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9月, 2008の投稿を表示しています

読んでいるようで読んでいない

『ダイヤモンド・エイジ〈上〉』 を読んでいる。 300ページあたりから、面白くなってきた。 下巻に期待していると、肩透かしを食ったときのがっかり感が増すし、本を読むことの目的の一つが、没入することなので、テレビを眺めるように、何も考えずに読むことだろう。

プロパガンダする側も意見を失う

『プロパガンダ教本』 を読んだ。 原著は、1928年――80年近く前に出版されたが、内容は古くなっていないと感じた。 ただ、訳者解説にあるように、主張は中立的ではない。 「プロパガンダという技術をプロパガンダする目的で書かれた」本なのである。 それを踏まえて読んだ方が、安全だろう。 ところで、プロパガンダは、ターゲット層を大きくすればするほど、内容が画一的になっていく傾向にある。 一般的にいって、個人の教育と知識が向上すればするほど、個人の見解や趣味の相違がますますいちじるしくなり、特定の価値体系に対する個人の同意がいよいよ期待されにくくなるということは、ありそうなことである。これに反して、もしわれわれが高度の統一性と単なる外観上の類似性を求めようとするならば、より粗野で、より「平俗的」な素質と趣味が一般的であるところ、すなわち道徳的水準と知的水準のより低いところまで降らなければならない。 『隷従への道―全体主義と自由』 従って、プロパガンダによるパイの奪い合いの結果、敵対関係にあるものが、段々似ていくことになる(この話は、 『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言』 に出ていたと思う)。 あるいは、主張から実態がなくなっていくことだろう。 人々のしたがうべき価値の妥当性を、人々に受け入れさせる最も有効な方法は、人々または少なくともそのなかの最も善良なものが常に抱いていて、しかもこれまで適当に理解されず、また認められなかった価値と実質的に同じものであると説得することである。 『隷従への道―全体主義と自由』 従って、長期的に見れば、何が主張したいのか分からなくなる可能性が高いと思う。

スパイダーマン・ガチャポン

ガチャポン 『Marvel Figure Collection』 を回してきた。 スパイダーマンが目当て。 4回目でスパイダーマンをゲット。 他の3個も、アイアンマン、ウルヴァリン、ハルクと ダブりなく出そろって、ハッピーな感じ。 『Spider-Man Figure Collection』 のときは、スパイダーマンより先に、シークレットが出る始末だったのとは、対照的だ。 (おかげでフルコンプ出来たというか、する羽目になったというか) 出なかったのは、Silver SurferとThing(両方ともファンタスティック4のキャラクタだ)。 それから、シークレット2種。 シークレットの一つが、ブラックスパイダーマンらしいので、気になるところではある。 でもだんだんダブる確率が上がっていくので、そろそろ潮時か。 (ヤフオクで見たら、いい値段していたし)。

続々・ガラパゴス化という比喩

ガラパゴス化という比喩 、 続・ガラパゴス化という比喩 に関連した記事が、また見つかった。 米国標準が世界標準なのはしょーがねーべ - 狐の王国 Google最適化はグローバルスタンダードに繋がるか - 狐の王国 続・ガラパゴス化という比喩 で微かに触れたけれど、スタンダードには二種類ある。 一つは、オーソライズされていないが、既に広く普及しているデファクト・スタンダード。 もう一つは、ISOなどの標準化団体によってオーソライズされたスタンダード。 (デジュール・スタンダードというらしい) たとえば、Word 2003の.docファイルは、デファクト・スタンダードで、 Word 2007の.docxファイルは、デジュール・スタンダードだ。 二種類の標準は排他的ではない。 デファクト・スタンダードがデジュール・スタンダードとなることもある。 従って、組み合わせは、4種類になる。 各組合わせについて、各企業が従うかどうか戦略を選んだときに、どういう利得があるか考えてみたら、少しは話が整理されるような予感がする。

『されど罪人は竜と踊る 3~Silverdawn Goldendusk~』

『されど罪人は竜と踊る 3~Silverdawn Goldendusk~』 を買った。 新作だったからだ。 予想よりもずっと早く続きが読めるのがありがたい。 新作が出るとしても、角川から出ていた8冊が、全部リバイズされてからかと思っていた。 角川版を読んでいたため、1, 2は読んでいないが、Amazonのレビューを読むと、加筆が相当量あるようだ(特に1)。 新キャラも登場しているようなので、買おうかな。 おおよそ前向きな感情とは無縁な物語の方が、性に合う。 Positive Thinkingとか、Mind Controlかと思う時がある。 でも、ポジティブな方が適応的な社会だと認識はしている。 状況に合わせて、スイッチできるようになったらよいのに、と思う。

判断基準

『暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る』 を読んだ。 『MBAゲーム理論』 を読んでいる。 次は、 『プロパガンダ教本』 を読むつもり。 人は、何を使って判断しているのだろうか? 本能? 理性? 感情? くらくらしてくる。 本能は漠然と思っていたよりもずっと合理的だし、かと言って、(狭義の)合理的な人間なんていない。 感情は本能に根ざすのかもしれないけれど、ずっと複雑だ(少なくともそう見える)。 そもそもこれらの境界も曖昧だ。 行動経済学は心理学を応用している。 (でも、 『「心理テスト」はウソでした。』 なんてことになるかもしれない) 最近知った、行動科学も心理学(の一分野の「応用行動分析」)に基づいているらしい。 『朝11時までメールは読むな! 「後悔しない決断」の技術』 の著者も、同書を書くにあたって、心理学を応用していたはず。 やっている人は前からやっていたことだろうな、とは思う。 (自分や知らないし、おそらくやっていないだろうが)。 ただ、結局のところ、意志がないと、何のためにしているか分からない。 あと、自分は、だらだらするのが好きなので、そんなにまでして頑張りたくない。

続・ガラパゴス化という比喩

ガラパゴス化という比喩 で書いたことに関連しそうな記事がいくつか見つかった。 なぁ、日本が独自のことをするとガラパゴスと呼んで、アメリカが独自のことをするとグローバルと言うのはやめないか? - VENTURE VIEW 勘違い化が進む池田信夫 - ひがやすを blog ガラパゴス、ガラパゴスってうざいんだけど - ひがやすを blog ガラパゴス化から脱するということは、グローバル・スタンダードに準じること、あるいはグローバル・スタンダードを作る側に回ることだ。 ODFとOOXMLとの関係に関して情報収集していたとき、標準化に関するディスカッションは、政治的な色が濃く、好きになれそうにない。 自分は、技術的に良いものが標準になれば良いと思う。 (が、標準化に関するディスカッションの焦点は技術ではないように、外からは見える) 一方で、デファクト・スタンダードに関しても標準を決める要素は、優れた設計(=デザイン)ではない。 ウェブは、いわゆる「サクセス・ディザスター」(新機能が世間に漏れ出し、デザインが固まる間もなく普及してしまうこと)の最高の例だろう。 新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く 結果的にスパゲティ・コードのような、複雑怪奇な仕様ができあがる。

ガラパゴス化という比喩

『ガラパゴス化』という言葉は、否定的な文脈で使われることが多い。 (外から見れば参入障壁として働いているが、それはさておき) ガラパゴス諸島は独自の生態系を築いているため保護しよう、という意見のが大勢を占めていると認識している。 一方で、ガラパゴス化した日本を保護しようという動きは全くない。 あまり気の利いた比喩ではないなあ、と感じる。

アイロンはかける前が勝負

Yシャツ3枚にアイロンをかけた。 3枚連続で繰り返していると、だんだんとコツが掴めてくる。 あらかじめ手アイロンで皺を伸ばしておく 左手(アイロンを持っていない方の手)で、アイロンの進行方向の皺を伸ばしておく アイロンで皺を伸ばすのではなくて、あらかじめ伸ばしておいた皺をアイロンでFixするというイメージ。 アウトプットの質に支配的なのは、実行段階よりも、準備段階だ。

遮光カーテン

寝室を、遮光カーテン(等級は2級)に変えた。 主な効用は、朝になっても暗いこと。 寝ぼけ眼でカーテン側を向いたら、あまりに暗くて壁かと思った。 あと、日光による室温の上昇も、小さくなった。 日光や室温上昇によって起こされることがなくなって、ずいぶん寝心地が良くなったと思う。 言い換えると、昼間も暗いので、開放感には欠ける。 寝室が寝る以外の機能を兼ねているときは、問題になるかもしれない。

有意なんて無意味

『統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀』 を読み終えた。 引用部分なので孫引きになるが、デミングによる以下の指摘が、目から鱗だった。 「実際の問題はAとB、二つの処理の違いが有意かどうかなどではない。(両者に)差異があるとすると……その差異がどんなにわずかなものであっても……実験をかなりの回数くり返せば有意となる……ことがわかるのだ」 ゆえに、デミングにとって有意差を発見することは何の意味もない。重要なのは、差異の程度を見出すことである。 確かに、疑うべくもなくその通りだ。 検定手法が同じなら、検出力(わずかな差異でも有意かどうか)は、標本サイズと、差異の程度で決まる。 直感通り、標本サイズが大きいほど、検出力が高くなる。 つまり、差異の程度が小さくても、有意であるという結果が得られるようになる。 そこまでは概念レベルで理解していたけれど、そこから「有意差を発見することは何の意味もない」という結論には全く至らなかった。 特定の統計手法を適用し、差異が有意であるという結果が出たとき、差異の程度を気にしてこなかったからだろうなぁ。 反省することしきり。

『統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀』

『統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀』 を読んでいる。 図書館で借りて読んでいるけれど、そのうち手元に置いておきたいと思う。 ふと読み返したくなりそう。 p-値や信頼区間の解釈に異才の持ち主も悩んでいたのだな、と思うと、感慨深い。 さらにベイズ統計も加わると、科学哲学の色合いが濃くなる。 しかし、統計は抽象的だが実学だというのが、自分の認識。 工業製品の品質管理における応用が有名だけれど、医学、生物学から経済学にも適用されている。

小さな部屋に大きなテレビ

将来は60型,80型,100型といった大画面テレビが個人の手にも届く価格になっていくという。 [前編]大画面テレビでコンテンツは変わる,宅内ビジネスで新市場を開拓:ITpro ナイーヴな疑問だけれど、そんな大きなテレビを自宅に置ける個人は少数派ではないか? 100型ともなると、幅2mを越える。 ディスプレイとの距離は3m以上離れることになるだろう。 (いわゆる10フィートUIの射程範囲じゃなかろうか) テレビが置いてある部屋は、誰がどのように使うのだろうか? 家族で共有するにのか(絵に描いたような家庭だ)。 個人で占有するのか(贅沢な広さだなぁ)。 価格が下がったとしても、別の条件が制約になって、普及にはつながらないんじゃなかろうか。 この発言自体がマス向けのリップサービスで、全然違う狙いがあるという可能性も、もちろんある。

『願い星、叶い星』

『願い星、叶い星』 を読み終わった。 理由は消極的。 『虎よ、虎よ!』を読みたくて、図書館で著者名をキーに検索したところ、これしか見つからなかったから。 (『ゴーレム 100 』も読みたい) それでも読んでしまう。 (活字だったら何でもいいのか!?) 本書は短編集で、計8編からなる。 中でも、『イヴのいないアダム』というタイトルが素敵だ。 逆に『アダムのいないイヴ』とすると、ではどこから現れたのか? という疑問が浮かぶ。 神学論争は好みではないので、これ以上深入りはしない。 収録策中で唯一の中編『地獄は永遠に』も、アイロニカルで良かった。 「好きな食べ物は?」と聞かれたら、「おいしいもの」と答えられたら、どう返したらいいだろう? ほとんど同語反復=トートロジーだ。 だが、記述的な説明には限界がある。

『境界線上のホライゾン I <上>』

『境界線上のホライゾン I <上>』 を読んだ。 今回も設定の量が多い。また、粒度も小さい。すなわち、密度が高い。 登場人物も多くて、まだ把握しきれていない(し、多分把握しきらないまま読み進めていく)。 だんだん明らかになっていったり、いかなかったり、読み落としたりするのだろうなぁ、と。 来月に発売される下巻 『境界線上のホライゾンI<下>』 が楽しみ。 のっけから中巻が出なくて一安心。下巻の定価が935円だが。

『D-不死者島』

『D-不死者島』 を読んだ。 二つの意味で行間が広く感じた。 文字通りの意味で。朝日ソノラマセレクションになってからだと思う。 比喩的な意味で。読む行間が広い。前々から感じていたけれど、今回は特に強く感じた。 そのせいか、何となく消化不良の印象を持った。 魅力のある登場人物が多い割に、それぞれに見せ場が足りないと感じたせいかもしれない。 重厚長大にするより、意図的にあっさり描写しようとしているのだろうな、と予想する。

数字の物語

書籍 『不思議な数πの伝記』 を読んだ。 『ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く』 と違って、 これには数式もじゃんじゃん出てくる。 導出過程を追える証明もいくらかあった。 導出過程まで理解できると、分かった気になれる。 いくつかのトピックは、牽強付会じゃないかと思った。 数字は抽象度が高いので、結びつけやすい。 意味がないところに意味を見いだしてしまう危険性が高い。 ただ、断片のままでは物語にならないから、必要なこともあるだろう。

数式を理解すること、操作すること

書籍 『ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く』 を読んだ。 折しも今日が、LHCの実験日だ。 実験結果によって、本書で紹介されている理論が、 実証されるかもしれないし、反証されるかもしれない。 いずれにしろ、実験可能だという点は、素晴らしい。 内容は半分も分からなかったと思う。 数式が使われていないし、喩えがうまいので、 知ったかぶるくらいはできそう。 しかし、数式が分からないと、操作できないからなぁ……。 ExcelやRの関数を使って、統計処理をしているとそんなことを思う。

何で読むか2

何で読むか で電子リーダについて簡単に書いた。 新しい電子リーダに関する情報を仕入れたので、雑感を。 『Kindle』より薄く魅力的、Plastic Logic社の電子書籍リーダー(動画) 薄いのは良い。しかし、電車で取り出すには、大き過ぎる。 あと、動画を見ると分かるけれど、レスポンスが悪いように思う。 タッチパネルに触れてから、一呼吸以上間が空いている。 何ページも進んだり戻ったりしようと思ったら、結構なストレスを感じるように思う。 1ページずつ進むのなら、読み終わる前にタッチパネルに触るようになるかもしれない。

何で読むか

本を読み慣れない人からのメールをいただいたのだけれど、その人は、僕の本をスキャナで撮って、パソコンの画面で読んでいるという。その人に言わせると、 「本というものは、人間が読む道具として適していない」とのこと。 【HR】 2つの試運転 この意見をラジカルだと感じるのは、自分が本を読みなれているからだろう。 これに対して、森博嗣氏も「同じように感じることがままある」ようで、 何点かその理由を挙げている。 それらの多くは、自分は気にならないものだけれど(不便さに適応してしまったのかもしれない)、最後のひとつには、完全に同意。 そして、なんといっても一番不便なのは、どこに書いてあったか探すのが面倒な点。 【HR】 2つの試運転 たとえば、引用するための面倒さが、電子テキストの比ではない。 ただ、スキャンしても、OCRを使わなければ、この問題は解決しない。 最初から電子テキストが流通すると、嬉しいのだけれど、持ち運べるリーダに素敵なものがないから、自分は本を選ぶだろう。 仮にリーダを使うとしたら、ニンテンドーDSかな、今のところ、良いかもしれないと思えるリーダは。

時間方向のフラット化

Amazonで本を買うようになって、マンガや小説を、発売直後に買う必要性が薄れてきた。 というのも、発売直後に買っていた理由が、実際の店舗で買う場合、発売直後に買わなければ、どんどん入手が難しくなることだったからだ。 Amazonではその心配はほとんどないから、時期を気にしなくなった。 検索技術は、時間方向もフラット化している。 終わるか終わらないか分からない、次にいつ出るか分からない新作を待つまでもなく、完結しているコンテンツを好きなタイミングに楽しむようになるんじゃないだろうか。 テレビも含めたメディア/コンテンツ産業が、他の産業と大きく異なる点の一つとして、「過去のストックが競合になる」という点が挙げられます。 グーグルに勝つ広告モデル 新作特有の価値は、同時代性、話題の共有、ライブ感、新技術の適用だろうか。

『No Country For Old Men』

映画 『ノーカントリー』 を観た。 シガーが、 『ダークナイト』 のハービーと重なる。 どちらも、コイン投げで相手を殺すかどうか決めている。 コイン投げに決定を委ね、選択を避けているように見える。 でも、引き金を引くのは、人間だ。 (Hellsingでそんな台詞があったな)

ギャップ

HEART STATION / 宇多田ヒカル に収録されているテイク5の終わり方があまりにも唐突だったので、Googleで調べたら、Yahoo!知恵袋で同じことを訊いている人がいた。 Third / Portishead に収録されているSilenceの終わり方も唐突だったけれど、これはこれでこういう終わり方なのだろうな、とも感じた。 このリアクションの違いは何に由来するのだろうか? Silenceは終わり方以前に、曲自体が不安感たっぷりだからか。 テイク5の方が、曲調と終わり方のギャップがより大きい。

マクロのチカラ

Office Suite(Microsoft、OOo問わず)のマクロが意外と強力だということを最近実感した。 単純だけれど、量あるいは繰り返しが多い作業を、自動化するには、便利だと思う。 もう少し、保守性が高くて、デバッグしやすくて、エディタが強力だといいんだけれど。

価値の時間による減衰

映画を観る頻度が上がり、かつ、DVDのレンタルをよく利用するようになって、思ったのだけれど、映画公開からレンタル開始までのスパンが短くなっているように思う。 忘れた頃にやってきても、思い出してもらえないからだろう。 思い出すくらいの思い入れがあるならば、映画館で観ている可能性が高いと推測する。 一方、TSUTAYA DISCASのようなサービスを利用していると、時間による観る気の減衰が、意識されにくくなってくる。 リストに登録しておけば、そのうち届くし、ウェブ上の被検索性は、古いものも新しいものも区別しない。

良いものは良いのか

カワイイと思ったものをカワイイと思って撮る。そして、上がってきた写真を見てやはりカワイイと思う。そういう疑問のまったく生じない循環のシステムがメディアの中でできている。 レイアウトの法則―アートとアフォーダンス カワイイと思ったものを、カワイイと思って撮って、カワイイ写真を撮ることも、それはそれで難しいと思う。 なんて疑問を持つ人間は、循環に入ろうとはしないだろう。 循環に入っているのは、カワイイと思ったものを、カワイイと思って撮った時点で、カワイイ写真が撮れることになっている。 そういうことになっている人なのだろう。

エクスキューズの価値

長時間働くことが、自分に対するエクスキューズになってきている。 間違っていると、ロジカルには認識していても、割り切れていない。 つまり、心情的な側面が占めるウェイトが大きい。 苦役を長時間課すことが、罰だと認識しているからだろうなぁ。 アウトプットに対する志向が、全く欠落している。