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面と箱 - ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代

国立西洋美術館に行って『ル・コルビュジエ 絵画から建築へ―ピュリスムの時代』を見てきた。

会場となる建物を設計したのもル・コルビュジエなので、作品の中に作品が展示されている入れ子構造がおもしろい。解説からではなかなかイメージできない、そこに立ったときのことの印象を得られるのも大きい。特徴については美術館が公開している美術館の建物が入手容易でわかりやすいと思う。『コルビュジエさんのつくりたかった美術館』も平易な絵本。しかし意外と濃くて、もしコルビュジエが今の国立西洋美術館を見たらどう思うことだろう? という批判的な視点もあったりする。

展示品の多くを占めていたのは、建物ではなく絵画に関する作品だった。サブタイトルの「ピュリスム」という言葉も、彼が画家オザンファンと興した芸術運動の呼び名。キュビスムを超えることが意図されていて、キュビスムでは感覚的に配置されている複数の視点からの像が、ピュリスムでは幾何学的に構成されている。コンセプトを共有しているだけに、差異が目立っていたように思う。ル・コルビュジエが俯瞰なのに対してオザンファンが水平だったのが、対照実験のようだった。

最後に展示されていたサヴォワ邸の模型を見て、前半に展示されていた「最初の絵」――『暖炉』の上の立方体を思い出させる。丘とサヴォワ邸のようでもあり、サヴォワ邸の屋上庭園と出入口部分ようでもある。

前後の作品や設計思想をもう少し知りたかったので『再発見 ル・コルビュジエの絵画と建築』も読んでみた。31歳のときに片目の視力を失っていたことと、建築は中を歩き回って様々な視点から味わうものだと言っていたことの関係が示唆されたところで、天井の低さを思い出す。自分は少し圧迫感を感じたのだけれど、片目だと遠近感が失われるので感じなかったかもしれない。

行ったのは、かれこれ一月ほども前(3/23)だけれど、5/19まで開催されているので興味があるのならぜひ。

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