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10月, 2009の投稿を表示しています

パワフル・ワッフル

『パワー・プレゼンテーション』 を読んだ。 プレゼンテーション界隈では、「論理的」という言葉を「感覚的」に使っているのだと、いい加減理解することにした。 最初が2項目なら、その後も同じ2項目とする。これは聞き手に対して、バランスのよさを印象づけ、論理的だというイメージにつながる。 そう割り切れば、本書はとても良い本だと思う。 何を目指すべきか、なぜそうするのか、そのためにはどうすべきか、を明確に述べている。 何より、本書自体にストーリィとしての魅力がある。 そして、その魅力が中で書かれていることの説得力を増している。 そうしてみよう、という気にさせられる。

法の下には何がある?

『ブラック・ラグーン 9』 を読んだ。 6巻から始まったロベルタリベンジ編も、本巻でようやく決着。 色々と気になる伏線も貼られたけれど、それはさておき。 本巻で一番印象的だったのは、火傷顔(フライフェイス)の告白。 激白と言ってもいい。 これまで断片的にしか触れられることのなかったホテル・モスクワの行動原理が叫ばれる。 その内容には、虚を衝かれた気分。 善に相対するのは、悪ではなく、法や体制かもしれない。 『服従の心理』 を思い出す。

希望・欲望・希求・欲求

『はてしない物語』 を読んだ。 自分は自分の欲するところを知っているだろうか。 知っていたとしてそれを実行できるだろうか。 厳密に言えば、どちらの質問の答えも、「No」だろう。 『誘惑される意志』 が紹介する実験結果が示すように、人間はしたいことをよく分かっていないし、分かっているつもりでもそのとおりにできなくて後悔を繰り返している。 最初から分かっていたつもりになっているのは、後知恵バイアスのおかげだ。 欲しかったのはこれだったのだ! と思うのは、答えを示されてからである。 かくいう自分も、後悔ばかりしている。 難しくもない用事を後回しにして、溜まっている様を見てはうんざりし、溜めた自分にうんざりする。

死して屍

『セールスマンの死』 を読んだ。 戯曲(演劇の脚本)だというのに、生々しい。 戯曲だからこそ、生々しいのだろうか。 思っても言葉にはしないようなことを言葉にしている。 生々しいのは、普通の人間の恐ろしさだ。 こんなことを考えていても何もおかしくない。 どんなことかはネタバレになるので書かない。 読んで気持ちのよいものではなかったけれど、後悔はしていない。 読んでよかったと思っている。

意匠の小異

『デザインのたくらみ』 を読んだ。 デザインとアートの境界はどこだろうか、と考えた。 自分はデザインは機能的であって欲しいと思う。 しかし、本書の著者はこう言う。 「機能から考え出されたデザインは美しい」とよく言われるが、僕は賛成しかねる。 その例として、倉俣史郎の椅子を挙げている。 詳しく知らないが、倉俣史郎の椅子には、機能を全く提供しない――つまり、座れないものもあるらしい。 自分は、最早それは椅子ではないのではないか、と思う。 では何か? と問われれば、原寸大のフィギュアだと答えるだろう。 食品サンプルのようなものだ。 見た目も大きさもそのままだけれど、そもそもの機能(食べる・座る)は提供しない。 と言うのも、著者は、その椅子を、 空間の美を際立たせる「花」としてのイス と表現しているからだ。 だとしたら、少なくとも自分にとって、座れない椅子はデザインされたプロダクトではない。 アートだ。 目で愛でるものはアート、使えてこそのプロダクト。自分はそう認識している。 このギャップは、恐らく「デザイン」という言葉の曖昧さが生んでいる。 この言葉から自分は「設計」に近いニュアンスを感じるけれど、筆者は「意匠」に近いニュアンスで使っている。 意匠は排除されるべきだ、というミニマリストではないけれど、機能はあってしかるべきだと思う。

Fire Flies

飛び道具の人類史―火を投げるサルが宇宙を飛ぶまで を読んだ。 本書は、沢山の飛び道具を紹介している。 その名に人類史と冠するだけあって、石礫からロケットまでを網羅している。 言われてみると、高い精度で物を投げられるのは、確かに人くらいか。 ちなみに自分は投げるのが苦手だ。 野球のボールを投げるより、サッカーボールを蹴った方が、飛距離も精度も出る自信がある。 人間って器用だなぁ、と思う。

OUTLINE of PRISMOID

Detour Tokyo と KDDIデザイニングスタジオ に行って、深澤直人氏の作品を見てきた。 Detour Tokyoには MOLESKINE を使って制作した作品OUTLINEが、KDDIデザイニングスタジオにはデザインした携帯電話 PRISMOID が、それぞれ展示されている。 ちなみに、MOLESKINEというのは、ブランド手帳の名前。OUTLINEでは、そのまま手帳として使っていた。 その帰りの道すがら、「OUTLINE(輪郭)は線じゃなくて面では?」と、ぼんやり考えていた。 MOLESKINEという面に描かれたデザインの輪郭は線だけれど、au Design Parkという空間に置かれたプロダクトの輪郭は面だ。 数学の言葉で言い換えると、平面の超平面は直線であり、立体の超平面は平面である。 平たく言うと、平面上での境界は線で、空間上の境界は面。 頭ではそう理解していても、立体を見たら線を知覚するのは、網膜が受け取るのが平面化された情報だからか。 平面上で対象を見分けるなら、平面を分割するのは線に着目する必要がある。 多分、視覚の弱点を補うのが、触覚だろう。手触りは、平面の情報をそのまま受け取れる。 例えば、携帯電話の持ちやすさに現われる。そういう意味では、PRISMOIDはカクカクしていた。 一方、PC上では、何をしていても(どんなソフトウェアを使っていても)マウスやキーボードの同じ手触りしか得られない。 これ以上考えると、視覚情報処理やタンジブルユーザインタフェースについて調べたくなるので、この辺りで。

人を動かすための動き

『人を動かす 新装版』 を読んだ。 本書には人を動かすための原則が全部で37個書かれている。 それらは、次の5つのグループに分類されている。 1 人を動かす三原則 2 人に好かれる六原則 3 人を説得する一二原則 4 人を変える九原則 付 幸福な家庭をつくる七原則 これで、どれだけの人が動くのだろうか? 本書を読みながら、「この原則を適用されたら、自分は動くだろうか?」 と考えていたけれど、あまり当てはまらないように思う。 でも読み終えた今、そんなことは実はどうでもよいことに気がついた。 本書を読もうと思ったのは、「他人を動かすには自分がどう動けばよいか」を知りたかったからだ。 自分が動くかどうかは問題ではない。 そういうわけで、他人が動くかどうか確かめる意味も込めて、実践してみようと思う。 ただし、全部は無理だ。 全部を実践するのは、健康食品のやけ食いのようなものだ。 いくら良いものでも、消化しきれなくては意味がない。

ストーリーの通り

『ベッドタイム・ストーリー』 を観た。 本作は、 『魔法にかけられて』 と同じアニメじゃないディズニー映画(『魔法にかけられて』は一部アニメだけれど)。 どちらも、『現実はストーリーのようにはいかない』というニヒリズムを提示した上で、やっぱりハッピィエンドで終わっている。 ニヒリズムを提示しているのは、メタ視点だ。 本作は、タイトルの通り、ストーリーがストーリーの中で重要な役割を果たす。 『魔法にかけられて』では、ストーリー(おとぎ話)と現実が交差している。 それ踏まえた上でハッピィエンドで終わるのは、その方が人に訴えかけるからだろう。 ただ、残念ながら、現実をストーリーのようにする直接的な方法は提示されない(そんな方法があったら、今頃現実とストーリーは区別がつかなくなっているだろう)。 時々、この『現実はストーリーのようにはいかない』という命題は真なのだろうか、と疑うことがある。 ただの学習性無力感ではないのだろうか、と。

意図おかし - 恐い絵2

『怖い絵2』 を読んだ。 『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因』 で引用されていたこの言葉を思い出す。 もし整合性があり、妥当性があるならば、あり得る解釈の中で、できるだけおもしろく想像を繰り広げたい、ということです。 アカデミックな引用が欲しいのなら、ロラン・バルトの『作者の死』だろう。 1968年に発表した評論「作者の死」において、ロラン・バルトはあるテキストの作者がそのテキストにおいて何を意味させようと意図したかは、そのテキストの解釈において重要ではないと説いた。 作者 - Wikipedia 作者の意図から離れた想像も楽しいけれど、作者が何を意味させようと意図したかを想像するのも楽しい。

良き月夜

moon by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 月と電線との対比から、色々なことが想像できる。 円と直線。 全音符と五線譜。 音楽と静寂。

カエルぴょこぴょこ

映画を観に出かけた先で、集めていたガチャガチャ 『原色両生類カエル図鑑 新改訂版』 を見つけたので、ついつい回してしまった。 5回回して、2つ目のミツヅノコノハガエルが出た以外は、かぶらなかった。 その上、シークレットも一つ出たので、ラッキーな気分。 写真は、そのシークレット――トノサマガエル。 単に揃えたいだけなら、オークションかばら売りしている店で買った方が安いのに、ついついガチャガチャで買ってしまう。 不合理だなぁ、と思う。

言葉を失う

『考える技術・書く技術』 を読んだ。 読み手によい物語を伝えようとすれば、その物語とは読み手がすでに知っているもの、または、十分な情報を与えられていれば、当然知っていると思ってさしつかえないものとなります。 ここで紹介しているのは、自分の考えを他人に受け入れさせるための技術である。 技術なので、手段である。目的は、他人を変えることだ。 イノベーションは社会を変革するものですが、社会に受け入れられるにはまず、既存の価値観と整合性をとる必要があるのです。 『イノベーションの神話』 頭では分かる。 けれど、自分が読みたいと感じるのは、読んで良かったと感じるのは、自分の知らないことだ。 読んだ本は読んでない本よりずっと価値が下がる。蔵書は、懐と住宅ローンの金利と不動産市況が許す限り、自分の知らないことを詰め込んでおくべきだ。(中略)実際、ものを知れば知るほどよんでない本は増えていく。 『ブラック・スワン[上]』 知っていることをいくらインプットしたって、考えが偏るばかりだと思っている。 また、血液型人間学を信じていれば、それに合致した行動だけが記憶に残り、それ以外の行動は忘れてしまうという確証バイアスもある。 『「心理テスト」はウソでした。』 さらに言えば、分かりやすい文には他意を感じる。 有り体に言えば、プロパガンダではないかと疑ってしまう。 人々のしたがうべき価値の妥当性を、人々に受け入れさせる最も有効な方法は、人々または少なくともそのなかの最も善良なものが常に抱いていて、しかもこれまで適当に理解されず、また認められなかった価値と実質的に同じものであると説得することである。 『隷従への道―全体主義と自由』 だから、自分の中には、分かりやすいものは間違っているというヒューリスティックさえ存在する。 正しいことが分かりやすければ、身の回りにもっと分かりやすくて正しいものがあるはずだ、と思う。 分かりやすいことと正しいことは、決定的に違う。 正しさとわかりやすさを取り違えてはいけない。 『まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか 多分、身の回りにあるのは、正しさとは関係なく分かりやすいものだろう。 分かりにくいものは、受け入れられないからだ。 たとえば、エイモス・トバースキーとダニエル・カーネマンによれば、人びとは、自分に理解できない

死人に口なし - ナイチンゲールの沈黙

『ナイチンゲールの沈黙』 を読んだ。 前作 『チーム・バチスタの栄光』 の栄光と比べると、リアリティに欠ける印象。 と言うのも、DMA (Degital Movie Analysis) ――白鳥に言わせれば、「紙芝居」に無理臭さを感じてしまったからだ。 『死因不明社会』 のおかげでAi (Autopsy imaging) については疑問を持たなかったけれど、DMAはいただけない。 DMAの機能は、犯行現場がその状況になった過程の逆演算による犯行過程再現だと理解している。 結果から逆算しての原因推定は、独自に開発できるレベルのものではない。 同じ結果を示す原因は無数に存在する。

全方位対応

『心臓』 を聴いている。 本作は、KREVAの4thアルバム。 8. 心臓を境に、前半7曲がメロウな左心室、後半7曲がアッパーな右心室、と構成がはっきりしたコンセプト・アルバム。 左心室・右心室で雰囲気は異なるけれど、どちらも好きだ。 左心室の曲はラップなのに何だかメロディアス。 何かの記事で、ルーツの一つに歌謡曲があると言っていたことを思い出す。 右心室の曲は相変わらずの巧さ。 11. 中盤戦にMummy-Dが参加しているのも嬉しい。 それに加えて、左心室・右心室を問わず、トラックが素敵。 しっかりとしたリズムの上の、装飾的な音がいい味を出している。 隙のないアルバムだと思う。

犬はウィネベーゴではありません

『最後のウィネベーゴ』 を読んだ。 本書は、 『マーブル・アーチの風』 、 『犬は勘定に入れません』 の著者、コニー・ウィリスの短篇集。 収められているのは、以下の4篇。 「女王様でも」 「タイムアウト」 「スパイス・ポグロム」 「最後のウィネベーゴ」 自分が一番気に入ったのは、3篇目の「スパイス・ポグロム」。 スラップスティックな雰囲気が良かった。 最後は丸く収まるし、エンターテインしていると思う。 最近、堅めの本ばかり読んでいるから、こういう肩の力を抜いて楽しめる話に飢えていたのだろうか。

編集的

『ファンタジア』 を読んだ。 本書には、こんな一文がある。 レオナルドは眼に見えるものを絵に描くだけにとどまらず、なぜこの物体がこのかたちをしているのかを理解しようとした。 確かに描くことは理解しようとすることだと思う。 ただ、自分の場合、何かに直接触れる機会よりも、編集されたもの (映像、写真、漫画、文書) に触れる機会の方が多い。 絵を描く時も、写真を見て描くことが少なくない。 その時、自分は「なぜ見えているように見えるのか?」を理解しようとすることがある。 写真には、何らかの(作為/無作為)の理由があるからだ。 問いを抱いて写真を眺めると、編集で見えなくなった部分が浮かび上がってくる。 それを足し戻し、全体像を想像してみると、編集対象はもちろん、それと編集者との関係が見えてくる。 その見えない部分に、編集者の考えが見え、さらに面白いことに、時折 考えなしの行動 も垣間見える。 ここまで見えると、理解した気になれる。

分類症候群

『ブラック・スワン[上]』 を読んだ。 『ブラック・スワン[下]』 は既に読んでいるけれど、[上]も読んで良かったと思う。 人は何かとパターンを見つけがちだ。 あるいは、ありもしないパターンを作りがちだ。 いい加減な分類がどれだけ傍迷惑か思い知りたければ、分類でできる塊が歴史上どれだけ頻繁に変更されたかを調べればいい。 自分が多少なりとも囓っている分野だとロックとかミステリィは酷い。 これはロックだとかこんなのはミステリィじゃないとか、はた迷惑な議論をそこかしこで見かける。 それでいて、ロックとかミステリィの定義に共通理解はない。 ラフ画にペン入れすると下手になった気分になるのと同じだ。 明確に一線を引かなければ、めいめいが好きな線を選ぶ。 もっと言えば、線なんて見ていない。 いや、何も見ていない。 ミロのヴィーナスが美しいのは、手がないのと同じだ。 なければ、そこに理想のものがあると仮定できる。 面白いのは、多くの場合、理想自体は後にも先にも仮定の中にも存在しないこと。 仮定できるのは、理想のものがあることだ。 理想があることを想像することと、理想自体を想像することは違う。 理想自体を想像できるのは、作り手側に属するときだけだと思う。