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11月, 2011の投稿を表示しています

山積みの矢を待つ身

上巻を読み終えて、ちょうど2週間( 感想 )。『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)』を読み終えた。 上巻では、過去の文明崩壊を振り返り、その原因について考察していた。下巻では、それを受けて、現代の問題について考察している。 著者が「とりわけ深刻な"十二の環境問題"」として、4つのカテゴリに分けて挙げているのが、次の問題。 ■天然資源の破壊または枯渇 自然の生息環境 野生の食料源 生物の多様性 土壌 ■天然資源の限界 エネルギー 真水 光合成能力 ■わたしたちが生み出した、もしくは発見した有害な物質 毒性化合物 外来種 温室効果ガス ■人口の問題 世界の人口の増加 増加した人間が環境に与える影響 これらの問題に対する著者のスタンスは、次の一節に端的に表れている。 「今日の世界がかかえている最も重要な環境問題、人口問題をひとつあげるとすれば、それは何か?」という質問がよく聞かれる。簡潔な答えを返すなら、「最も重要な問題をひとつあげるとすれば、それは、問題を順位づけして、ひとつに絞ろうとする我々の誤った姿勢だ!」ということになるだろう。 著者は、これらの問題は独立していないから、全ての問題を解決しないといけないと主張する。確かに、各問題は独立していないし、どれも深刻かもしれない。 でも、「ひとつに絞るもなにも、ひとつでも手に余っていないか?」と思う。少なくとも自分には、こんなに沢山の問題と気にし続けられるとは思えないし、どの問題も容易ではないように見える。ただ、じゃあひとつに絞った方がいいか? というと、それも違うと思う。 このチグハグは、主語を整理すると、幾分見晴らしが良くなる。つまり、社会全体としては、全部の問題に取り組んでいると同時に、一個人・一組織としては、問題の一部にしか取り組めない。 言葉にすると、当たり前のことだけれど、当たり前のことなら簡単に実行できるかというと、そうではない。 各問題に取り組んでいる組織は、社会全体で限られたリソース (例えば国からの補助金) の配分について競争状態にあるから、自組織が取り組む問題が最優先だと主張するインセンティブが発生してしまっている。 これは、社会全体として全問題に取り組んでいるという状態から、離れる力として働く。リソースが集まって

紫水獣

CAPCOM FIGURE BUILDER Monster Hunter vol.3 を買った。 出てきたのはロアルドロス亜種。意外と大きくて驚いた。vol. 2で出てきたハプルボッカと比べたら、この通り。 ゲーム内のサイズだと、ロアルドロス亜種の方がハプルボッカの4分の3くらいのサイズなのに、このシリーズだとロアルドロス亜種の方が大きい。 おかげで最初の写真くらいアップでの撮影でも粗がが目立たないくらいのディティール。イビルジョーも欲しくなってきた。

ピザ食べたい

『よつばと! 11』を読んだ。宅配ピザを食べたくなった。 このシリーズ、食事のシーンを読んでいるとお腹が空いてくる。よつばをはじめ、登場人物がみんなとても美味しそうにものを食べるからだと思う。 なんてことを書いていたらますますお腹が。

傾き曇り沈む

東京競馬場に行って来た。競馬場は初めて。 トラックの中央の広場から観戦。芝生の上に座っていたので、ピクニック気分。 ちなみに残念ながら当たらなかった。

かく語りき

『ニーチェの馬』( 公式サイト ) を観てきた。 とても情報量が少ない。 それなのに、受け取ったイメージはとても豊かだ。 情報量が少ないからこそ、よく似たシーンが繰り返されるからこそ、些細な差異に気がつくことができる。自分は食事のシーンが印象的だった。 長回しの映像も面白い。シーンが切り替わっていないのに、いつの間にか手品のように構図が変わっている。カメラの向きを変えながらの長回しのおかげで、登場人物が生活する空間をイメージできたのも新鮮だった。 ところで、その映像はモノクロなんだけれど、こんなに綺麗さを感じたのは初めてじゃないだろうか。これまではどちらかというと古さの方が勝っていた。特に、農夫の視線が強力だった。あの瞳は何色なんだろいう。 と、観た後に反芻するように味わうことができるけれど、観ている間は退屈に感じる時間も少なくなかった。監督自ら"Boring"なんて言っていたし、実際エンターテインメント性はない。しかも、上映時間が長い。約2時間30分もある。 観ている最中は眠たくなるのに、観終わった後に色々とイメージが湧いてくるなんて不思議だよなぁ、と。

素のスノウマン

「クリスマスまであと1ヶ月を切ったね」 「そう言えばイルミネーションが目に入るようになりましたね」 「まれに派手に飾られた一般家庭があるよね。サービス精神旺盛だな、と思う」 「あれって部屋の中から見たらどんな感じなんでしょうね」 「車でもたまにいるよね、外向きに人形を飾っている車。あれも、内側から見て楽しいのかな? と思う」 「中から自分が見ることよりも、外からの視線を集めることを志向しているんじゃないでしょうか」 「そういう視点だと、写真はいいよね。誰の視線も同じ視点になる」

過大の課題

『日本の著作権はなぜこんなに厳しいのか』を読んだ。 第4章が生々しい。あとがきによると、本章は「ダウンロード違法化はどのようにして決まったのか」は、私的録音録画小委員会などの議事録を元に構成されているとのこと。 そもそも委員会の構成が歪だったり、言いたいことを言いっ放つためだけの、合意を積み上げていこうという姿勢がほとんど見えない発言があったり、パブリック・コメントで集まった意見をほとんど無視したり、とこんな風に決まっていいの? と思う経過が描かれている。 ところで、その第4章に、「数字の信ぴょう性」という節がある。本節では、文化庁著作物流通推進室長が、2004年にファイル交換ソフトで違法ダウンロードされた音楽ファイルの推計を示している。その推計は、偏ったサンプルから集めた、分散が大きい(裾が長い)データの平均値に基づいている。 ここに大きくな問題が2つある。まず、この推計値は過大だ。このことは本書でも指摘されている。もう一つ、「係留と調整のヒューリスティック」 ( アンカリング - Wikipedia ) の影響がある。 嘘でもデタラメだろうと先に大きな数字を見せられると、人はそれに引きずられる傾向がある。この場合、示された推計が過大だと分かっていても、補正が過小になっている可能性が高い。 分かってやっていたら、結論ありきなんだろうな、と思う。

マウスとキーボードとディスプレイと

Logicoolのマウス M510 とキーボード K270 を買った。きっかけは、仕事用ノートPCで使っているMicrosoftのマウス IntelliMouse Explorer 4.0の故障。ホイール部分のゴムが切れて、回転させようとすると引っかかるようになってしまった。3~4年使っていたから、寿命だろうか。 最初はまたMicrosoftのにしようと思ったけれど、ワイヤレス・フルサイズ・5ボタン・右手用で探したら、一つも残らなかったので諦めた。自宅用PCで使っているLogicool MX400が気に入っていることもあり、Logicool製品から探した結果が、M510。 白いデスクの上でマウスパッドなしで使っていると、わずかにポインタががたつくことがあるけれど、滅多に起きないし、1pxをポイントするようなシビアな操作は不要なので許容範囲。 K270は、衝動買いの側面を否定できない。ノートPCの変則配列になかなか慣れないこともあるけれど、Unifying対応だからUSBポート1つで済むし安かったので試しに使ってみようという気持ちの方が大きい。 ノートPCに液晶ディスプレイつないでマルチディスプレイにして、ノートPCのキーボードを使っていると、高解像度の液晶ディスプレイに正対できないという問題があるけれど、これで解決するはず。 キーを打った感触が好みじゃないのと、テンキーが邪魔だけれど、M510と合わせて使うと、USBポート1つでケーブル2本の取り回しから解放されて、4000円強。良コストパフォーマンス。

落ちきらない砂時計

『砂の本』を読んだ。本書は、先日読んだ 『モレルの発明』 に序文を寄せていた、ホルへ・ルイス・ボルヘスの短編集。 表題作の『砂の本』が最も印象的だった。これはある始まりも終わりもなければ、二度と同じページを開くこともできない本を渡された男の話。 でも、普通の本だって、始まりと終わりこそあれ、開く度に違った風に読める。 それは読まれる本じゃなくて、読む自分が変わったからなのだろうけれど、だからこそ、参照点として有効だ。

ジャスト・アジャスト

『アジャストメント (原題: "The Adjustment Bureau")』を観た。 何となく主題が古いと感じていたら、原作はフィリップ・K・ディックの『調整班』という短編小説らしい。 設定は面白かったけれど、物語自体は単なるラブ・ストーリーになってしまっていたのが残念。主人公の逃亡劇もゴリ押しだったし。設定を生かした巧い逃げ方をするシーンとかあったら、また違った印象を受けたかもしれないのに、勿体ないと思う。 あと、ラストも何かスッキリしない。あれ、また後から書き足されるかもしれないとは、思わなかったんだろうか。

頂上の表情

crow by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 先日、こんなことをつぶやいた。 「あれは金メダリストのウサイン・ボルトを目標にするくらい間違っていると思いますね(笑)。」が面白かった。 Twitter / @SO_C 「草食男子」世代を攻略するマーケティングとは~対談・深澤真紀 - ヒット研究所 - 日経トレンディネット を読んで思ったことを、何の気なしにつぶやいたのだけれど、「(笑)」につられて笑っている場合じゃないと思い始めた。 上のつぶやきだけだと文脈が分からないので、前後も含めて改めて引用する。乱暴にまとめると、トップを目指さなければならないと思い込まされているということだと思う。 さらに、吉永小百合さん、八千草薫さんなどのような人を目標にする。あれは金メダリストのウサイン・ボルトを目標にするくらい間違っていると思いますね(笑)。市民ランナーはボルトを目標にしないけど、女というランナーはボルトを目標にしてしまう。 これは、女性に限った話じゃない。 『津田大介の「メディアの現場」vol.11』 の『今週のニュースピックアップ Expanded 《part.2》』で、インタビューを受けている山本さんは、日本の農業についてこんな風に言っている。 みんな一番上のブランドものだけを捉えて「農業はこういうふうにやっていけば大丈夫」と言う。それは「みんながグッチ、プラダになればいい」論ですよ。できるわけがない。 こんな風に、「みんな一番上のようにやれ」と言われるのは、農家だけではない。サラリーマンもそうだ。Amazon.co.jpにも、「本 > ビジネス・経済 > ビジネス実用 > リーダーシップ」なんてカテゴリがあって、現時点で2000冊以上が登録されている。 「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや」とか、「鶏口となるも牛後となるなかれ」とは言うけれど、自分は、「船頭多くして船山に上る」と思っているので、リーダーは少ない方がいい、と言うか一人で良いと思う。 あるいは、いなくてもいいかもしれない。鳥の群れはあんなに綺麗に飛んでいるけれど、リーダーはいない。たった三つのルールで、その動きをシミュレーションできる ("Bo

どっせーい

『赤ずきん (原題:"Red Riding Hood")』を観た。 サスペンス風味のダークファンタジーといった雰囲気。雪景色に、主人公ヴァレリーの赤がよく映える。 ただ、雰囲気を重視したためか、雪が積もっているのにやけに薄着だったり、とところどころチグハグさを感じた。 雰囲気が好みだったから、まぁ、いいかと思う。

メカニカル・シニカル

映画『メカニック (原題:"The Mechanic")』を観た。本作は、1972年に公開された同題の作品のリメイク版。 基本的な話の筋は、殺し屋の主人公アーサー・ビショップが実は騙されていたことに気がついて黒幕を殺す、という分かりやすいもの。面白いのは、途中からできる弟子のような存在ベン・フォスターとの関係が、最後まで余談を許さなくて面白い。 ところで、アーサーを演じるジェイソン・ステイサムのイメージが、『トランスポーター』の運び屋、『エクスペンダブルズ』 ( 感想 ) の傭兵と無敵感あふれるものばかり。このままスティーブン・セガールに比肩するくらいまでになって欲しい。

カメラへの視線、カメラの視線

red flower by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 2ヶ月ほど前に、 「新しいデジカメ欲しいなぁ」 とつぶやいたりもしたけれど、ちょっと欲求が低下してきた。 デジカメ (PowerShot A480)を買ったそもそもの理由は、ケータイをW42HからPRISOMOIDに機種変更した時の、写りの悪さだった ( デジカメ購入時のエントリ )。 買って2年弱が経って分かったのだけれど、普段は持ち歩かないし、わざわざ持ち歩くようなイベントの時はそんなに撮らない。気に入っている写真は、ふと目に留まるものを見つけたときに撮った写真だから、自分にとっては、普段から持ち歩いているもので撮れることが大事なんだな、と思い当たる。 さらに、4~5ヶ月ほど前に機種変更したInfobar A01のカメラで何十枚か撮影していたら、「これでいいかな」と思えるようになってきたのも大きい。たとえば、冒頭の写真は、Infobar A01で撮影したもの。普段持ち歩いて、自分が撮りたいなと思った時に撮る分には、これで十分だと感じる。 じゃあ、PowerShot A480は用済みかというと、そんなことはない。このエントリィを書いている間に思い出したけれど、1cmマクロが撮れる。面白い視点で撮れるのはもちろん、写したくない物が入りにくいのも地味に嬉しい。 board by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . というわけで、新しいデジカメはいいかな、と思い始めている。一眼ならではの前景や背景をぼかした写真もいいと思うけれど、欲しさ加減と価格が釣り合わない感じ (あぶく銭があったら買いたい)。

渡したわ

『モレルの発明』を読んだ。良い意味でモヤモヤする作品。ああだろうか、こうだろうか、と色々と考えを巡らせられる。 『沈黙ピラミッド―ブギーポップ・クエスチョン』 を思い出した。作品として似ているというわけではない。『沈黙ピラミッド』で語られていたピラミッドの謎に対する見方が、本作にも当てはまるんじゃないか、と直感した。 つまり、本作は、解き明かされるべき謎が書かれているんじゃなくて、読者が謎を見出そうとせざるを得なくなるように書かれているんじゃないだろうか? 本作はボルヘスから「完璧な小説」と賞されている。その完璧さは、きっと腕が欠けたミロのヴィーナスのそれだ。単に自分の理解が及んでいないだけかもしれないけれど、そう考えることにする。 そうしないと、いつまでも考えを巡らせ続けそうなので。

楕円の縁

『デザインの骨格』を読んだ。 本書はブログ 『山中俊治の「デザインの骨格」』 を書籍にしたもので、次の10章からなる。 第1章:アップルのデザインを解剖する 第2章:デザインを科学する 第3章:コンセプトを形にする 第4章:スケッチから始める 第5章:モノ作りの現場から考える 第6章:人と出会う 第7章:骨を知る 第8章:人体の秘密を探る 第9章:漫画を描く、漫画を読む 自分が面白いと思ったのは、第4章 ( 山中俊治の「デザインの骨格」 » Sketches に相当)。 次の一節の「中心軸のような仮想の線」は、顔を描くときには必ず引く。たとえば、 見返りミカエル にアップした絵に残っている。こういう仮想の線を引くか引かないかで、安定感が全然変わる。 絵を描くことは、ものの輪郭を描く事ではない。重要なのは向こう側にあって見えていないものや、中心軸のような仮想の線を描く事。そうやって立体や空間の構造を把握したときに迷いなく輪郭を決定することができる。 中心軸なしで輪郭を辿ろうとすると、自分の場合、どんどん歪みが蓄積していく。 これも面白い。見慣れたものでも描いて初めてわかってくることは、とても多い。描こうとするときの観察は、他のどんなときの観察よりも事細かだと思う。 絵を描く訓練はわかっているものをあえて捉え直す作業です。 ところで、写真は 『楕円』 に書いてあった楕円の描き方を実行してみたもの。面白い。著者はこれをスケッチのウォーミングアップとして描いているらしい。自分のウォーミングアップは網掛けなので、周りに描いてみた。 手で描かなくても、ソフトウェアなり定規なりスクリーントーン使えばいいじゃないかと思うかもしれない。でも、正確に描いてあることと、自然に見えることは違う。錯視が働くからだ。 たとえば、一部が隠れた棒状の物を描く場合、「ポゲンドルフ錯視 ( Wikipediaの該当記事 )」があるから、まっすぐ描くとずれて見える。そういうわけで、最後には目を頼りにしている。少なくとも、自分の目には自然に見える線を引ければ良いと思う。

トリックに取り付く

『アウトギャップの無限試算』を読んだ。 本作は手品論にも見える。 『彩紋家事件』 を思い出す。 自分は、手品を見るのが好き。トリックについて想像は巡らすけれど、見破りたいとかやってみたいとかう気持ちはあまりない。 大学時代に奇術研究会に友人がいたせいかもしれない。長時間に渡って練習を重ねていると聞いていたし練習台にもなったから、間接的ながら、漠然と想像していたよりずっと地道なんだと感じた記憶がある。 あるいは、単純にそんな躍起になるより気軽に楽しみたいというだけ。楽しんだ方が楽しい(同語反復)。

事前の次善

『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (上)』を読んだ。堅くて複雑なのに面白い。 特に、第2章「イースター島に黄昏が訪れるとき」 。太平洋に浮かぶ、モアイで有名なその島の人工が激減し文明が崩壊していくプロセスを再現していく様は、とてもスリリング。 そうしたプロセスを再現できるのは、もちろんその島に関する深い調査のおかげでもあるんだけれど、それ以上に同時期に同じポリネシアが渡った多数の島の存在が大きい。 こうした島があるおかげで、"自然実験"すなわち比較対照できる。Webサービスなら好きなように条件を変えてA/Bテストできるけれど、文明はそうはいかない。だから、こういった島々が必要になる。 自然実験にせよ、A/Bテストのようなコントロールされた実験にせよ、比較するという姿勢は、とても信頼を増すし効果的だと思う。 先日、TED.comで見た エスター・デュフロ: 貧困に立ち向かう社会的実験 では、たとえばマラリアを防ぐための蚊帳をどのように普及させると良いか、多数の村を対照にいろいろな普及のさせ方を試している。 人を対象にしているからか抵抗を覚えたけれど、今は、最も効果的なやり方が分からない場合、これが最善の次善かと思い直した。効果が最大の方法が分からない以上、机上の空論に時間を費やすより、甲乙つけがたい方法を全部試した方が、ベターなはず。どの方法だって程度の差こそあれ改善するという見込みなのだから。 以下、2011/11/20 追記 クーリエ・ジャポンの編集部ブログに、まさに最初に自分が感じた抵抗についての回答が掲載されていた。 デュフロの研究について「貧しい人を実験の対象にするな」と文句をつける人もいるようですが、デュフロはこう言います。 「自分たちの援助がいい効果をもたらすのか、それとも悪い効果をもたらすのかも知らずに援助をすることのほうがよほど実験的ではないでしょうか」 実験を駆使して開発経済学を変えたエステル・デュフロ ? クーリエ・ジャポンの現場から(編集部ブログ)

光と影と人と

国立西洋美術館で展覧会 『ゴヤ 光と影』 を観てきた。 大きな作品は少し離れてゆっくり眺めたいのだけれど、今回のような来客の多い展覧会だと、人の流れが途絶えないので落ち着かない。 その流れは、長めの解説があったり、音声解説付きの作品があると、そこで滞る。解説に興味がない人は追い抜いていくし、手前の人が移動するのを待つ人もいる。 特に解説がなくても、真剣な眼差しを作品に注いだまましばらく立ち止まっているいる人もいる。そういう人が見ている作品の、何が目に留まったのか想像するのも面白い。 自分が立ち止まる作品もある。大きな作品の前ではだいたい立ち止まる。小さめの作品だと、シニカルあるいはペシミスティックな視点で描かれた素描の前で立ち止まることが多かった。 特に詳しい訳ではないけれど、人が描いた絵を見ると、何となく力が湧く。 写真は、すぐ近くの国立科学博物館入り口に置かれていたクジラの像。合わせて常設展示も見ていたら閉館時間になってしまって、外に出たらすっかり暗く、寒くなっていた。

ドロドロドロイド

「ドロイド君のフィギュアを衝動買いしてしまった」 「androidのキャラクタですね」 「海外では有名な人がデザインしたみたいだね」 「そうなんですか」 「Kidrobotの人らしいね。せっかくなのでもう1枚」 「後ろが気になるんですけれど」 「もう一体集まったら、オワニモが発動するね」 「ぷよぷよじゃありません!!」 「折紙に負けないくらいの見切れっぷり」

ワイワイカワイイ

raindrop by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 昨日、たまたま 『北極を撮った石川直樹さんと上野公園を撮る。』 というほぼ日の連載を読んでいて、次の一言に行き着いた。 石川 撮ってる人に「キレイでしょ?」って言われてると、キレイに思えなくなる、みたいな。 第11回「ちっぽけな美意識を超えて」 それで、3年くらい前に、「キレイ」ではなくて「カワイイ」について同じようなことを考えて、 『良いものは良いのか』 にこんなこと書いていたことを思い出した。 カワイイと思ったものを、カワイイと思って撮った時点で、カワイイ写真が撮れることになっている。 これは「キレイ」も一緒だと思う。名所なんかに行ったら、案内図に撮影ポイントまで示されていて、実際にそこに行ってみると、ごつくて高そうなカメラを三脚の上に載せている人が、おそらく最も「キレイ」に撮れるポジションにいて、「あぁ、自分がコンデジなんかで撮らなくても、もっと良いカメラで良いところから撮った写真が世界には溢れているのだなぁ」なんて思うことがままある。 「キレイ」な写真・「カワイイ」写真もそれはそれで撮るのが難しいし、撮れたら撮れたでやっぱり何か嬉しくなるのだけれど、そうじゃなくて自分がいいなと思った時に撮ったものの方が見返して面白い。 写真ラベル を見ると、フィギュアの写真ばかりだから説得力に欠くけれど。 ほぼ日の連載では、だから写真は「世界の端的な模写」だと言って、タイトルの「ちっぽけな美意識」に繋がっていく。 けれど、絵を描こうと思ったらそうはいかない。どうしたって「美意識」もっと簡単に言うと「何を素敵だと思っているか」でフィルタされる。ただ、自分は3年前に、 かわいいものもそうでないものも、なぜそこに魅力を感じるのか考えるのは、面白い。 『切れない綺麗な』 と書いていて、今もまだよく分かっていなくて、こうして時々考える。 というわけで、 10年くらい前から5年くらい前にかけて描いたCG を見返してみると、今見てもそんなに違和感がないものから、すぐさまウィンドウを閉じたものまで、色々あってそれでも当時はこう描いたんだから、自分の好みは変わっていくものだと再確認した次第。 ちなみに

俺達海賊

『パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉 (原題: "Pirates of the Caribbean: On Stranger Tides")』を観た。 本作はパイレーツ・オブ・カリビアンシリーズの4作目。前3作で一段落ついて、本作から第2部スタートといったところ。ビル・ターナーもエリザベス・スワンも登場しない。 何となく1作目に近い雰囲気で、全2作より好み。キャプテン・ジャック・スパロウは相変わらず魅力的だけれど、本作ではバルボッサが、「あれ、こんな格好よかったっけ?」と思うくらい格好良い。 新登場のアンジェリカもジャック同様食えないキャラクタで面白い。愛憎入り交じっている感じ。 続編が作られるだろうから、楽しみ。

電子書籍の軌跡

津田大介さんのメールマガジン 『津田大介の「メディアの現場」 vol.10』 を読んだ。ちなみに購読し始めたのは前々号のvol.8から。 メールマガジンだけどとても濃くて量が多い、という評判をtwitterで聞いていたけれど、想像以上だった。たとえば、vol.10のメールは、2068行、54823文字。空白記号や改行も数えているからおおよその値だけれど、400字詰め原稿用紙に換算すると約137枚分になる。 メールで読む長さじゃない。スクロールボックスの薄さにクラクラする。 というわけで電子書籍 (ePub形式) ファイルをiPadのiBooksで読んでいる。vol.8, 9は 津田さんメルマガ→ePub変換ウェブサービス で作って、vol.10からは公式配信が開始されたファイルをダウンロードしている。タイムラインで聞いていた通り、同じ文章でもiBooksでePubを読む方が、メーラでプレーンテキストを読むよりずっと読みやすい。というより、これがどれだけ読みやすいかが気になったのも、購読の大きな理由だった。 思えば、始めたまともに読んだ電子書籍も、津田さんの 『Twitter社会論』 だった。そして、現時点で最後に読んだ電子書籍は、vol.10の『津田大介のデジタル日記』で紹介されていた 『グーグル、アップルに負けない著作権法 PREVIEW EDITION』 だ。これは最初はiPadの専用アプリで読んでいたのだけれど、何度も落ちて読み進められなかったので、結局PCのディスプレイで読んだ。 そう言えば、3年前の2008年は、こんなことを思っていた。 仮にリーダを使うとしたら、ニンテンドーDSかな、今のところ、良いかもしれないと思えるリーダは。 Mirror House Annex: 何で読むか 前年に 『DS文学全集』 が発売されていたからその影響だと思う。これはこれで青空文庫が読めるのだけれど、継続的な配信がないと本を買って読むという行為を代替できないので、結局買わなかった。 それが2010年にiPadが発売されて、2011年にはそれをリーダとして毎週メルマガを電子書籍で読むことになっているのだから、分からないものだよなぁ、と思う。 電子書籍に関するここ最近の動きは、本当に目まぐるしい。目に留まった範囲だけでもこんなにある。 ニコニ

100万回死んだねこでもある

『100万回生きたねこ』 のBE@RBRICKを購入した。 ねこの絵本と言えば、 『あおい目のこねこ』 も読んだ覚えがある。 たまには絵本も良いな、と思う。

傷に気付くズキズキ

『マイ・ブラザー (原題: "Brothers")』を観た。本作はデンマーク映画 『ある愛の風景』 のリメイクらしい。観終わってから知った。 サムとその妻グレイシー、それから二人の娘イザベルとマギー、最後にサムの弟トミーの物語。 戦死したと思われていたサムが帰国してからの、日常的な光景が堪らない。表面的には牧歌的でさえあるシーンが、いつ砕けてもおかしくない脆さを伴って見える。 日常が奇跡的なバランスで成り立っていることを、改めて思い知る。

学舎ナビ

『情報デザインの教室 仕事を変える、社会を変える、これからのデザインアプローチと手法』 を読んだ。 「教室」という言葉が、内容をよく表している。とても教科書的に構成されている。 まず歴史を含む概論があり、情報デザインのプロセスに沿って詳細な内容があり、最後に事例で締めくくっている。きっと一通り抑えるべきポイントを抑えているんだろうな、という安心感を覚えた。 その代償なのか、縦糸となるストーリィがない。情報デザインについて本書で最初に知ったとしたら、面白い!とは思わなかったと思う。 そういう意味ではまさに「教室」で、学ぶ意思がある人向けの本だと思う。軽い気持ちで読み始めたけれど、腰を据えて読んだ方が身になったんじゃないだろうか。 でも、ざつと眺めて「こんな手法もあるんだ」と把握するだけでも相応に役に立ちそう。

Yeah! いえ、言え

「『親しき仲にも礼儀あり』ってことわざがあるけれど、実際、他人相手の方が礼儀を正しちゃうよね」 「『余所様』って感じですね」 「いや、そこまでいったら慇懃無礼だろ」 「やっぱりそうでしたか」 「言いたいことを言うのと、言うべきことを言うのは違うよなー」 「〈化物語〉シリーズの阿良々木さんがそんなことを言っていましたね」 「言いたくないけれど、言うべきこともあるよな。 『天才! 成功する人々の法則』 ( 感想 ) で紹介されていた大韓航空の例みたいに」 「失礼。ファミマ下」 「一階がコンビニのアパートか、ここは。しかも噛んでねーし。つーか、話聴いてる?」

ヨホホー

『ONE PIECE 64』を読んだ。 ついに魚人島での本格的な戦闘が始まって、みんなが2年間の修行の成果を存分に発揮し始める。派手なシーンが目白押しで嬉しい。 一人だけ修行していないガイコツがいるけれど、ちゃっかり活躍しているところが面白い。ブルック、良いキャラしているな。

因果の暗号

『なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記』を読んだ。 でも、どうして、すべてのことに理由がなければならないという考えにこだわるのでしょうか? とかく人間は理由すなわち因果関係を見出しがちだ。 『錯覚の科学』 ( 感想 ) で「原因の錯覚」として紹介されているように、前後関係を因果関係だと短絡することがままある。 だけど、理由がないことなんていくらでもある。苦しいときに何か悪いことをしただろうか? と問うてみたり、苦しんでいる人を見て当然の罰に違いないと邪推してみたり、とかてんで的が外れている。 苦しい時にさらに悩む必要なんてないし、同じ罪を犯しても苦しみを得る人とそうでない人がいる。 頭で分かっていても、苦しいときほど頭がはたらかないし、そのあたりの点でまーままならんよなー。

Repeat Before Me

『ミッション: 8ミニッツ (原題: "Source Code") 』を観てきた ( 公式サイト )。 映画『インセプション』( 感想 )、グレッグ・イーガンのSF小説 『順列都市』 、アニメ・ゲーム『STEINS;GATE』( iPad版の感想 ) を思い出す。 これらが好きならお薦め。上記よりはもう少しシンプルだから、『インセプション』ほど「長い、難しい」とは感じないと思う。 公開して日も浅いので、これくらいで。

アマチュアセッシング

『Processingをはじめよう』を読んだ。本書はビジュアライズに適したプログラミング言語Processingの入門書。 とにかくお手軽。Windowsなら、開発環境のインストールはZipファイルをDLして展開するだけ。コーディングの量も少なくて済む。30分もあればサンプルを動かせる。動かして面白いのは、4章からだと思う。何らかの操作 (たとえばマウスの移動) に反応するプログラムの方が、ただ単に実行して結果が帰ってくるだけのものよりずっと面白い。 Processingは、 "Visualizing Data" で数年前に触って以来。いきなり英語でしかも応用編だったので、途中で挫折してしまっていた。 これを機会に続きを読み始めようかな。既に訳書 『ビジュアライジング・データ ―Processingによる情報視覚化手法』 が出ているので、「そちらを買えばいいじゃん」という誘惑が内から湧いてこないではないけれど。 あるいは、Android端末で遊んでみるのも楽しいかもしれない。こちらはまだ試していないけれど、Processingは1.5からAndroidにしたらしい。 動く物が作れるって楽しいよなぁ、と。

ガクガク科学

『もうダマされないための「科学」講義』 を読んだ。本書は小論集。先日読んだ『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』( 感想 ) の著者が、3章に執筆しているので読んでみた。各章のタイトルと著者は次の通り。 1章 科学と科学ではないもの (菊池誠) 2章 科学の拡大と科学哲学の使い道 (伊勢田哲治) 3章 報道はどのように科学をゆがめるのか (松永和紀) 4章 3・11以降の科学技術コミュニケーションの課題――日本版「信頼の危機」とその応答 (平川秀幸) 付録 放射性物質をめぐるあやしい情報と不安に付け込む人たち (片瀬久美子) 1章は総論的な内容。この章を読むだけで、概観は十分つかめると思う。それでいて抽象的なわけではない。日常的かつ実用的な内容が詰め込まれている。確かに、科学かニセ科学か分からないグレーゾーンはあるけれど、白黒ハッキリしているところをハッキリしていると言明するだけでも随分効果があると思う。それから、ニセ科学のような効果の期待できないものについて、リソースが割かれるのは社会的に大きな損失だというのは、その通り。 『科学的とはどういう意味か』 ( 感想 ) でもそう言っていたし、自分もそう思う。特に実効性のないパフォーマンスにどれだけのリソースが割かれているのか、と考えるとクラクラする。 2章は、科学的かどうかをその内容ではなくて、態度で判断するといいんじゃないか、という提言。現在の科学では真偽が分からないグレーゾーンは確かに存在するけれど、確からしさを高める方法があるのにそれをしようとしないのは、科学的とは言えないと主張している。しようとしないのは、偽だと分かってしまうからだろうな、と思う。逆に言えば、きちんと確からしさが認められれば、組み込んでいくのが科学。たとえば、『代替医療のトリック』で描かれているように、経験的に知られているだけの治療法でも、再現性があるのなら通常の医療に組み込まれていく。 3章は、『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』と重複しているところもあるけれど、おかげであまり紙幅を割いてないと箇所にも目を向けられた。両論併記に関する次の一文は、言われてみればその通りだけれど、言われるまで意識していなかった。今後、両論併記の記事を読む時に、思い出したい。 学術界では9対1、あるいは99対1