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9月, 2020の投稿を表示しています

『ムーンシャイン』の「僕」と「私」――あるいは『円城塔「ムーンシャイン」について』について

短篇集 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』に収録されている、円城塔の「ムーンシャイン」についての感想。 円城塔「ムーンシャイン」について - SF游歩道 とおもしろいくらい重ならなかったので、どれだけ違う読み方をしたか書いてみる。 文学の人が円城塔を詳しく検討するための材料も十分に提供出来たと思う。 出典: 円城塔「ムーンシャイン」について - SF游歩道 ともあるし(文学の人ではないけれど。なお数学の人でもない。計算機科学の人が近いけれど、それでも遠いことには違いない。もしかすると人より計算機の方に近いかもしれない)。 なお、結末について言及するので、未読の方は先に読んでください。理解できなくても読めるし、読んでいると楽しくなってくるので。ラストはほんとうにあぁもう。 モンスター群に纏わる数とj-不変量に纏わる数に意外な関係がありそうだ――というのが数学の命題「ムーンシャイン予想」だが、理解できなくても(私は理解できてません)読めます。 出典: 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』「ムーンシャイン」編者による著者紹介 (前略)わからない部分もあるだろうが、ぜひ美しいラストまでたどり着いてほしい。 出典: 『日本SFの臨界点[恋愛篇]死んだ恋人からの手紙』「ムーンシャイン」編者による著者紹介 と著者紹介も引用して「ムーンシャイン」を推しているけれど、他の円城塔作品でもいい。まだの方は触れてみて欲しい。「SFのエッジ作品を優先した次第」で収録されたこの作品よりやわらかい作品の方も多いのだから。 著者紹介でお勧めされているのが短篇集『シャッフル航法』。表題作なんか言葉の響きだけでも十分に楽しい。初出の『現代詩手帖』2015年5月号』の特集「詩×SF」で読んだときに詩だと思った。 たくさんの作品があって、それぞれに自分には思いも寄らない読み方があるのだろうと想像するとわくわくする。 ◆ 言いたいことは言いきったので、あとは蛇足。 読み方が重ならないのは当たり前で「理解できなさ」「わからなさ」への態度がまったく違う。わからないまま読んで「ほんとうにあぁもう」などと語彙力のない感想を持つ読み方がある一方で、 作中で使ってる数学が簡単かつ物理でも多用する馴染み深いものであったとはいえ、ここまで綿密に解体して深く理解出来たと強く感じられる作品ははじめ

「Fateは哲学」なのに哲学者サーヴァントが少ない理由あるいは現代思想業界では聖杯戦争が繰り広げられている

 一つ前のエントリーはあまりに暗かった。マジメに考え過ぎたので、観光客気分でもっといい加減なことを書く。この「観光客」というのも東浩紀さんの哲学のキーワードなのだけれど、本エントリではマジメなことは考えない。 ラノベっぽくなるかな? と思って、主張をそのままタイトルに据えてみた。これである。 〈「Fateは哲学」なのに哲学者サーヴァントが少ない理由あるいは現代思想業界では聖杯戦争が繰り広げられている〉 さて、みなさんは「Fateは哲学」という言葉を聞いたことがあるだろうか? なかったらググって欲しい。ごめん、ググったら「Fateは文学」だった[1]。でも『這いよれ!スーパーニャル子ちゃんタイム Vol. 2』でクー子が「運命(フェイト)は哲学もある……」と言っている[2]ので、ここでは「Fateは哲学」という主張していきたい。 「「Fate」って何?」っていう人は、どこから入ってもらうのがいいだろうか? 常に話題が供給されるからソシャゲ『Fate/Grand Order』だろうか? いやいや、やはり最初の『Fate/Stay Night』から……とは実は言えない(ここ伏線)。「Fate/Stay Night Heaven's Feel」まだわかってない……。コミックで追いかけていたら映画に追い抜かれたよ……。映画見に行ってないよ……。 ◆ 話を「「Fate」は哲学」に戻す。これはただクー子が言っているだけではない。『Fate/Grand Order』のイベント「徳川廻天迷宮 大奥」(通称「大奥イベント」)を思い出して欲しい。最近(二ヶ月前)に復刻されたばかりなので、ここまで読んでいるマスターはみなプレイしたことと思う。注目すべきは終幕のここだ(このためにマテリアル再読してスクショ撮った)。 そう、Fateの戦闘は概念のマウント合戦なのである。具体的にどのような戦闘が繰り広げられるかはここでは繰り返さない。 この概念のマウント合戦、実は現代思想業界で日夜繰り広げられている戦いの在り方でもある。事実、『新記号論』ではジークムント・フロイトのマスターは敵対サーヴァントであるジャック・ラカンについて、このような会話を繰り広げている。 「なぜでしょうね。これを読むとラカンはまちがっている、と言わざるをえない」 「明確にまちがっていますね。無意識は物表象の世界なのに、そ

『ゲンロン11』「「記号の場所」はどこにあるのか?」を読む前に - 『新記号論』

約一年半前の2019年3月に刊行された、ゲンロン叢書02『新記号論』をようやく読みました。出たばかりの『ゲンロン11』掲載の「その後」についての論考『「記号の場所」はどこにあるのか?――新記号論から西田幾多郎を読む』を読む前に、感想をここに書いておきます。 本書は、石田英敬さんによる全三回の講義録とその補論で構成されています。講義が開催されたのは2017年で会場に200人ほどネットでも2000人近くの方が聴講したそうですが、本書に出てくる聞き手は東浩紀さん一人で、つど要約・質問するので対談のように読めました。 実は対談形式はもともとあまり好まないのですが、可能な限り個人的好悪を差し引いて考えても、読んでいた暗くなってしまいました。以下、その原因を考えるので否定的な内容が続きます。苦手な人はブラウザバック推奨。 ブラウザバックしたいところですが、『ゲンロン』に期待しているところがあるので、今後どこまで期待を寄せ続けられるか考えるために書いていきます。 ◆ 暗くなった理由は、本書の狙いが成功しているように見えないからです。というわけで、東浩紀さんが「はじめに」に書いている狙いを確認します。 本書に収録された講義は、まずは「記号論」なる学問のアップデートを狙いとしている。 石田氏の目標は、個別「記号論」のアップデートにとどまるものではなく、(中略)大陸系哲学の伝統――日本ではおおざっぱに「現代思想」などと呼ばれているもの――を、二一世紀のサイエンスとテクノロジーを参照して新しいものに蘇らせ、ふたたび影響力のあるものにすること おおざっぱにいうと「現代思想をふたたび影響力のあるものにすること」が狙いだと書かれています。ここでは「現代思想」と書かれていますが、本文内では単に「哲学」あるいは「文系学問」「人文学」という言葉でこのあたりを指しているように見えます。このあとの引用部では、その点に注意してください。 冒頭で述べたとおり、この狙いが成功しているようには思えません。むしろ「現代思想」のタコツボ化を強く感じさせられました。本書で展開されているのは、現代思想好きのためのものであり、すでに影響下にある人にしか届きそうにありません。 少なくとも「現代思想」の私への影響力は低下しました。ただ、それでも絶対値としては強く残っていることは付記しておきます。最近読んだ『ジャック・デリダ

劇場要素ありボイロ実況動画のおもしろいところ

ニコニコ動画の投稿者/視聴者として、ボイロ系実況動画のこんなところがおもしろいという話をしているつもり。で、言いたいのは「劇場/茶番が多いボイロ実況もっと栄えて」。 おもしろさの分析に分析美学の成果を援用して分析してみた。援用元は 『ビデオゲームの美学』 および 『ゲームプレイ/ヤの美学:プレイ、プレイヤ、ペルソナ』 。 待って。ブラウザバック前に要約だけ読んでいって。 要約 1) ゲームプレイ動画の作成および視聴の対象として、映像化・ノベライズ・コミカライズあるいはテーブルトークRPGリプレイと同じように、ゲームプレイ動画の作者による創作が存在する。 2) ゲームプレイ動画作者による創作に固有の特徴は、それがゲームシステム内で実現されており、それを視聴者が了解していることである。 3) 創作を含むゲームプレイ動画と相性がよいジャンルは、ボイロ系実況プレイ動画である。 劇場/茶番が多いボイロ系動画もっと栄えて。 1. モチベーション 「そういう風に楽しめるならVOICEROID実況動画を観てみよう、投稿してみよう」と思う人がいてくれたらいいなと思う。 ではどう推せばいいのか?と考えたとき、自分は、もっぱらVOICEROIDやCevioの実況動画を観ていて、その中でも好き嫌いがある。好きな動画に共通の特徴を抽出し、投稿や観賞でどこを楽しんでいるのか言語化(記号化)してみよう、という試みがこのエントリ。 直接の必要性を越えて記号を使うのは、実践ではなく理解のためである。 出典: 『芸術の言語』 ついでについでに、次の動画をどうしようか悩んでいるので、方向性(の選択肢)を考える材料にしたい。 2. 分析に用いる用語 先行論文はリサーチしていないが、最近読んだ『ビデオゲームの美学』および『ゲームプレイ/ヤの美学:プレイ、プレイヤ、ペルソナ』から、援用する用語を導入する。このエントリよりおもしろいので未読の人は先に読もう。とは思うが、忘れっぽい自分のためにも必要な用語をここで導入しておく。 2.1 ゲーム内の情報 『ビデオゲームの美学』から、ゲーム内で提示される情報の分類を導入する。一つの情報源が双方を提示することが多いが、区別しておくと、ゲーム内の設定とゲームシステムを分けて評価できる。 〈ゲーム的内容〉:ゲームメカニクス(ゲームシステム)に関連する内容。 〈虚構的内容〉

最近読んだマンガ(ニンジャ・バットマンとか進撃の巨人とか)

最近読んだマンガについてつらつらと。  『ニンジャ・バットマン 上』『〃下』 同題の映画のコミカライズ。映画の魅力が動きや勢いだったので、それを出しづらい漫画ではどうなるのだろう? という不安もあったけれど、まったくの杞憂だった。巧みにアダプテーションされている。とくにバットマンとジョーカーの類似と対比が素晴らしい。クライマックスの「ニンジャ・バットマンだ!」へと至る流れが、マンガならではの静と動のコントラストとニンジャのかっこよさをより引き立てていて最高だった。 『血界戦線 Back 2 Back 8』 こちらも静と動というか動の大ゴマの迫力が素敵。ただ全巻から続く「災蠱競売篇」が登場人物が多いいうえにまだ終わらないのがちと辛い。話を進めるためかポンポン切り替わって、コマとコマの間のつながりが読み取り辛いことも。次が出たあとに7からそこまで読み返したい。クラウスさんと堕落王まで出てきて「ここから!」ってところなので。 『僕のヒーローアカデミア 28』『ヴィジランテ-僕のヒーローアカデミア ILLEGALS- 10』 人気シリーズとそのスピンアウト。どちらも盛り上がってまいりました。特に『ヴィジランテ』。クライマックスが近づいている予感。このあとどうなっちゃうの? と気になるあまりジャンプ+で(しかもレンタルになった話飛ばして)読んじゃったら余計に先(だけでなく間の話まで)が気になる始末。落ち着こう、自分。 『進撃の巨人 32』 こちらも終わりが近づいているのをひしひしと感じる。いきなりマーレ編が始まったときはまったくついていけなかったけれど、驚くほどきっちりとつながってきてまた自分の中での盛り上がりが再燃してきた。 『ゆゆ式 11』『CITY 11』 最近、ストーリーものを欲しているのか、ちょっとこちらのノリについていけず。 『レキヨミ 1~3』 たまたま本屋で見かけて好みの表紙だと思ったら最終巻だった。というわけでまとめて。レキとヨミの姉妹のやりとりが好みだったので残念(手遅れ)。 『ヘテロゲニア・リンギスティコ ~異種族言語学入門~ 3』 前巻読み返してからじゃないと無理となった。ここまでに出てきた異種族言語を完全に忘れてしまって……。

日本・ゲーム・批評という文脈 - ビデオゲームの美学

『ビデオゲームの美学』を読んだ。『批評について: 芸術批評の哲学』、『芸術の言語』に続き、これで分析美学の本は3冊目。 本書が提案するのは、ゲームを(芸術として)批評するための枠組み。どんな本かは筆者がブログ記事 『『ビデオゲームの美学』はこんな本』 にしているのでスキップ。 すごくよかった。遊んだゲームについて考えるのに使いたいから、別にあんちょこが欲しい。目的、スコープ、テクニカルタームいずれも丁寧に記載されているおかげで難しい内容が書いてあるにも関わらず、飛躍が感じられないのだけれど。たまに差し込まれる筆者のゲーム愛も溢れた感じがして好きなのだけれど!  というわけで本書とは別にそういうのがあったらいいなと思う次第。哲学に興味ないけれど、ビデオゲームについて真剣に考える人が読むには、本書はハードル高いだろうし(リライトされているとはいえもともと博士論文)。先行議論を読まなくても、流れを追えるようになっているとはいえ。 ◆ 自分が読んでいた先行議論=『批評について: 芸術批評の哲学』と『芸術の言語』との関連にについて少し。 冒頭に上げたブログ記事で「図らずも本書の内容は、これら二つの古典の組み合わせになっている」と書かれているうちの一つが『芸術の言語』。先に読んでいたのはラッキーだった。虚構的内容(世界観とか設定とか)とゲーム的内容(平易な言葉で近いのはゲームシステム?)の区別とかシミュレーションの真実性とか、イメージしやすい。 なお、もう一つの『ハーフリアル』は未読。 それから批評のスタンスを大別すれば、『批評について: 芸術批評の哲学』と同じ意図主義(制作者の意図を重視する。反対にユーザがどう受け取ったかを重視するのが受容主義)だったのも、スムーズに読めた理由の一つ。と書いたけれど、もともと自分のスタンスが意図主義に当てはまっていたからか。目に付くのが(制作者の意図を想像しない)ユーザーレビューばかりなので、現状を肯定する受容主義の方が批判されにくいのでは? と邪推するくらいだし。 ◆ 上ではゲームのユーザーレビューと書いたけれど、ゲームに限らないし、ユーザーにも限らない批評一般について、少し愚痴および憤り。 『批評について: 芸術批評の哲学』の感想でも引用したけれど、ゲームに限らず日本の批評は海外でいう批評ではなくて哲学エッセイに相当するものという話がある

記号システムの特徴付け - 芸術の言語

『芸術の言語』を読んだ。 『批評について: 芸術批評の哲学』 に続き、これで分析美学に関する本は2冊目。 最近出た本だと思って手に取ったら初邦訳こそ2017年だけれど、原著が刊行されたのは1968年。内容の難しさを差し引いても、なお読みづらさを感じていたのはこれが原因か。 『批評について: 芸術批評の哲学』が 「批評とは理由にもとづいた価値づけ (reasoned evaluation) である」と主張していたのとは対照的に、この『芸術の言語』は序論で、「 価値の問題については付随的に触れるに過ぎない。批評の規範を提示することもない」と 述べている。著者がこの本で示そうとしているのは「記号システム」。非言語表現の哲学には以前から興味があったので期待が膨らむ[1]。 本書の目標は、記号の一般論に取り組むことである。   ここでの「記号 symbol」は、きわめて一般的で無色の語として使われている。記号は、文字、語、テキスト、絵、図表、地図、モデルなどを包括するものである。 序論 本書のタイトルにある「言語」は、厳密には「記号システム」に置き換えたほうがよい。 序論   記号とは何か、システムとは何か、そしてそれらはわれわれの知覚、行為、科学において――それゆえまたわれわれの世界の把握と創造において――いかに機能するのか。 第六章 芸術と理解 結果を先に吐いておくと、議論を追えなくて第四章の途中から最後の第六章にスキップしてしまった。そして、そのあとに続く、用語解説と概要でものすごく簡潔にまとめられていた。(第一、二、三章を読んでいたのが助けになったとはいえ)先に概要を読めばよかったというか、概要だけでお腹一杯というか。   ◆ 内容は概要を読めばいいので、ここでは第六章で琴線に触れた一文を。 直接の必要性を越えて記号を使うのは、実践ではなく理解のためである。 第六章 芸術と理解 そういうことか! と視界が一気に晴れ渡った感じがした。(おそらく)本書でいう例示/表現/再現の動機がその対象を理解するためというのがとてもしっくり来た。文章を書くにせよ、絵を描くにせよ、書いて/描いているうちに何がわかっていなかったかわかっていったり、新しく何かわかったりする経験に、ぴったりと当てはまる。勉強会でもっとも勉強になるのは講師という話とも整合する。 ◆ ここからは雑多な思いつき。

滞留と - 『竜と流木』

パニックミステリー小説『竜と流木』を読んだ。できるだけリスク管理していたうえで、想像を越える形で事態が悪化していく過程が描かれていて、息が詰まるような恐怖を味わえる。 太平洋に浮かぶ美しい島ミクロ・タタに固有の両生類ウアブを、絶滅の危機から救うために隣のメガロ・タタに移すところから物語が始まる。 端的に書くとこのとおりなのだけれど、考えなしに捕まえて別の場所に放すわけではない。些細なミスがきっかけになるパニックものもあるけれど、本作はそうではない。単体で人間への危害がないと判断している生物を、メガロ・タタの環境への影響を可能な限り小さくした形で、保護のために持ち込み管理しているにも関わらず、被害が出てしまう。 原因の特定の困難さ、判明してからの対策のあてのなさ、さらには問題が他国まで拡散するシナリオまで、現実味をもって語られており、主人公たちの感じているであろう閉塞感が自分にまで重くのしかかってくる。複数の要因――ウアバの生態、ミクロ・タタとメガロ・タタの地理的条件、現地住民と観光客の経済事情――が重なっているため、途方に暮れてしまう。 そこは物語なので、最後にきちんとオチがあるのだけれど、希望と不安が同時に感じられる幕引きだった。絶妙。

ひょうひょうと - 『批評について:芸術批評の哲学』

Youtube配信 【SF×美学】SF作家は分析美学者の問いにどう答えるのか? がおもしろかったので、その中で紹介されていた『批評について: 芸術批評の哲学』を読んでみた。   「はじめに」で著者が「批評についてのわたしの探求には規範的(normative)な次元がある(p.4)」と述べ、中心となる主張と議論の範囲を明らかにしているので、あまりひっかかることなく読むことができた。「規範的」ということは、適切な批評とはどんなものか主張しているということ。なお、対義語は「記述的」。この場合は実態がどうであるかを主張していることになる。 中心となる主張は「批評とは理由にもとづいた価値づけ (reasoned evaluation) である」という仮説。"evaluation"について補足しておくと、[訳註]にあるとおり、この本においては価値付け/評価の高低についてニュートラル。「性能評価 (performance evaluation)」に近く、高評価を含意している日本語の「◯◯を評価している」からは遠い。※ここに限らず[訳註]が充実していてありがたい。 そのため、著者は例えば下記を批評家と見なしていない(p.10)。おかげで読みながら浮かんできた「~の場合はどうなんだろう?」のような疑問の多くは、そういう話をするつもりはないんだろうとスパッと脇に退けておけた。 「催し物、本、映画選びに役立ててもらうために自分の好き・嫌いを報告する人」 「ただアレが良いとかコレが悪いとか言うだけの専門家」 「芸術作品をただ何かをあざ笑うためだけに使う物書き」 ◆ 「理由にもとづいた価値づけ(reasoned evaluation)」に話を戻す。 前段で、価値付け/評価は高低についてニュートラルと書いたけれど、それはそれとして「私の仮説によれば、ふつう鑑賞者たちが批評家に求めているのは、当の作品の中の見出しづらい価値を発見できるように助けてくれること、である」とも書かれていて、それは自分=鑑賞者にとってそのとおり。評価したけれど価値を発見できないという批評を読まされても困る(「やっぱり駄作だった」と溜飲を下げたいニーズはあるかもしれない)。 このコンテキストで話を進めると、鑑賞者が発見できるようになるためには、まず批評家のいう価値が共有できるものでなければならない。これ