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12月, 2008の投稿を表示しています

Two Setsの通説

先日、 『ゴールデンスランバー』 を読んだ。 先が気になるあまり、平日にも関わらず、つい夜更かしをして、一気に読んでしまった。 後悔と反省したことしきり。 寝不足で、翌日はひどい有様だった。 ところで、今日、ビートルズの 『アビイ・ロード』 をレンタルしてきた。 理由はあるけど書かない。 同時に、キング・クリムゾンの 『クリムゾン・キングの宮殿』 もレンタルした。 理由はないから書かない。 プログレッシブ・ロックというジャンルを確立した名盤ということで、前から興味はあったのだけれど、特に理由もなく先延ばしになってたのを、今日、特に理由もなく借りてみただけ。 この『クリムゾン・キングの迷宮』、『アビイ・ロード』と浅からぬ因縁がある様子。 Amazon.co.jpでは、『クリムゾン・キングの宮殿』を以下のように紹介している。 ビートルズの『アビイ・ロード』に取って代わって全英チャート1位となった稀代の名盤だ。 クリムゾン・キングの宮殿 (ファイナル・ヴァージョン)(紙ジャケット仕様) ところが、Wikipedia.jaによると、チャート上ではそうではなかったようだ。 全英NMEでは最高5位(全米チャートは28位)というのが通説となっている。 クリムゾン・キングの宮殿 - Wikipedia Wikipedia.jaの『アビイ・ロード』の項目にも、面白いことが書いてあった。 もちろん、これらが全て、事実とは限らない。 Wikipediaはしばしば改ざんされている。 Wikipediaに限らず、世の中に溢れている情報を鵜呑みにするのは危険だ。 一方で、通説を反証するのは、容易なことではない。 どこかに通説を作り出した人がいて、そいつをとっつかまえて白状させれば済む話でもない。 自分が別の通説――自分にとっての事実――を作り出す側に回る方が効果的なのかもしれない。 青柳雅春――『ゴールデンスランバー』の主人公――は、何に抗っていたのだろうか。

2008年の読書を振り返る

今年も残すところあと8日。 今年1年の間に読んだ本を振り返ってみた。 まだ今年の内に、何冊か本を読むと思うけれど、ここで一度棚卸ししてみた。 今年1年間で読んだ本は、およそ120冊。 その中から以下のテーマに沿って、各3冊(ライトノベルは3シリーズ)をピックアップした。 ■ライトノベル:空白を越えた ■統計:何を語るのかあるいは何を騙るのか ■IT:PCだけでなく頭も冷やせ ■ライトノベル:空白を越えた 2年の空白を越えて、『されど罪人は竜と踊る』がリスタートした。 5年前からエンディング目前で止まったきりだった、『ダブルブリッド』が完結した。 11年前に1巻が発売されたきりだった『ソリッドファイター』が、完全版となって出版された。 終わったシリーズは、結末が日の目を見ることができで良かったと思う。 再開したされ竜は、いつかでいいから、終わって欲しいと思う。 きちんと終わるのは、意外と難しい。 ■統計:何を語るのかあるいは何を騙るのか 『心理テストはウソでした。』は統計がいかにデタラメに使われているか、を描く。 『その数学が戦略を決める』は統計がいかに用いられているか、を描く。 『まぐれ』は統計の捉え方をひっくり返す。 昨年に引き続き、今年も統計に関する本を何冊か読んだ。 統計を使ったら何でも言えるとも言えるし、逆に何も言えないとも言える。 世の中には統計が溢れているけれど、その意図を読み解くリテラシィが必要だと思う。 ■IT:CPUだけでなく頭も冷やせ 『ソフトウェア企業の競争戦略』はどんなプレイヤが動いているかを描く。 『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』はITの将来について描く。 『なぜITは社会を変えないのか』はITと社会の関係について描く。 クラウドとかXX2.0とかXaaSとか、IT業界にはバズワードが飛び交っている。 どんなプレイヤが動いているのか。そしてプレイヤが供給するものによって、社会はどう変わるのか。あるいはどう変わらないのか。 最近はグリーンデータセンタが流行っているように見受けられるけれど、CPUだけでなく自分の頭も冷やしたい。 振り返ってみると、ライトノベルとSFと確率・統計、それからITに関する本が多い。 来年はどんな本を読もうか。

かかったな

『魔法にかけられて』 を観た。 おとぎの国を現実に持ち込んだら、という仮定がもたらす状況が面白い。 たとえば、王子がセントラル・パークで歌いだすシーン。 結末も綺麗だった。 おとぎの国と現実が、互いに影響を与え合うような形で締められている。 おとぎの国というのは、一種の理想郷だ。 そこと現実との間には、小さくないギャップがある。 ギャップを埋めることを諦めるということは、理想状態を忘れ学習性無力感を覚えることなのかな、と思う。 おとぎの国は、絵空事かもしれない。 しかし、絵空事を描くことを忘れてしまっては、現実に適応するだけになってしまう。 それはその場しのぎに過ぎないのでないだろうか。

『鋼の錬金術師 21』

『鋼の錬金術師 21』 を読んだ。 だんだんとエドが精悍になってきているように思う。 成長の現われだろうか。 そう言えば、エドは15歳くらいだったはず。 まだまだこれから大きくなるだろう。 体の成長に合わせて、機械鎧(オートメイル)を調整あるいは交換しなければならないのだろうな、と想像する。 これだけ物語が進むと、もうすぐ終わってしまうのだなぁ、と嫌でも思う。 楽しみなようであり名残惜しいようでもあり。

不自由なエリート

buildings by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 森美術館で開催されている [チャロー!インディア] を見てきた。 写真は森美術館手前の展望台からの夜景。 インドは急激に経済が発展しているらしく、そのことに警鐘を鳴らしている作品がいくつかあった。 日本にいる自分も、色んなものをお金に換算して、一喜一憂しているように思う。 例えば自分の行動を単価で考えるときがある。 仕事中はそれでもいいと思う。 ただ、プライベートでもそう考えてしまい、不自由だなぁ、と思うときがある。 高層ビルが建ち並ぶ夜景を見ると、「こうしたかったのは誰だったのだろうか」と思う。 思うけれど、特に意味はない。 そもそも問いが適切ではない。 資本主義の下で、多くの人間が動くと、このような風景ができあがるのだろう。

触れれば傷つける、触れられれば壊れる

『シザーハンズ』 を観た。 主役――ジョニー・デップ演じるエドワードは、ハサミが手だ。 だから、彼は見る者に恐怖を与えてしまう。 ただ立っているだけで刃物をさげているのだから、致し方ない。 それに、彼が何かに触れれば傷つけてしまう。 彼のハサミ=手はとても鋭い。 でも、彼が作り出すものは、とても美しい。 同時に、とても儚い。 彼が作り出すものは、触れれば壊れてしまうし、触れなくてもいずれ壊れてしまう。 それでも、あるいはそれ故に、彼はハサミを振るい続ける。 今も、きっと。

自然なVivid

書籍は書籍なので、読書ラベルをつけた。 でも、違和感がある。 『いきものアート〈1〉蛙』 は蛙の写真集だからだ。 それはさておき。 不自然なほど色鮮やかな蛙がいる。 絵を描くとき、こんな色使いで塗ったら、目が痛くなるんじゃないだろうか、と思う。 でも、そんな色の蛙が自然に存在するのだ。 (写真越しとは言え)それを目の当たりにすると、人間は、カラーバリエーションが少ないな、と思う。 鮮やかな色をまとった人間に、嫌悪感を抱く人さえいるように見える。 ○○色の髪をしたキャラクタはあり得ないというような主張をする人がそうだ。 それは、○○色をまとっているのが、人間だからだろうなぁ、と思う。 ナメック星人くらいかけ離れると、どうでもよくなるんじゃないだろうか。 ま、それはそれとして。 素敵だなぁ、蛙。

何が柔らかいのか

普通、道具が人に慣れるのではなくて、人が道具に慣れる。 人の方が、柔軟だからだ。 柔軟じゃなくなってくると、「コンピュータに使われる」と感じるようになる。 ただ、もちろん、使いやすい道具というのは、大事だと思う。 それに、実際ひどいインタフェースはそこかしこに存在する。 ( Jakob Nielsen博士のAlertbox のいくつかの記事が、ユーザビリティの観点から、ひどさを具体的に指摘している)

仮説の山

『サーカス団長の娘』 の主人公――ペッテルは、無数の物語を紡ぐ。 それを語るものに困っている作家に売ることを生業としている。 そんなペッテルが、あの結末をあらかじめ想定できなかったことを、読みながら不思議に感じた。 「仮説を立てることは、まことしやかな物語を作ることに似ている」と言い、まことしやかな物語を無限に生み出すペッテルが、あの結末を仮説に持たなかったことが、不思議だった。 しかし、ペッテルが無数の物語を紡ぐ理由を想像すると、あの結末が意識に上がらなかった方がむしろ自然に思う。 木を隠すには森の中。 仮説を棄却するには、対立仮説の成立を示せばよい。 いや、成立を示すまでもないだろう。 棄却したい仮説が100%の確からしさを持っていることはないだろうから、対立仮説を山のように立てれば、それだけ棄却したい仮説の真実味は薄まる。 ペッテルが無数の物語を産み出していたのは、たった一つのある物語を忘れるためだったのだろう、と想像する。 しかし、これもまた仮説に過ぎない。 『サーカス団長の娘』はいろんな読み方ができそうな作品だと思う。

初めにあったのは光だったのだろうか

『くらやみの速さはどれくらい』 を読んだ。 通常と凡庸、異常と天才の違いはどこにあるのだろうか。 幸福を感じない天才と、幸福を感じる凡庸とを比べることにどんな意味があるだろうか。

距離感の管理

『殺しのはらわた』を観た。 上映の前後には、監督らによるトークショーもあった。 最近、小さな映画館で映画を観るようになって、 映画に対する見方が、少し変わった(増えた)ように思う。 変わったのは、楽しむときの距離感だ。 シネマコンプレックスで観るものより、一緒に観ている人との距離感も作り手との距離感も、ずっと近く感じる。 何百人と入るシネマコンプレックスで、エンドロールだけで何分もあるような作品を観るのとは、楽しみ方が全く違う。 規模の違いが質の違いを生んでいるのだろうか? 質の違いが規模の違いを生んでいるのだろうか?

意図はない、厭わない。

全く解釈不能でナンセンスなら、きれいに忘れられる。 ちゃんと筋道が通っていれば、物語として記憶に残る。 解釈できそうでできない、というのが一番もどかしい。 『変態“ピ”エロ』を観てきて、そんなことを思った。 一体どのメタレベルでの解釈が正しかったのだろうか? それとも、この問い自体が意味を持たないかもしれない。 解釈したがる傾向が、時に存在しない意図を捏造する。

断片の塊

『限りなき夏』 を読んだ。 『プレステージ』として映画化された『奇術師』の著者、プリーストの短編集だ。 長編とは違った雰囲気だった。 短編は、抽出されたエッセンスのような印象を受ける。