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上がろうガロア - 数学ガール ガロア理論

「『数学ガール ガロア理論』を読んだよ」 「今回のテーマはガロア理論――その中でも第一論文で求められた《方程式が代数的に解けるための必要十分条件》ですね」 「うん。理解には全然届いていないんだけれど、雰囲気だけでも楽しめたよ」 「さっぱりでしたか」 「うん。ほとんど予備知識がなかったし、ほとんど考えたこともなかったから。考えても分かるとは思えないが……。あ、強いて言えば『もっとも美しい対称性』で読みかじったくらい」 「この本でも対称性の話は出てきたんですか?」 「もちろん。《対称性は不変性の一種》というキーワードにも出てきたよ。でも、今回読んでいて一番面白かったのは、《方程式が代数的に解けるための必要十分条件》がある問題と繋がるところ。どちらもどうすれば証明できるか全然分からない上に、一見全然違う問題なのに!!」

広がるガール - 数学ガール ゲーデルの不完全性定理

『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』を読み返した。 『無限論の教室』 で〈無限〉が哲学的に論じられているのを読んで、「そう言えば数学的にはどうだったんだっけ?」と気になって。 そして、ミルカさんの次の一言にシビれた。 「無限は感覚をあざむく」とミルカさんが言った。「オイラー先生の真似ができる人はそうそういない。無限を扱うときに感覚に頼ると失敗する」 そう、感覚と事実は往々にして一致しない。統計が好きな自分の場合、〈モンティ・ホール問題〉や〈リンダ問題〉が良い例。感覚的に納得できないからと言って、論理的に正しくないとは限らない。 とどのつまり、自分が『無限論の教室』を読んでモヤモヤしていたのは、ミルカさんのこの忠告を忘れていたからだと思う。 そして、ミルカさんは、メガネを指を押し上げて言った。「要するに《数学的な議論と、数学論的な議論は分けるべき》なんだ」 自分が読んでいるのが、数学的な議論なのか数学論的な議論なのか、意識しないまま読んでいた。『無限論の教室』は〈数学論的な議論〉で、『数学ガール ゲーデルの不完全性定理』は〈数学的な議論〉だ。 この忠告を思い出した今になって、『無限論の教室』を思い返してみると、自分の哲学的な議論への関心が薄れてきたことを実感する。関心が薄れたのは、その議題は問題じゃ無くて〈言語的誤解〉に過ぎないんじゃないか? と考えるようになったからだ [1] 。『数学ガール』の〈僕〉のこの言葉にも繋がる。 「テトラちゃん、いま、矛盾と完全という言葉の辞書的意味に引きずられたね」と僕は言った。 辞書的意味に引きずられて数学的用語を誤解すると、かえって理解から遠ざかる。 ところで、『無限論の教室』では、可能無限の立場に立ち排中律を拒否したブラウアーの直観主義は受け入れられず、ヒルベルトの形式主義が受け入れられたけれど、そのヒルベルトの目論見――ヒルベルト・プログラムはゲーデルの不完全性定理により破産したという流れになっている。 でも、実際排中律を使わない3値論理も実装されているよな [2] と思って調べてみたら、ブラウアーの主張は弟子のハイティングによって整理された結果、色々と広がっているみたい。 ブラウワーの主張は、感覚的で分かりにくかったが、その後ハイティング等によって整備され、結果的には古典論理から排中律を除いた形で形式化さ...

アルゴリズム天国

『数学ガール/乱択アルゴリズム』 を読んだ。 シリーズ4冊目となる今回のテーマは、確率・統計、行列それからタイトルに含まれるアルゴリズム。 行列には苦手意識があるけれど、確率・統計やアルゴリズムは、馴染み深い。 そんなわけで、ところどころ置いていかれそうになったけれど、楽しく読めた。 苦手意識が薄れ、ちょっとずつ分かった気持ちになれるのが、楽しい。 馴染み深いつもりだったけれど、分かっていなかったことがあることが分かるのも、楽しい。 飽きるにはまだまだ早いと感じられる。 それから、アルゴリズムに関連してプログラムを書くことの楽しさを改めて思い出した。 テトラちゃんの言う通りだと思う。 「考えていることをプログラムの形で表す。言葉で書くだけで実行できるのは楽しいです」 ソースコードという形式を人間が書いて、デバッガが誤りを教えてくれて、コンパイラ・インタプリタがその意味をコンピュータ向けに解釈して実行ファイルを作り、ディスプレイだったり、スピーカーだったりが、その実行結果を返してくれる。 それが、楽しい。 期待通り動いたときの達成感が、心地良い。 ところで、新キャラのリサが可愛い。 印字なしのDvorak配列を使っているなんて、なんてギーク。 ソフトウェアでエミュレートしているのかな。 Dvorak配列のノートPCなんて、売っていなさそうだし。

とある数学の四色問題

『数学ガール/ゲーデルの不完全性定理』 を読んだ。 本書は 『数学ガール』 、 『数学ガール/フェルマーの最終定理』 に続くシリーズ3作目。 後半、大量の定義が現われるところで、迷子になった。 読んでいる最中はは面食らったけれど、冷静に考えると、リファクタリングの一つ『メソッドの抽出』を行う理由はここから来ているのだろうな、と思った。 例えば、 省略系4 ∃ x (a) を ¬(∀ x (¬(a))) と定義する。 いちいち"¬(∀ x (¬(a)))"を使っていると、全体を読み通すのが困難になる。 かと言って、"∃ x (a)"の定義を把握していないと、それが"¬(∀ x (¬(a)))"の省略系であることを逐一確認しないといけない。 リファクタリングの文脈で言い換えるとこうなる。 適切にメソッドを定義しないと、ソースコードの全体の流れを把握できなくなる。 一方で、メソッド過多でも、 ソースコードの見通しが悪くなる。定義を把握していないメソッドが出てくる度に、定義を確認する必要が生じる。 本書の後半は、今の自分のキャパシティを越えていた。 もう少し定義を丁寧に追いながら読んだら、理解が深まるだろうか。 あるいは少し手を動かした方がいいかもしれない。 ところで、コンピュータと数学と言えば「四色問題」を思い出す。 『四色問題』 を読んだ範囲での理解だと、『ゲーデルの不完全性定理』ほどではないかもしれないけれど、これも当時の《数学観》に《ガリレオのためらい》を与えたんじゃないだろうか。 《ガリレオのためらい》を与えたのは、証明の方法。 人間の手には終えない数の場合分けを、コンピュータで実行した。 確かに、オイラーの公式のような一種の美しさを感じない。 しかし、 コンピュータで実行できるように問題を定式化するのも、十分チャレンジングだ。 (テトラちゃんのように)数え上げるのも立派な数学だと思う。 それに、定義、公理、推論規則から引き出される結論なら、それは数学だ、と思う。

増える間

『数学ガール/フェルマーの最終定理』 を読んだ。 群、環、体。 大学の講義で習ったことを思い出す。 当時、薄ぼんやりとそういうことなのかな、と思ったまま、おざなりにしていた部分を確認できて、嬉しい。 合っていた部分も間違っていた部分もあったけれど、理解が多少なりとも前進したと思う。 「群」、「環」、「体」のような抽象度の高い用語や、「加法」や「乗法」のような用語の転用が出始めるため、ややこしくなると感じている。 その点本書は、群、環、体の差分を明示しているところが、優しいと思う。 さらにその差が、どういう違いを生むかも、例示してくれている。 後半はよく分からなかったけれど、少なくとも今の自分にはいくら懇切丁寧に説明されても分からないだろうから、気にしないことにする。

数文学

『数学ガール』 を読んだ。 本書は、数学をテーマにした小説(多分)。 「多分」とつけたのは、下手な参考書より丁寧に数式の変形を追っているから。 暗算で感覚的に追っただけなので、 きちんと理解したとは言えない。 理解度は、多分、テトラちゃん未満。 けれど、楽しかった。 こんなにきちんと数式 の変形を追ったのは、久しぶり。 量化子も懐かしい。 大学の数理論理学の講義で出てきたっけ。 ちなみにその講義は、一回落とした。 多分、親しみが足りないのだろう。 量化子はいまだに立ち止まらないと、理解できない。 でも、明確だよね、数式の方が。 本書でも述べられている通り、理解してしまえばこんなに明確なものはない。 対照的に、自然言語はみんな少なくとも分かったつもりにはなれる。 代わりに、誰も明確に理解していないことがある(あるいはそもそも明確に理解され得る情報が存在していない)。 さぁ、次は フェルマーの最終定理 だ。