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推理小説ではない探偵小説 - 名探偵の証明 蜜柑花子の栄光

『名探偵の証明 蜜柑花子の栄光』を読んだ。3冊目の本作で〈名探偵の証明〉シリーズ完結。

『名探偵の証明』『密室館殺人事件』、『蜜柑花子の栄光』と通して読んで改めて思う。このシリーズ、ミステリィらしくない。『名探偵の証明』の内容紹介こそ、
選考委員絶賛の本格ミステリの新たなる旗手、堂々デビュー。第23回鮎川哲也賞受賞作。
と本格ミステリィを標榜しているけれど、続く2冊では、
トリックの解明に挑む蜜柑花子の苦悩と渾身の推理、さらに“名探偵の宿命”をフレッシュな筆致で描く《名探偵の証明》シリーズ第2作。
“名探偵の矜持” “名探偵の救済”をテーマに贈る《名探偵の証明》シリーズ完結編。
と名探偵の宿命・矜恃・救済をテーマに掲げている。

適切なのは後者だろう。このシリーズは、いわゆる本格ミステリィには当たるとは思えない。『蜜柑花子の栄光』のあとがき[1]でも、作者が
私が当初、この三部作トータルでなにがしたかったのかというと『もしも名探偵が現実にいたら?』ということをなるべくリアルに考えてみることでした。
と語っている。『もしもミステリィのような事件が現実に起こったら?』ではないところが、ポイントだと思う。これをテーマにすると、おそらくメタミステリィ、アンチミステリィあたりに着地する。

シリーズを読破した今、これは推理小説(ミステリィ)ではない「探偵小説」――「名探偵という孤独な英雄の物語」だったのだと理解している[2]。少数の探偵が、社会との軋轢を抱えつつ、地に足の付いた活動をしているため、数多の名探偵(というより、もはや異能力者)が活躍するJDCシリーズの対極をなしているように見える。

その結果、このシリーズのリアリティレベル(あるいはメタレベル)はとても微妙な位置に辿り着いている。本格ミステリィより現実よりである。しかし、メタミステリィ/アンチミステリィのように作中から現実を参照することはない(作品名は言及されているが、大筋には影響していない)。じゃあ何かと言うと、強いて言えば、名探偵と呼ばれるデミ・ヒューマン(とそれに伍する犯罪者)が存在する社会を、本格ミステリィの骨格を使って描いたSFというのが、一番しっくりくる。

という話はさておいて、単純に名探偵・蜜柑花子が救われて、単純に嬉しかった。物語の最後はこれですよ!!

欲を言えば、短篇でもいいから、蜜柑花子と彼が一緒に活躍する姿が見たい (『名探偵の証明』を読み終えたときも、同じようなこと思ったっけ)。

それとも、見たいという思いを抱いたまま、ここで終わるのが美しいか……?

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