考えたり考えなかったりし続けると思う。

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