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一式一色逸し機 - 意識はいつ生まれるのか

『意識はいつ生まれるのか』を読んだ。

タイトルに掲げられている問いは哲学的に見えるけれど、筆者の関心は倫理および意識の問題。

反応できないだけで意識はあるのに、誰にも意識があるとは思われていない。そんな状態になったら、と想像するだけで、孤独感が押し寄せてくる。あるいは、意識がないものと思って接していた相手に、実はずっと意識があったとしたら? こちらも想像するだに恐ろしい。

でも、それは起こり得るし、実際に起こっている――意識はある閉じ込め(ロックトイン)症候群が意識がない植物状態と取り違えられていると推測されている。しかもこの二つの状態の間には、最小意識状態というさらに微妙な問題が横たわっている。意識はあるかなしかの0/1ではない。寝ぼけているときや、熱にうなされているときのように、ハッキリとはしないときもある。

本書で紹介されるのは、この問題に取り組むための道具「統合情報理論」。その基本的な命題はこうだ。
ある身体システムは、情報を統合する能力があれば、意識がある。
詳しく知りたい人には本書を読んでもらうとして、この理論は使えるのがすばらしい。意識の単位Φとそれを計算するためのモデルを備えている。実際、(完全ではないらしいけれど)計測機器を作って、臨床試験もしているとのこと。

ところで、この「統合情報理論」が意識の良いモデルならば、人工知能のフレーム問題は意識をシミュレートするうえで避けては通れないように思える。というのも、「統合情報理論」の第一の公理によれば、統合するのがフィルタされた少量の情報では、意識は生まれない。
意識の経験は、豊富な情報量に支えられている。つまり、ある意識の経験というのは、無数の他の可能性を、独特の情報で排除したうえで、成り立っている。いいかえれば、意識は、無数の可能性のレパートリーに支えられている、ということだ。

このフィルタリングを意識はどう処理しているんだろうなあ。体を意識しないで動かしているのは、小脳と基底核が処理しているとのことだけれど、それだけじゃないもんなあ。チャンネルごとには信号処理かけるとしても、統合しないといけないんだよなあ。たとえば、この間読んだ『音とことばのふしぎな世界――メイド声から英語の達人まで』で紹介されていた実験によると、同じ音でも口の動きによって違って聞こえるらしいし。

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