『名探偵の証明 密室館殺人事件』を読んだ。『名探偵の証明』に続く、シリーズ第2巻。次の『蜜柑花子の栄光』で完結なので、この『密室館殺人事件』はちょうど折り返し地点にあたる。
前作に引き続き本作でも、探偵は犯人に挑戦される。「自らが名探偵であることを証明してみせよ」と言わんばかりの殺人事件に、遭遇させられる。本作で中心となるのは、屋敷敬二郎ではなく蜜柑花子という違いはあるけれど。
この構図は歪だ。ミステリィでは、むしろ「犯人はなぜ名探偵がいるこのタイミングで犯行に踏み切ったのか?」という疑問が取り上げられる。捕まることを恐れる犯人からしてみたら、名探偵の存在はリスクでしかない。
それなのに、名探偵は行く先々で事件に遭遇する (依頼人から持ち込まれる事件も多々あろうが)。コナン君なんか目暮警部に「死神」呼ばわりされる始末(人の死なない日常系ミステリィもあるけれど)。
本シリーズでは、この疑問は成立しない。「名探偵がいるタイミングで事件を起こすこと」が犯人の目的に含まれているからだ。そういう犯罪が起こる世界なので、こう思う人もいる。「事件に遭ったのは、名探偵のせいだ」と。この世界では、これが小さくない範囲で共通認識となっていることも描かれている。
ここまで踏まえると、ようやく語り手・日戸涼の抱える鬱屈とした感情を理解できる。
そう、本作の語り手は、名探偵・蜜柑花子に恨みを抱えている。ワトソン=名探偵の相棒ではない。利害を共にしているのに、一緒に密室館に閉じ込められてこれから殺されるかもしれない人物まで、敵に回っている。蜜柑花子からしてみたら、四面楚歌である。
そんな環境で、蜜柑花子がどう振る舞い、どんな結末に至るのかは、ネタバレになるから書けないけれど、いいラストだったように思う。本作の結末としても、次の最終巻への導入としても。
最後に覚書。本書の刊行記念として、蜜柑花子の高校時代を描いた『みずぎロジック』が、出版書のサイトで公開されている[2]。あとで読もう。
前作に引き続き本作でも、探偵は犯人に挑戦される。「自らが名探偵であることを証明してみせよ」と言わんばかりの殺人事件に、遭遇させられる。本作で中心となるのは、屋敷敬二郎ではなく蜜柑花子という違いはあるけれど。
この構図は歪だ。ミステリィでは、むしろ「犯人はなぜ名探偵がいるこのタイミングで犯行に踏み切ったのか?」という疑問が取り上げられる。捕まることを恐れる犯人からしてみたら、名探偵の存在はリスクでしかない。
それなのに、名探偵は行く先々で事件に遭遇する (依頼人から持ち込まれる事件も多々あろうが)。コナン君なんか目暮警部に「死神」呼ばわりされる始末(人の死なない日常系ミステリィもあるけれど)。
本シリーズでは、この疑問は成立しない。「名探偵がいるタイミングで事件を起こすこと」が犯人の目的に含まれているからだ。そういう犯罪が起こる世界なので、こう思う人もいる。「事件に遭ったのは、名探偵のせいだ」と。この世界では、これが小さくない範囲で共通認識となっていることも描かれている。
ここまで踏まえると、ようやく語り手・日戸涼の抱える鬱屈とした感情を理解できる。
それもこれも、名探偵とやらが本質的には無能だからだ。後手後手の対応しかできないのに、偉ぶっている人種。感情移入まではできないものの、こんなことを思うようになった気持ちは分かる。以前『難民探偵』を読んだときに、自分も似たようなことを考えている[1]。
そう、本作の語り手は、名探偵・蜜柑花子に恨みを抱えている。ワトソン=名探偵の相棒ではない。利害を共にしているのに、一緒に密室館に閉じ込められてこれから殺されるかもしれない人物まで、敵に回っている。蜜柑花子からしてみたら、四面楚歌である。
そんな環境で、蜜柑花子がどう振る舞い、どんな結末に至るのかは、ネタバレになるから書けないけれど、いいラストだったように思う。本作の結末としても、次の最終巻への導入としても。
最後に覚書。本書の刊行記念として、蜜柑花子の高校時代を描いた『みずぎロジック』が、出版書のサイトで公開されている[2]。あとで読もう。