『イシューからはじめよ』を読んだ。
『はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内』の次の一節を思い出す。
システム開発プロジェクトの要件定義がしばしば全く終わらないみたいに、前もってイシューについて考えきることってできないんじゃないかなあ。
というわけで、なんか腑に落ちない。自分にとっては大事な、だけどこの本の主張にとっては不都合な何かが伏せられているのではないか、という疑心暗鬼に陥ってさえいる。
『はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内』の次の一節を思い出す。
考えるということ。問題を考えるということ。それは問題をそのものを問うことだ。問いへの問いが、答えを求める手探りといっしょになって、らせんを描く。答えをの方向が少し見えて、それに応じて問いのかたちが少し見えてくる。そうするとまた答えの方向が見やすくなっている。そうして進んで行く。それから『統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀』で知った、テューキーのこの言葉も。
「正しい疑問に対する近似的な解を持つ方が、間違った疑問に対する正確な解を持つよりましである」まずイシューについて考えようというのはその通りだと思う。一方で、いつまで経ってもイシューにかかずらってもいられるよなぁ、とも思う(筆者に言わせれば、それはきっと考えているのではなくて悩んでいるだけなのだろうけれど)。
システム開発プロジェクトの要件定義がしばしば全く終わらないみたいに、前もってイシューについて考えきることってできないんじゃないかなあ。
というわけで、なんか腑に落ちない。自分にとっては大事な、だけどこの本の主張にとっては不都合な何かが伏せられているのではないか、という疑心暗鬼に陥ってさえいる。