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Two Setsの通説

先日、 『ゴールデンスランバー』 を読んだ。 先が気になるあまり、平日にも関わらず、つい夜更かしをして、一気に読んでしまった。 後悔と反省したことしきり。 寝不足で、翌日はひどい有様だった。 ところで、今日、ビートルズの 『アビイ・ロード』 をレンタルしてきた。 理由はあるけど書かない。 同時に、キング・クリムゾンの 『クリムゾン・キングの宮殿』 もレンタルした。 理由はないから書かない。 プログレッシブ・ロックというジャンルを確立した名盤ということで、前から興味はあったのだけれど、特に理由もなく先延ばしになってたのを、今日、特に理由もなく借りてみただけ。 この『クリムゾン・キングの迷宮』、『アビイ・ロード』と浅からぬ因縁がある様子。 Amazon.co.jpでは、『クリムゾン・キングの宮殿』を以下のように紹介している。 ビートルズの『アビイ・ロード』に取って代わって全英チャート1位となった稀代の名盤だ。 クリムゾン・キングの宮殿 (ファイナル・ヴァージョン)(紙ジャケット仕様) ところが、Wikipedia.jaによると、チャート上ではそうではなかったようだ。 全英NMEでは最高5位(全米チャートは28位)というのが通説となっている。 クリムゾン・キングの宮殿 - Wikipedia Wikipedia.jaの『アビイ・ロード』の項目にも、面白いことが書いてあった。 もちろん、これらが全て、事実とは限らない。 Wikipediaはしばしば改ざんされている。 Wikipediaに限らず、世の中に溢れている情報を鵜呑みにするのは危険だ。 一方で、通説を反証するのは、容易なことではない。 どこかに通説を作り出した人がいて、そいつをとっつかまえて白状させれば済む話でもない。 自分が別の通説――自分にとっての事実――を作り出す側に回る方が効果的なのかもしれない。 青柳雅春――『ゴールデンスランバー』の主人公――は、何に抗っていたのだろうか。

2008年の読書を振り返る

今年も残すところあと8日。 今年1年の間に読んだ本を振り返ってみた。 まだ今年の内に、何冊か本を読むと思うけれど、ここで一度棚卸ししてみた。 今年1年間で読んだ本は、およそ120冊。 その中から以下のテーマに沿って、各3冊(ライトノベルは3シリーズ)をピックアップした。 ■ライトノベル:空白を越えた ■統計:何を語るのかあるいは何を騙るのか ■IT:PCだけでなく頭も冷やせ ■ライトノベル:空白を越えた 2年の空白を越えて、『されど罪人は竜と踊る』がリスタートした。 5年前からエンディング目前で止まったきりだった、『ダブルブリッド』が完結した。 11年前に1巻が発売されたきりだった『ソリッドファイター』が、完全版となって出版された。 終わったシリーズは、結末が日の目を見ることができで良かったと思う。 再開したされ竜は、いつかでいいから、終わって欲しいと思う。 きちんと終わるのは、意外と難しい。 ■統計:何を語るのかあるいは何を騙るのか 『心理テストはウソでした。』は統計がいかにデタラメに使われているか、を描く。 『その数学が戦略を決める』は統計がいかに用いられているか、を描く。 『まぐれ』は統計の捉え方をひっくり返す。 昨年に引き続き、今年も統計に関する本を何冊か読んだ。 統計を使ったら何でも言えるとも言えるし、逆に何も言えないとも言える。 世の中には統計が溢れているけれど、その意図を読み解くリテラシィが必要だと思う。 ■IT:CPUだけでなく頭も冷やせ 『ソフトウェア企業の競争戦略』はどんなプレイヤが動いているかを描く。 『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』はITの将来について描く。 『なぜITは社会を変えないのか』はITと社会の関係について描く。 クラウドとかXX2.0とかXaaSとか、IT業界にはバズワードが飛び交っている。 どんなプレイヤが動いているのか。そしてプレイヤが供給するものによって、社会はどう変わるのか。あるいはどう変わらないのか。 最近はグリーンデータセンタが流行っているように見受けられるけれど、CPUだけでなく自分の頭も冷やしたい。 振り返ってみると、ライトノベルとSFと確率・統計、それからITに関する本が多い。 来年はどんな本を読もうか。

かかったな

『魔法にかけられて』 を観た。 おとぎの国を現実に持ち込んだら、という仮定がもたらす状況が面白い。 たとえば、王子がセントラル・パークで歌いだすシーン。 結末も綺麗だった。 おとぎの国と現実が、互いに影響を与え合うような形で締められている。 おとぎの国というのは、一種の理想郷だ。 そこと現実との間には、小さくないギャップがある。 ギャップを埋めることを諦めるということは、理想状態を忘れ学習性無力感を覚えることなのかな、と思う。 おとぎの国は、絵空事かもしれない。 しかし、絵空事を描くことを忘れてしまっては、現実に適応するだけになってしまう。 それはその場しのぎに過ぎないのでないだろうか。

『鋼の錬金術師 21』

『鋼の錬金術師 21』 を読んだ。 だんだんとエドが精悍になってきているように思う。 成長の現われだろうか。 そう言えば、エドは15歳くらいだったはず。 まだまだこれから大きくなるだろう。 体の成長に合わせて、機械鎧(オートメイル)を調整あるいは交換しなければならないのだろうな、と想像する。 これだけ物語が進むと、もうすぐ終わってしまうのだなぁ、と嫌でも思う。 楽しみなようであり名残惜しいようでもあり。

不自由なエリート

buildings by SO_C is licensed under a Creative Commons 表示 - 継承 3.0 非移植 License . 森美術館で開催されている [チャロー!インディア] を見てきた。 写真は森美術館手前の展望台からの夜景。 インドは急激に経済が発展しているらしく、そのことに警鐘を鳴らしている作品がいくつかあった。 日本にいる自分も、色んなものをお金に換算して、一喜一憂しているように思う。 例えば自分の行動を単価で考えるときがある。 仕事中はそれでもいいと思う。 ただ、プライベートでもそう考えてしまい、不自由だなぁ、と思うときがある。 高層ビルが建ち並ぶ夜景を見ると、「こうしたかったのは誰だったのだろうか」と思う。 思うけれど、特に意味はない。 そもそも問いが適切ではない。 資本主義の下で、多くの人間が動くと、このような風景ができあがるのだろう。

触れれば傷つける、触れられれば壊れる

『シザーハンズ』 を観た。 主役――ジョニー・デップ演じるエドワードは、ハサミが手だ。 だから、彼は見る者に恐怖を与えてしまう。 ただ立っているだけで刃物をさげているのだから、致し方ない。 それに、彼が何かに触れれば傷つけてしまう。 彼のハサミ=手はとても鋭い。 でも、彼が作り出すものは、とても美しい。 同時に、とても儚い。 彼が作り出すものは、触れれば壊れてしまうし、触れなくてもいずれ壊れてしまう。 それでも、あるいはそれ故に、彼はハサミを振るい続ける。 今も、きっと。

自然なVivid

書籍は書籍なので、読書ラベルをつけた。 でも、違和感がある。 『いきものアート〈1〉蛙』 は蛙の写真集だからだ。 それはさておき。 不自然なほど色鮮やかな蛙がいる。 絵を描くとき、こんな色使いで塗ったら、目が痛くなるんじゃないだろうか、と思う。 でも、そんな色の蛙が自然に存在するのだ。 (写真越しとは言え)それを目の当たりにすると、人間は、カラーバリエーションが少ないな、と思う。 鮮やかな色をまとった人間に、嫌悪感を抱く人さえいるように見える。 ○○色の髪をしたキャラクタはあり得ないというような主張をする人がそうだ。 それは、○○色をまとっているのが、人間だからだろうなぁ、と思う。 ナメック星人くらいかけ離れると、どうでもよくなるんじゃないだろうか。 ま、それはそれとして。 素敵だなぁ、蛙。

何が柔らかいのか

普通、道具が人に慣れるのではなくて、人が道具に慣れる。 人の方が、柔軟だからだ。 柔軟じゃなくなってくると、「コンピュータに使われる」と感じるようになる。 ただ、もちろん、使いやすい道具というのは、大事だと思う。 それに、実際ひどいインタフェースはそこかしこに存在する。 ( Jakob Nielsen博士のAlertbox のいくつかの記事が、ユーザビリティの観点から、ひどさを具体的に指摘している)

仮説の山

『サーカス団長の娘』 の主人公――ペッテルは、無数の物語を紡ぐ。 それを語るものに困っている作家に売ることを生業としている。 そんなペッテルが、あの結末をあらかじめ想定できなかったことを、読みながら不思議に感じた。 「仮説を立てることは、まことしやかな物語を作ることに似ている」と言い、まことしやかな物語を無限に生み出すペッテルが、あの結末を仮説に持たなかったことが、不思議だった。 しかし、ペッテルが無数の物語を紡ぐ理由を想像すると、あの結末が意識に上がらなかった方がむしろ自然に思う。 木を隠すには森の中。 仮説を棄却するには、対立仮説の成立を示せばよい。 いや、成立を示すまでもないだろう。 棄却したい仮説が100%の確からしさを持っていることはないだろうから、対立仮説を山のように立てれば、それだけ棄却したい仮説の真実味は薄まる。 ペッテルが無数の物語を産み出していたのは、たった一つのある物語を忘れるためだったのだろう、と想像する。 しかし、これもまた仮説に過ぎない。 『サーカス団長の娘』はいろんな読み方ができそうな作品だと思う。

初めにあったのは光だったのだろうか

『くらやみの速さはどれくらい』 を読んだ。 通常と凡庸、異常と天才の違いはどこにあるのだろうか。 幸福を感じない天才と、幸福を感じる凡庸とを比べることにどんな意味があるだろうか。

距離感の管理

『殺しのはらわた』を観た。 上映の前後には、監督らによるトークショーもあった。 最近、小さな映画館で映画を観るようになって、 映画に対する見方が、少し変わった(増えた)ように思う。 変わったのは、楽しむときの距離感だ。 シネマコンプレックスで観るものより、一緒に観ている人との距離感も作り手との距離感も、ずっと近く感じる。 何百人と入るシネマコンプレックスで、エンドロールだけで何分もあるような作品を観るのとは、楽しみ方が全く違う。 規模の違いが質の違いを生んでいるのだろうか? 質の違いが規模の違いを生んでいるのだろうか?

意図はない、厭わない。

全く解釈不能でナンセンスなら、きれいに忘れられる。 ちゃんと筋道が通っていれば、物語として記憶に残る。 解釈できそうでできない、というのが一番もどかしい。 『変態“ピ”エロ』を観てきて、そんなことを思った。 一体どのメタレベルでの解釈が正しかったのだろうか? それとも、この問い自体が意味を持たないかもしれない。 解釈したがる傾向が、時に存在しない意図を捏造する。

断片の塊

『限りなき夏』 を読んだ。 『プレステージ』として映画化された『奇術師』の著者、プリーストの短編集だ。 長編とは違った雰囲気だった。 短編は、抽出されたエッセンスのような印象を受ける。

『されど罪人は竜と踊る 4』

『されど罪人は竜と踊る 4』 を読んだ。 今月頭くらいだったかな。 若干校閲が甘いな、と思った記憶があるのだけれど、どこを読んでそう思ったかはもう忘れてしまった。 今後も角川スニーカーの時とは違った展開で、物語が進んでいくといいな、と思う。

凛とした笑み

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported License . 幼くなってしまった。頭が大きくなったからだろう。 髪のヴォリュームが大きくなりがちなので、あらかじめその分を差し引いて顔を描いた方がよかったかも。 他に、ブーツも幼く見せている気がする。丸くて子どもっぽい印象。 今回もファッション雑誌の写真を見ながら描いた。 シースルーや細かなテクスチャの表現を、難しく感じる。 どちらも表現できていないな、と思う。 でも、テクスチャやフリルなど細かな装飾は、描いていて楽しい。 気楽に描けるからだろうか。 細かい部分はスキャンして縮小した時点で潰れて見えなくなってしまうから、神経質になる必要がない。

『紀元前1万年』

『紀元前1万年』 を観た。 紀元前1万年と具体的な数字が出てくるけれど、時代考証は特にしていないようだ。 例えば、紀元前1万年とは思えない建造物が出てくる。 ストーリィにもひねったところはない。 さらわれたお姫様を助けに行く勇者の物語(の亜種)だ。 これが小説だったら、三文小説どころではないのだけれど、これは映画だ。 マンモスや壮大な自然の美しい映像が楽しめた。

『スパイダーウィックの謎』

『スパイダーウィックの謎』 を観た。 クリーチャーがあんまりかわいくない。 それに、死に様も結構むごい。 そこがいいと思う。 ファンタジーとは言え、生き物なんだから。

HDDとレアメタル

先日、テレビでルテニウムというレアメタルの相場が、日本の企業が開発した再生技術によって、劇的に変わったという放送を見た。 その時は何気なく見過ごしたのだけれど、これがHDDに使われているのを、 これはもうダメかもわからんね インフラ系SEの波瀾万丈伝: 【EXTRA】恐慌突破!! で知った。 先週末に1TBのHDDが、1万円を切っているのを見て、物欲を刺激されたけれど、この価格には、ルテニウムの再生技術が貢献しているかもしれない、と考えると、感慨深いものがある。 簡単にウェブを調べてみると、IBMが2001年にルテニウムを使ったHDDを初めて実用化したというプレスリリースを発行しているのが見つかった。 PIXIE DUST 記憶密度4倍、最大容量400GBのHDDが実現へ −新素材「ルテニウム」による多層磁気コーティング技術を採用− IBM 記憶密度4倍、最大容量400GBのHDDが実現へ - Japan ところで、このように技術的にトップを走っていたIBMのHDD部門も、2003年に日立の同部門と統合されて、HGSTになっている※1, ※2。 現在は、HDDの地位――PCの主要記憶媒体を、SSD(Solid State Drive) が占めつつあるように思う。すでに、Eee PCをはじめネットブックで使用され始めている。 あと、比較するものではないのかもしれないけれど、MicroSDカードも著しく値が下がっている。 SSDの方が軽くて速くて静かだから、容量あたりの価格が低くなると、ユーザとしては嬉しい。 HDDは壊れやすいし。 壊れやすいと言えば、HDDを4重化していたが、同時に壊れたことがあるという話を聞いた。 聞いた瞬間はそんなレアケースが発生したのか、と驚いたけれど、同じ製品の新品を、アクティブーアクティブで使い始めたのなら、最初に想像したより発生確率は高いだろう、と思い直した。 理由は、同時に同製品の新品を使い始めたら、同時にバスタブ曲線が上昇し始めるからだ。 ※1 その日立も2011年3月7日にHDD部門をWestern Digitalに売却(2011年3月11日追記)。 ※2 Seagateが2011年4月にSumsungの買収を発表。HDDメーカは、Seagate, Western Digital、東芝の3

『俺たちフィギュアスケーター』

『俺たちフィギュアスケーター』 を観た。 良い意味で下らない。多いに笑った。 特にクライマックスで二人が見せる演技が、素晴らしい。 あの曲には個人的な思い入れがあるので、イントロの時点で笑いがこみ上げてきた。 どことなく、スキー・ペアジャンプに近い方向性を感じた。

『ソリッドファイター[完全版]』

『ソリッド・ファイター[完全版]』 を読んだ。 今まで読んだ古橋秀之の作品の中で、もっとも間口が広いのではないか、と思う。 いや、広くないか。いわゆる格ゲーの話だ。 1巻が出たのが、11年も前の話なので、ちょっと古さを感じる部分もあった(たとえば、地の文に関する扱い)。 しかし、それを差し引いても、他の作品に比べて読みやすいと思う。 それなのに、売り方が……。 ハードカバー一冊で、通販(終了済み)と電撃文庫フェア実施店(アニメイト、Gamers)のみとは。 ※2009/11/09 01:20追記 2009/10/26からAmazon.co.jpで買えるようになっていた。

「だまされた」人の書評こそ

ベストセラー本を読むことの利点は、沢山の書評を読むことができる点だと思う。 「だまされた」と思った人の書評がとくに面白い。 そちらの方が、視点が多角的なことが多い。

いくらお得でもそんなに飲まない

『スタバではグランデを買え! 』 を読んだ。 上手く読ませる工夫がされているな、と思う。 タイトルに使われているスタバの他にも、100円ショップなど身近な題材を使っていたので、具体的なイメージを持ちながら、読むことができた。 読ませ方がうまいせいで、印象が弱くなってる嫌いさえある。 考えずに読めるからだろうか。 ページ数の割に、短時間で読み終わった。 もう少し冷静にゆっくりと読み返したら、また面白いかもしれない。 あるいは、これを糸口にもう少し深入りできるよう参考文献などがナビゲートされていると便利なのに、と思う。 ところで、タイトルが、内容をうまく要約していない。 むしろ、内容の一部を誇張している。 売るための戦略なので、むべなるかな、とは思うが、「だまされた」と思う人もいるだろうな、と想像する(書評を検索したら見つかった)。

CIAとE-Rモデル

『仕事に役立つインテリジェンス』 を読んだ。 インテリジェンスは、意思決定支援の一種であり、主な内容は、情報を入手・分析し、その結果に基づき将来を予測することだと理解した。 インテリジェンスの世界(CIA)では、まだ分からない情報を、"シークレット"と"ミステリー"との二種類に区別しているらしい。 区別のポイントは、入手が可能かどうかだ。 "シークレット"は、存在するけれど手に入っていない情報だ。 どこかの誰かは知っているけれど、自分はまだ知らない情報は、ここに分類される。 "ミステリー"は、そもそも存在し得ない情報だ。 まだ下されていない決断などは、こちらに分類される。 この分類は、E-Rモデル――リレーショナルデータベースの論理モデル――を考案したコッドの、失われた情報の分類に包含されている。 (分類の詳細については、 3値論理 ―― 神のいない論理 に詳しい) E-Rモデルはよく考えられているなぁ、としみじみ思う。

誰のために何をするのか

多数決的な意志決定プロセスの下では、ある認識が事実誤認だとしても、 その認識を持つ人間が一定数以上存在すれば、その誤認を前提にした選択がなされる。 それで一定数以上の人々は満足するだろう。 しかし、誤認を前提にした選択なので、実際的な効果がどう出るかは運次第だ。 もう少し具体的な言葉を使って言い換える。 世論の反映や、CS (Customer Satisfaction)/顧客満足度の最大化では、効果は必ずしも最大化されないと思う。むしろ、逆効果にもなりかねない。 では、効果を最大化するには、どうしたらいいだろうか。 そんなことを考える。

何が人の行動を決めるのか

『最底辺の10億人』 を読んでいる。 本書は、最貧国と呼ばれる国の多くに共通する要因について、述べている。 それらの国でガバナンスが悪化する理由の中に、2点、日本にも当てはまる理由があることに気がついた。 1.建設 建設には腐敗を招きやすい数々の要因がある。プロジェクトはそれぞれ一回かぎりのものであり、簡単には価格を査定することができない。事業の実施に当たっては多くの不確定な要素があり、経済学者が「完備契約」と呼ぶものを作成するのは不可能である。その結果、競争入札なら達成できるような規律をくぐり抜けるのは容易なことである。(中略)建設セクターでの腐敗がいかにインフラのコストを引き上げ経済成長を抑制するか、現在では数カ国を調査した信頼できる報告がまとまっている。 日本では、ゼネコンか。ITシステムにも同じ要因があり、ITゼネコンと呼ばれる業者が存在する点が興味深い。プロジェクトは腐敗を招くということか。 2.選挙費用 ナイジェリアの場合は大統領選挙は論外として、上院議員に選ばれるには五〇万ドルが必要となる。これでは政治が腐敗するのも当然である。これだけの資金を集めるためには、候補者は家を売り借金をしなければならず、勝利した場合でも投資を回収するのに四年はかかるだろう。 「選挙 費用」で検索すると、いくつかそれらしき情報に行き当たる。信憑性は定かではない。 高い選挙費用は、参入障壁として機能する。参入障壁は競争の激化を避けるために有効だ。それでも、市場では独占・寡占にならない限り、競争相手が存在するが、政治の場は、競争に勝った後の場だ。競争は少ないのではないだろうか。 そういえば、 『ヤバい経済学 [増補改訂版]』 で、選挙費用と結果の分析があったように記憶している。 確か、有意な関係は観察できなかったはずだ。 景気が悪くなっている理由を考え直した方がいいんじゃないか、と思った。 あと、モラルとか倫理とか精神論とか道徳論に限界を感じる。 浅はかだろうか。

崩す相好

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported License . 今日はショートカットを描いてみた。 女の子らしさを出すのが思ったより難しい。 目だろうなぁ、多分。 表情がなんとなく不自然。 特に笑顔は難しいと感じることが多い。 笑顔は表情が崩れたときに現れるから。 崩れたものを素敵に描くのは、難しい。 ところで、写真を見て描くときは、なぜそう写っている(なぜそう写した)か、を考えると面白い。 例えば――このコートは、襟がポイントかな。あとインナーが少し出ているところが、ワンポイントだろうか――と、そんなことを思う。

マグレブ

まぐれは続かない。 運が良いと感じるまぐれも。 運が悪いと感じるまぐれも。 等しくどちらも続かない。 しかし、短期的には、幸運が続くこともあるだろう。 もちろん、不運が続くこともある。 ランダムネスとは、そういうことだ。 (厳密な定義は難しい) 続かないことではない。 続いたり続かなかったりすることだ。 問題は、頭でそう分かっていても、 感情は、そう割り切らないことだ。 脳を研究している人たちによると、私たちの脳には数学的な真理がほとんどわからない。とくに偶然の結果を検証するのはまったくダメだ。確率論で得られる結論はまったく直観に反している。 『まぐれ―投資家はなぜ、運を実力と勘違いするのか』 実験によると、統計学者でさえ、頭で分かっていることに従って判断を下せないらしい。

たまたまは続かない。しかし続ければいつかは起こる。

ずっと(つまり観察期間中)成功している人から成功の秘訣を聞き出せば、いわゆるノウハウ本が出来上がる。 しかし、気をつけた方がいい。 たまたま成功した人が、さらにたまたま失敗する確率は、たまたま成功する確率よりずっと低い。 直感に反しているようにも感じるかもしれないが、ランダムウォークの概念と同じだ。 両方の確率の積で同時確率が求められることを思い出せば、納得できる。 コイン投げで10回連続で勝つ確率と10回連続で負ける確率は、1/2 10 で等しい。 具体的な値は試行回数によるが、両方とも体験する確率は、1/2 10 よりもずっと低くなる。 『まぐれ』 を読んでそんなことを思った。

決断が完成させる

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported License . 一人用のソファに横(斜めか?)座りしているところを描いた。 素材はファッション雑誌。 BGMはつけっぱなしのテレビ。 日本シリーズ最終戦――ライオンズ対ジャイアンツ。 西武が同点に追いついた頃に、描き上がった、と判断した。 いつまでも手を加え続けられるから、どこかで「描き上がった」と判断しない限り、終わらない。 描き上がったと判断したけれど、スキャン後に色を補正した。 やっぱりよく考えずに「描き上がった」と判断しているのかもしれない。 紫を選んだのは、外でよく目にする気がするから。 西武が逆転した。 色の補正に限らず、電子データには、いくらでもどんな風にでも加工を続けられる。 だから「できた」ことにしないと次に進めない。 そして、「できた」ことにできるのは、自分だけだ。 だから、「できたことにした」ものを加工しないのは、自分の決断に縛られているに過ぎない。 試合が終わった。 西武が1点のリードを守って、日本一になった。 イトーヨーカドーがセールだ。

エコチキンレース

エコロジィがブランドとして消費されている。 エコバッグが良い例だと思う。 売れているように報道されている割には、スーパーなどで実際に使われているところが観察できない。 今日読んだ、 『「お金」崩壊』 は、こうした経済と環境との関係について、深く掘り下げて論じている。 本書を、荒唐無稽な本と言っているレビューも見つかったけれど、残念ながら、それを判断するに足る経済学のバックグラウンドを自分は持ち合わせていない。 深く掘り下げてはいるが、メッセージは極めてシンプルだ。 「お金」は実態を伴っていない。このままでは「お金」で成り立つ経済は破綻する。環境による制約に合わせていく必要がある。 これが優れた予測なのか、ただの妄想なのかはさておき、今のエコロジィブームは、経済が主で、環境が従になっているように見える。 車の「エコ替え」が良い例だ。 「消費しろ」というメッセージは何ら変わっていない。 それは環境維持に貢献しているのか? 何のために環境を守りたいのか? あるいは、本当に環境を守る必要はあるのか?

トリミングで構図

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported License . 月曜日の夜に描いた絵(の一部)。 膝下まで描いたけれど、デッサンが狂っていたので、トリミングでなかったことにした。 (右手もまだ狂っているけれど) トリミングの際には、デッサンが狂っている部分を取り除くのと合わせて、構図を考えている。 つまり、キャンパスの方をスキャナ画像という素材に合わせている。 通常の絵の描き方は、反対だ。 まずキャンパスがあって、そこに収まるように構図を考える。 自分のこのやり方は、カメラで良い構図を探している感覚に近いかもしれない、と想像する。 この順番だと、効率は悪い。最終的に使わない部分も描くからだ。 効率を求めているわけではない。 むしろ描くこと自体が目的なので、望むところだ。

将来招来

『偶キャリ。』 を読んだ。 成功例を集めたものを見ると、成功者の共通項は、必要条件だろうな、と思う。 しかし、"Planned Happenstance"の考え方は、悪くないように思う。 個人の将来は(ある程度以上の精度で)予測できないという前提は、あながち間違っていないように思う。 統計で、集合全体の振る舞いは予測できても、個々の構成要素の振る舞いは予測できないからだ。 例えば、統計力学では、気体(分子の集合)の振る舞いを予測できるが、個々の分子の振る舞いは予測できない。 しかしながら、キャリアプランニングに限らず、未来を予測したいという欲求は、今も昔も変わらないな、と思う。 未来を予測する唯一の方法は、予測した未来を自分で実現させることだ。 とは、誰の台詞だったか。

Is IT Strategy?

『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』 を読み終えた。 確かに、ITはコモディティとなろうとしている。 ASP、SOA、SaaS、クラウド――いろいろ呼び名はあるけれど、いずれもユーザが欲しがるものが必要なだけ迅速に提供することを、メリットとして挙げている。 上記のアーキテクチャが理想的に実装され、標榜するメリットを享受できるとしたら、参入障壁が低く、追随が容易なため、差別化要因にはならないだろう。 (つまりコモディティとなる) しかし、今のところ、理想的には実装されなくて、結果的に追随コストを押し上げているようにも思う。 それから、コモディティは外から買って、コアは内製するという動きもある。 差別化の実現手段がITならば、それは正しい選択のように思う。

自作PCとミニ四駆

昨日は、秋葉原を、メイドさんからもらった地図を片手に、探索してきました。 と書くと、いかにもアキバ系といった感じだ。 でも、ハードウェア探しの旅だったので、いわゆる萌え系にはノータッチ。 特に使い道があるわけではないのに、グラフィックボードやサウンドボードを見ると、何となく欲しくなってしまうのは、組み立てが楽しいのと、スペックに現れるからだろうな、と思う。 ミニ四駆と同じだ。

それはIT?

『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』 を読んでいる。 進行状況20%で、以下のように理解した。 相手より競争優位に立とうと思ったら、相手がやっていないことをやらなければならない。 だが今やITはどこでも使われている。 だからITは競争優位をもたらさない。 ガースナーが、戦略は不要だと言っていたことを思い出す。 IBMには、優れた戦略が既に十分あるので、必要なのは実行力だ、という趣旨だったと記憶している。 ナイーブな疑問だけれど、戦略を実行するのに、ITは必要だろうか?

Collaborative Filtering

タイトルは、Amazonで、『この商品を買った人はこんな商品も買っています』と推奨するときに、『この商品』から『こんな商品』を計算するための手法のこと。 日本語だと『協調フィルタリング』と呼ばれている。 最初は面白いと思っていたけれど、最近だんだんと見方が変わりつつある。 AmazonとHMVなどの実店舗との推薦内容が、よく似ているからだ。 両方で洋楽のCDを物色していて、たまたま気がついた。 ボナンザ(将棋ソフト)が、プロをもってして、 51手目▲6六角は見たことがない類の手ですがなかなかの手。僕らでは浮かばない手で、コンピュータが将棋の技術向上に一役買ったと言えると思います。 大和証券杯特別対局ボナンザ戦。その2(当日編) - 渡辺明ブログ と言わしめたような、量が質に転換するような推薦内容を見てみたいと思う。 (※ボナンザは協調フィルタリングではないけれど) どちらも同じでは面白みに欠ける。 なぜAmazonの協調フィルタリングが、そんな推薦ができないか考えてみた。 実はもうやればできるのかもしれないけれど、プロが唸るような玄人好みな推薦では売れないからだろうか? 入力規模が不足しているからできないのだろうか? Amazon.co.jpにおける洋楽CD市場は、そんなに大きくなさそうだ。 あるいは、入力の質に問題があってできないのだろうか? ボナンザの入力は、プロの棋譜だが、Amazonの協調フィルタリングの入力は、一般消費者の購買履歴だ。 やっぱり、自分で探さないと駄目かな。 どちらにせよ、推薦されているものだけで満足してしまっては、推薦者にコントロールされる可能性が高い。 (推薦者にその意図があるかどうかは別としても)

切れない綺麗な

きれいな絵、きれいなねーちゃん、きれいなヌード……きれいなもの、ぱっと見れば見た瞬間は気持ちいいです。が、2回見ますか? 不思議と2回、3回見ていいものは、きれいなだけのものでは絶対にないんですよ。 「お前らの作品は所詮コピーだ」――富野由悠季さん、プロ論を語る (2/5) - ITmedia News 自分が絵を描くときについて考えてみる。 きれいなものをきれいに表現することが簡単になってきたと思う。 ツールがサポートしてくれるからだ。 ただ、ツールがサポートしているがゆえに、「なぜ」きれいに表現できるのか、分からない。 さらに言えば、「何が」きれいなのかも、分からない。 ツールを使えば、きれいに出来るからだ。 もちろん、出来上がったものを見て、それがきれいかどうかを評価することはできる。 でも、何かを表現しようとするときは、「なぜそれがきれいに見えるのか」あるいは「何がそれをきれいに見せているのか」を認識できるようになりたい。 ただ、過去エントリ―― 良いものは良いのか でも書いたように、 カワイイと思ったものを、カワイイと思って撮った時点で、カワイイ写真が撮れることになっている 人は少なくない。 別にそれが悪いと言っているわけではない。 かわいいものは確かにかわいい(トートロジィだけれど)。 ただ、そうでないものにも、魅力を感じることがある。 かわいいものもそうでないものも、なぜそこに魅力を感じるのか考えるのは、面白い。 何てことを言っていると、絵を描きたくなる。 (じゃあ描けばいいじゃないか。こんなことを書いてないで)

絶対計算者のバイアス

人間には認知バイアスがある。 絶対計算者とて、例外ではない。 では、絶対計算方程式は、どのように決めるのだろうか? 答えはこれも絶対計算できる。モデル選択の分野になる。 しかし、仮説がなければ、多くの人を納得させることはできない。 結果的によく当たるだけでは、信用を得られない。 面倒くさいなぁ、人間。

道行く先

『ザ・ロード』 を読んだ。 映画ノー・カントリーの原作、 『血と暴力の国』 と同じ作者の作品だ。 『血と暴力の国』と比べると、エンディングがいかにも唐突だ。 突然終わる。そこが良いと思う。 唐突に感じるのは、エンディングだけじゃない。 キャラクタが放り込まれた状況も、キャラクタどうしの会話も、唐突だ。 予兆も伏線も前振りもない。 特徴的な文体と相まって、ミニマルあるいはシャープな印象を受ける。 研ぎ澄まされている、あるいは削ぎ落とされている、といっても良い。 (何といっても良いし、何とでもいえるけれど) それでもじわりと感じるものがあった。 良い小説だなぁ、と思う。 ちなみに、映画ノー・カントリーについては、以前のエントリーー No Country For Old Men で言及した。

CDのジャケットとコンピュータのアイコン

ZERO/天野月子 を買った。 インディーズ・レーベルからの発売だったことを知らずに、レンタル開始を待っていた自分を笑おう。 さっさと買えば良かった。 インディーズ・レーベルからのCDはレンタルされない。 ところで、最近は、気になる曲があったら、公式サイトやMy Spaceなどで視聴できることが多い。 Youtubeでフルレングスを視聴できることも珍しくない。 あと、P2Pで音源を手に入れることもできるだろう。 (その是非はさておき) そのせいか、ジャケットからどんな音楽だろう?  と想像することがなくなった。 想像する前に、視聴ボタンをクリックしてしまう。 一方で、iPodなど今聴いている曲のジャケットが表示されるようになったのは、CDプレイヤやMDプレイヤにはなかった機能だ。 コンピュータ上ではむしろ曲とジャケットの結びつきは強くなっている。 ジャケットが、GUIアイコンの機能を担っているように思う。

データを食べる

Sheedy氏は、「人間が判断するのではなく、アプリケーションがさまざまな判断をする組み込み分析や運用BIといわれる分野での発展が進むだろう」と話す。例えば、サプライチェーンではすでに実践されているように、在庫が一定の個数を切った場合自動的に発注システムが作動する、といったようなものだ。 アナリストが見るBIベンダーの「意味のある買収」と「わけのわからない買収」 - アナリスト - page2 - ZDNet Japan この『一定の個数』を決めるのが、恐らく 『その数学が戦略を決める』 がいうところの絶対計算だろう。 ただ、絶対計算は、計算の対象となるデータがなければ、役に立たない。 よい予測モデルを作ることができないからだ。 従って、以下の指摘は全くもって正しい。 Sheedy氏がBIベンダーの買収で「意義がある」と感じるのは、「情報マネジメントプラットフォームを持っている企業が、そのプラットフォームにBI機能を組み込もうするケース」だ。 アナリストが見るBIベンダーの「意味のある買収」と「わけのわからない買収」 - アナリスト - ZDNet Japan データとモデルは、食材と料理のようなものだ。 モデルを作らなければ、データは役に立たないし、データがなければ、モデルを作ることできない。 そして、食べてみないとプディングの味が分からないように、モデルは使ってみないと、精度が分からない。 一つのアプローチはスモール・スタートだ。 ただ、スモール・スタートは、成果のインパクトも小さい。 従って、魅力的には映らない。 どうすれば、使いたいと思ってもらえるだろうか。 そんなことをつらつらと考えた。

ラスタとベクタ

午前中のエントリ、 正方形、直方体 の続きを、考えている。 無理矢理だけれど、構成単位――Picxel(正方形)とVoxel(直方体)――の対比で捕らえられるかも。 Mirror House 別館: 正方形、直方体 と書いたけれど、以下の文章を読んで、Pixcelは点描か、と思い直した。 興味深いのは、村上隆のスーパーフラット作品がいかにもベクターCGであることだ。各々のキャラクターはトポロジカルな閉曲線に囲まれた領域として定義されている。つまりそれ自体で一個のオブジェクト(物体)で、ドットの集積ではない。 方法 第16号 ゲスト=村上隆 日本語訳 いかにもベクターCGというか、ベクターCGそのものな気もする。

正方形、直方体

This work by SO_C is licensed under a Creative Commons Attribution-ShareAlike 3.0 Unported License . 昨日のエントリ―― 瞳孔の動向 の続き。 左の絵が、昨日描いたものだ。 見ての通り、瞳孔が大きい。 昨日のエントリでも書いた通り、瞳孔にこだわるのは、「絵を見る目がない」からだという意見がある。 「絵が見る目がない」は、「絵を見る視線がない、あるいは無数にある」ことを指している(昨日は読み落としていた)。 つまり、単一視点の否定である。 視点の数 ≧ 0 かつ整数のとき、 視点の数≠1 ⇔ 視点の数 = 0 または、視点の数 ≧ 2 だ。 視点の数 ≧ 2と言えば、ピカソ――キュビズムを思い出す。 あの絵も、単一の視点からは構成できない。 しかし、キューブ=立方体はフラット=平面ではない。 関連はあるように思うのだけれど。 無理矢理だけれど、構成単位――Picxel(正方形)とVoxel(直方体)――の対比で捕らえられるかも。

瞳孔の動向

久しぶりに時間をかけて絵を描いた。 以前から萌え系一辺倒ではなかった(と自己認識している)が、 萌え系の絵を描くことに、楽しみを感じなくなっている。 アイコン化されていることや、大量生産大量消費の対象になっていることが、気に食わないのかもしれない。 自分は基本的にマイナ志向だ。 何てことを言っているが、目は依然としてかなり大きい。 東浩紀は、それを「絵を見る目がない」からだと言った。 僕は、その原因は、実はそもそもアニメ絵には「絵を見る目がない」からだと思うのです。絵を見る目がないからこそ、見られる絵のなかで、目のイメージが過激に膨らんでしまう。 存在論的、広告的、スーパフラット的 しかし、目が大きいのは、アニメ絵に限らない。ウルトラマンも仮面ライダーも目が大きい。 高山宏なら何と言うだろうか? と言うか視覚文化論の文脈ではどう解釈されているんだろうか。

映画とニューラル・ネットワーク

ナショナル・トレジャー2 リンカーン暗殺者の日記 と、 ジャンパー を観た。 観た順番に従って、ナショナル・トレジャー2について。 邦題に時々あることだけれど、副題は限りなく嘘に近い。原題の副題"Book of Secrets"の"Book"はリンカーン暗殺者の日記ではない。 前作は結構わくわくしながら観ることができたのだけれど、今回はちょっと一歩引いて観たように思う。 場所の違いだろうか? 前作は映画館で観たけれど、今回は自宅で観た。あるいは、あちこちへの侵入シーンがすんなり行き過ぎたからかもしれない。 ライリーに一番好感を持ったのは、前作同様。 続いて、ジャンパーについて。 ジャンプをしながらのアクション・シーンが観たかったので、パラディンが出てくるまでがちょっと退屈だった。 期待していたアクション・シーンは、スピード感があって満足。 しかし、パラディン登場以降も、シナリオがとってつけたようで、退屈だった。 ラブシーンとか母との葛藤とか詰め込み過ぎかも。 アクションに特化してくれた方が、自分は嬉しい。 あるいは、グリフィンが主役で、ダーティ・ヒーローだったら、とも思う。 そんなことしたら、制作費回収できなさそうだけれど。 『その数学が戦略を決める』 にあった、興行収入を予測するニューラル予測に、ああいうシナリオを入れるように推奨されたのかもしれない。

数学が思考を加速する

自分のエントリを読み返して思ったけれど、 加速不能 に対する一つの解答が、 犯罪も解決する 数学・統計学・ゲーム理論なのだろうな、と思った。

犯罪も解決する

『その数学が戦略を決める』 を読んだ。 意外と単純な回帰分析が、高い予測精度を示し、専門家の予測を大きく上回るケースがあったことに驚いた。 しかも、そうしたケースは、一つや二つではない。 様々な分野(医療、司法など)でのケースが、本書の前~中盤で紹介されている。 一方、後半では、定量分析と専門家や消費者、つまり社会との軋轢について、書かれている。 この部分は、 『なぜITは社会を変えないのか』 にも通じるものがあると思う。 情報があれば解決する、という考えに心理的抵抗を感じるのは、どういった傾向の人で、その抵抗はどうしたら取り除けるのだろう。 ところで、この手の本の著者は、計量経済学者が多い。 計量経済学について、少し興味が湧いてきた。 本物の絶対計算者や、そこそこまともな絶対計算消費者になるためにさえ、習得すべきツールは他にもいろいろある。異分散性とか除外変数バイアスといった用語も平気で使えなければならない らしいので、勉強してみたい。 犯罪も解決できる し、数字を扱うのは面白い。

技術者でもあるヒーロー

『アイアンマン』 を観た。 『ダークナイト』と違い、勧善懲悪の分かり易いストーリィだった。 真面目に考えると、重くもできる話だと思うが、爽快感重視で、これはこれで良かったと思う。 どちらも正体は富豪なのだけれど、その振る舞いは対照的だ。 バットマンが己の罪に悩み、葛藤するのに対して、アイアンマンは無邪気ささえあり、また判断が速い。 アイアンマンは技術者だからだろうか、とふと思った。 技術者にとって、技術が問題を解決することは、事実だからだ。

加速不能

『世界デジタル情報量は毎年1.6倍増加,2011年には1兆8000億Gバイトに』 CPUの性能は、ムーアの法則に従うかもしれないが、人間の性能には限界がある。速読にも限界があるし、映像や音楽に至っては、消費速度を加速させることはできない。

同窓会とイノベーション

『なぜITは社会を変えないのか』 を読んでいる。 その中に、こんな一文があった。 ある会社の場合には、見開き二ページの機能をつけたことで、自らが「書籍」の真の後継者と公言している。 電子リーダの話だ。 おかしな話だ。 おかしな話だが、このように、既存の文化との連続性を強調することは、悪い戦略ではないように思う。 『イノベーションの神話』 の神話の一つでもあったはず。 また、 『隷従への道』 にもこんな行がある。 人々のしたがうべき価値の妥当性を、人々に受け入れさせる最も有効な方法は、人々または少なくともそのなかの最も善良なものが常に抱いていて、しかもこれまで適当に理解されず、また認められなかった価値と実質的に同じものであると説得することである。 知らないものを面白がるのは、ごく一部なのだろうな、と思う。 破壊的イノベーションが破壊的イノベーションに見えるのは、多くの人からは経緯が見えないからではないだろうか(経緯自体は存在する)。 そういう視点で見ると、「ITは社会を変えている」けれど、変化は徐々に起きており、知覚されていないのかもしれない。 同窓会と同じだ。 久しぶりの再会なら、「変わったね」とか「変わってないな」と言えるけれど、毎日のように会っていたら、何も思わない。

視点を置く位置

『双生児』 を読んだ。 作中では、すべてが語られない。 視点を小説の外に置き、じっくりと読まないと、面白く感じられないかもしれない。 小説に限らず、視点を置く位置によって、見えてくるものや見え方が変わってくる。 読み終わって、ようやくいつの間にか視点が固定してしまっていたことに気がつかいた。

秘密に終わる秘密兵器

今更ながら 『ITにお金を使うのは、もうおやめなさい』 という本を知った。 インタビュー記事―― ITの“戦略的価値”は本当に失われたのか? を読んだ限りでは、著者は、「IT投資によって得られる戦略的価値は、容易に模倣されるから、先陣を切るリスクに見合わない」と言っているように思う。 確かに、あっという間に低コストで真似されるのなら、先駆者は人柱に他ならない。 先行者利益が小さいと言い換えてもいい。 似たようなことを、ガードナーの人が今日のITpro EXPOで言ったらしい。 「戦略によって企業が差異化できる時代は終わった。今後は戦略の実行力が企業の競争優位性となる。その実行力を高めるために有効なのがITだ」 [ITpro EXPO]「ビジネスとITをつなげる」はウソ---マッキンゼー・アンド・カンパニーBTO日本代表の横浜信一氏が講演 ただ、こちらでは、ITではなく戦略がコモディティ化したという風に聞こえる。 差異化が行き過ぎて、ターゲットの市場サイズが、利益を出せる限界に達したのかもしれない。

『ゴーレム100』

『ゴーレム 100 』 を読んだ。 混沌としているけれど、錯綜はしていない。 そんな印象を受けた一冊だった。 この本には、文中に図が散りばめられている。 図によって、狭義の「読む」という行為から離れることになった。 まず、こんなところになぜ図があるのだろう? と考えた。 それから、この図は何を意味しているのだろう? と考え。 しかしこれらの疑問は、答えが出ない問題だし、図が乱用されているので慣れてしまって、読み進めていくうちにどうでもよくなっていった。 そこに意味を見いだそうとすれば、いくらでも解釈のしようはあるだろう。 しかし、文脈は、そんな深読みには意味がないと感じさせる。 一貫して、 深淵なんだか浅薄なんだか、 壮大なんだか卑近なんだか、 論理的なんだか感覚的なんだか、 理性的なんだか本能的なんだか、 よく分からない。 もともと境界なんてないのかもしれない。 二本の平行線も、球面上では二点で交わる。

New Newspaper

面と向かって、新聞社関係者に、「新聞はもう要らない」と言うのには、なかなか勇気がいる。 読売新聞社が15~21日の第61回新聞週間を前に行った全国世論調査(面接方式)によると、情報や知識を得るために、新聞はこれからも必要だと思う人は90%に上った。 「新聞、これからも必要」が90%…読売世論調査 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞) 目的は、現状認識ではなく、プロパガンダなのだろうな、と思う。 新聞の発行部数と世帯数の推移 によると発行部数は減少傾向にあるから、両調査が妥当だとすると、『必要だとは思うけれど、買いはしない』という人が増えているということになる。 ネットニュースで十分ということだろうか。 確かに新聞より品質は劣るかもしれないが、通り一遍の情報を仕入れるだけなら十分そうだ。

『境界線上のホライゾン I (下)』

『境界線上のホライゾン I(下)』 を読んだ。 上巻は近所の本屋になくて、あちこち探したけれど、今回はすんなり買うことができた。 平積みしてあったのだけれど、遠くからみたらまだ何冊もあるように見えていたのが、手にとってみたら、残り2冊のうちの1冊だった。 Iからこんなに飛ばして大丈夫だろうか、と思ったけれど、自分の心配することではないので、大いに楽しませてもらうことにした。 と言うか、楽しんだ。7時間ぶっ続けで読んでしまった。 次はいつ出るのだろうか?

続かない話

『ブラッド・プライス』 を読んだ。 原著には続編があるのに、邦訳が出ていない。 話は悪くなかっただけに残念。キャラクタも素敵だったし。 ただ、訳者は変わって欲しい。何カ所か読みにくいところがあった。 まず1巻だけを出版して、売れたら続刊を出版するという戦略だったのではなかろうか。 そうだとすれば、売れなかった、ということだろう。続刊が邦訳されていない。 戦略的には正しいかもしれないけれど、作家には優しくないな、と思う。 このケースの場合、日本で売れなくても、本国では売れているようなので、気にしていないかもしれないが。 それはさておき、イラストに何か見覚えがあると思ったら、 『バッカーノ!』 のと同じイラストレータだった。 ちなみに本文に挿絵はない。扉絵もない。 コストを節約している印象を受ける。

ガチャポン回し過ぎ

スパイダーマン・ガチャポン でそろそろ潮時だ、と言っておきながら、またやってしまった。 残念ながら、シークレットは出てなかったけれど、ノーマルコンプリートは達成した。 揃えるだけなら、セットを直接買った方が安い。 ガチャポンだと、セットの価格以上のお金を費やしても、揃わない上にだぶりが出る可能性が高い。 それでもやってしまったのだから、合理的な行動ではないなぁ、と思う。

ページの呪縛

電子ブックにはページがある。なぜだろう? 本にページが存在するのは、紙で作っているからだと思う。 紙を、巻いたり折ったりするより、重ねて束ねる方が、取り扱いやすい。 本で小説を読んでいるときに、不便だと感じるのは、段落の切れ目がページの切れ目が一致しているときだ。 つまり、ページの最終行か先頭行が、段落の切れ目=空行のときだ。 このとき、しばしば、段落の切り替わりに気がつかず、文脈を見失う。 いくらか読み進めて違和感が閾値を越えると、最終行あるいは先頭行が裏ページと一致しているか、ページを透かし見ることで、確かめる。 この問題は、ページ送りをする限り、電子ブックでも解消されない。 スクロールを許可して、段落単位で送るというのは、どうだろう? そんなことを、米ソニーの発表したリーダを見て、考えた。 ソニー、タッチスクリーン+電子ペーパーの新リーダーPRS-700を発表

『ダイヤモンド・エイジ』

『ダイヤモンド・エイジ〈下〉』 まで読み終わった。 途中、端折られていると感じるところもあったけれど、先が気になって、時間を無視して読み進めてしまった。 大きな変化は、破壊的作用をもたらす。 最近だと、コンピュータやウェブがその代表例だろう。 作品中の例だと、<ラクティヴ>が<パッシヴ>を駆逐している。 このような変化は、たいてい大きな抵抗に遭うと思うのだけれど、それでも変化は起きる。抵抗を乗り越えるファクタはなんだろう? 特にこれといった理由もなくて、幸運が重なって変化を起こした結果だけを見て、理由があると思い込んでいるだけなのかもしれない。

ご一緒に~はいかがですか?

小説は、途中から読み始めることが少ないので、紙でもそんなに不便ではない。 どこまで読み進めたか、さえすぐ分かればよいので、強力な検索機能が必要だとはあまり感じない。 (あれば嬉しいけれど。断片的にしか覚えていない文章を引用したいときとか) 一方、雑誌は目的の記事を真っ先に読むことが多い。 目次から低コストで記事にアクセスできると便利だろうな、と思う。 目下のところ、そうはなっていないらしい。 現在見ることのできる電子雑誌のほとんどは既存の紙媒体の編集やデザインをそのまま電子的な紙芝居にしたものだ。 メディア化するポータルが瀕死の雑誌を飲み込もうとしている そこで、仮に、ウェブサイトと見分けがつかない方向に変化していくと仮定してみる。 すると、「暇なので無目的に他の記事を読む」、というケースが少なくなりそう。 リンクは、目的の記事を掘り下げるコンテンツあるいは関連コンテンツに誘導しているためだ。 では、今の記事はどういう基準でスクリーニングされているのだろう? 何と何が一冊の雑誌という限られた掲載スペースで、ひもづけられているのだろう? 以下は、関連自エントリへのリンク。 主に自分のために。 何で読むか 何で読むか2

読んでいるようで読んでいない

『ダイヤモンド・エイジ〈上〉』 を読んでいる。 300ページあたりから、面白くなってきた。 下巻に期待していると、肩透かしを食ったときのがっかり感が増すし、本を読むことの目的の一つが、没入することなので、テレビを眺めるように、何も考えずに読むことだろう。

プロパガンダする側も意見を失う

『プロパガンダ教本』 を読んだ。 原著は、1928年――80年近く前に出版されたが、内容は古くなっていないと感じた。 ただ、訳者解説にあるように、主張は中立的ではない。 「プロパガンダという技術をプロパガンダする目的で書かれた」本なのである。 それを踏まえて読んだ方が、安全だろう。 ところで、プロパガンダは、ターゲット層を大きくすればするほど、内容が画一的になっていく傾向にある。 一般的にいって、個人の教育と知識が向上すればするほど、個人の見解や趣味の相違がますますいちじるしくなり、特定の価値体系に対する個人の同意がいよいよ期待されにくくなるということは、ありそうなことである。これに反して、もしわれわれが高度の統一性と単なる外観上の類似性を求めようとするならば、より粗野で、より「平俗的」な素質と趣味が一般的であるところ、すなわち道徳的水準と知的水準のより低いところまで降らなければならない。 『隷従への道―全体主義と自由』 従って、プロパガンダによるパイの奪い合いの結果、敵対関係にあるものが、段々似ていくことになる(この話は、 『「分かりやすさ」の罠―アイロニカルな批評宣言』 に出ていたと思う)。 あるいは、主張から実態がなくなっていくことだろう。 人々のしたがうべき価値の妥当性を、人々に受け入れさせる最も有効な方法は、人々または少なくともそのなかの最も善良なものが常に抱いていて、しかもこれまで適当に理解されず、また認められなかった価値と実質的に同じものであると説得することである。 『隷従への道―全体主義と自由』 従って、長期的に見れば、何が主張したいのか分からなくなる可能性が高いと思う。

スパイダーマン・ガチャポン

ガチャポン 『Marvel Figure Collection』 を回してきた。 スパイダーマンが目当て。 4回目でスパイダーマンをゲット。 他の3個も、アイアンマン、ウルヴァリン、ハルクと ダブりなく出そろって、ハッピーな感じ。 『Spider-Man Figure Collection』 のときは、スパイダーマンより先に、シークレットが出る始末だったのとは、対照的だ。 (おかげでフルコンプ出来たというか、する羽目になったというか) 出なかったのは、Silver SurferとThing(両方ともファンタスティック4のキャラクタだ)。 それから、シークレット2種。 シークレットの一つが、ブラックスパイダーマンらしいので、気になるところではある。 でもだんだんダブる確率が上がっていくので、そろそろ潮時か。 (ヤフオクで見たら、いい値段していたし)。

続々・ガラパゴス化という比喩

ガラパゴス化という比喩 、 続・ガラパゴス化という比喩 に関連した記事が、また見つかった。 米国標準が世界標準なのはしょーがねーべ - 狐の王国 Google最適化はグローバルスタンダードに繋がるか - 狐の王国 続・ガラパゴス化という比喩 で微かに触れたけれど、スタンダードには二種類ある。 一つは、オーソライズされていないが、既に広く普及しているデファクト・スタンダード。 もう一つは、ISOなどの標準化団体によってオーソライズされたスタンダード。 (デジュール・スタンダードというらしい) たとえば、Word 2003の.docファイルは、デファクト・スタンダードで、 Word 2007の.docxファイルは、デジュール・スタンダードだ。 二種類の標準は排他的ではない。 デファクト・スタンダードがデジュール・スタンダードとなることもある。 従って、組み合わせは、4種類になる。 各組合わせについて、各企業が従うかどうか戦略を選んだときに、どういう利得があるか考えてみたら、少しは話が整理されるような予感がする。

『されど罪人は竜と踊る 3~Silverdawn Goldendusk~』

『されど罪人は竜と踊る 3~Silverdawn Goldendusk~』 を買った。 新作だったからだ。 予想よりもずっと早く続きが読めるのがありがたい。 新作が出るとしても、角川から出ていた8冊が、全部リバイズされてからかと思っていた。 角川版を読んでいたため、1, 2は読んでいないが、Amazonのレビューを読むと、加筆が相当量あるようだ(特に1)。 新キャラも登場しているようなので、買おうかな。 おおよそ前向きな感情とは無縁な物語の方が、性に合う。 Positive Thinkingとか、Mind Controlかと思う時がある。 でも、ポジティブな方が適応的な社会だと認識はしている。 状況に合わせて、スイッチできるようになったらよいのに、と思う。

判断基準

『暴力はどこからきたか―人間性の起源を探る』 を読んだ。 『MBAゲーム理論』 を読んでいる。 次は、 『プロパガンダ教本』 を読むつもり。 人は、何を使って判断しているのだろうか? 本能? 理性? 感情? くらくらしてくる。 本能は漠然と思っていたよりもずっと合理的だし、かと言って、(狭義の)合理的な人間なんていない。 感情は本能に根ざすのかもしれないけれど、ずっと複雑だ(少なくともそう見える)。 そもそもこれらの境界も曖昧だ。 行動経済学は心理学を応用している。 (でも、 『「心理テスト」はウソでした。』 なんてことになるかもしれない) 最近知った、行動科学も心理学(の一分野の「応用行動分析」)に基づいているらしい。 『朝11時までメールは読むな! 「後悔しない決断」の技術』 の著者も、同書を書くにあたって、心理学を応用していたはず。 やっている人は前からやっていたことだろうな、とは思う。 (自分や知らないし、おそらくやっていないだろうが)。 ただ、結局のところ、意志がないと、何のためにしているか分からない。 あと、自分は、だらだらするのが好きなので、そんなにまでして頑張りたくない。

続・ガラパゴス化という比喩

ガラパゴス化という比喩 で書いたことに関連しそうな記事がいくつか見つかった。 なぁ、日本が独自のことをするとガラパゴスと呼んで、アメリカが独自のことをするとグローバルと言うのはやめないか? - VENTURE VIEW 勘違い化が進む池田信夫 - ひがやすを blog ガラパゴス、ガラパゴスってうざいんだけど - ひがやすを blog ガラパゴス化から脱するということは、グローバル・スタンダードに準じること、あるいはグローバル・スタンダードを作る側に回ることだ。 ODFとOOXMLとの関係に関して情報収集していたとき、標準化に関するディスカッションは、政治的な色が濃く、好きになれそうにない。 自分は、技術的に良いものが標準になれば良いと思う。 (が、標準化に関するディスカッションの焦点は技術ではないように、外からは見える) 一方で、デファクト・スタンダードに関しても標準を決める要素は、優れた設計(=デザイン)ではない。 ウェブは、いわゆる「サクセス・ディザスター」(新機能が世間に漏れ出し、デザインが固まる間もなく普及してしまうこと)の最高の例だろう。 新ネットワーク思考―世界のしくみを読み解く 結果的にスパゲティ・コードのような、複雑怪奇な仕様ができあがる。

ガラパゴス化という比喩

『ガラパゴス化』という言葉は、否定的な文脈で使われることが多い。 (外から見れば参入障壁として働いているが、それはさておき) ガラパゴス諸島は独自の生態系を築いているため保護しよう、という意見のが大勢を占めていると認識している。 一方で、ガラパゴス化した日本を保護しようという動きは全くない。 あまり気の利いた比喩ではないなあ、と感じる。

アイロンはかける前が勝負

Yシャツ3枚にアイロンをかけた。 3枚連続で繰り返していると、だんだんとコツが掴めてくる。 あらかじめ手アイロンで皺を伸ばしておく 左手(アイロンを持っていない方の手)で、アイロンの進行方向の皺を伸ばしておく アイロンで皺を伸ばすのではなくて、あらかじめ伸ばしておいた皺をアイロンでFixするというイメージ。 アウトプットの質に支配的なのは、実行段階よりも、準備段階だ。

遮光カーテン

寝室を、遮光カーテン(等級は2級)に変えた。 主な効用は、朝になっても暗いこと。 寝ぼけ眼でカーテン側を向いたら、あまりに暗くて壁かと思った。 あと、日光による室温の上昇も、小さくなった。 日光や室温上昇によって起こされることがなくなって、ずいぶん寝心地が良くなったと思う。 言い換えると、昼間も暗いので、開放感には欠ける。 寝室が寝る以外の機能を兼ねているときは、問題になるかもしれない。

有意なんて無意味

『統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀』 を読み終えた。 引用部分なので孫引きになるが、デミングによる以下の指摘が、目から鱗だった。 「実際の問題はAとB、二つの処理の違いが有意かどうかなどではない。(両者に)差異があるとすると……その差異がどんなにわずかなものであっても……実験をかなりの回数くり返せば有意となる……ことがわかるのだ」 ゆえに、デミングにとって有意差を発見することは何の意味もない。重要なのは、差異の程度を見出すことである。 確かに、疑うべくもなくその通りだ。 検定手法が同じなら、検出力(わずかな差異でも有意かどうか)は、標本サイズと、差異の程度で決まる。 直感通り、標本サイズが大きいほど、検出力が高くなる。 つまり、差異の程度が小さくても、有意であるという結果が得られるようになる。 そこまでは概念レベルで理解していたけれど、そこから「有意差を発見することは何の意味もない」という結論には全く至らなかった。 特定の統計手法を適用し、差異が有意であるという結果が出たとき、差異の程度を気にしてこなかったからだろうなぁ。 反省することしきり。

『統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀』

『統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀』 を読んでいる。 図書館で借りて読んでいるけれど、そのうち手元に置いておきたいと思う。 ふと読み返したくなりそう。 p-値や信頼区間の解釈に異才の持ち主も悩んでいたのだな、と思うと、感慨深い。 さらにベイズ統計も加わると、科学哲学の色合いが濃くなる。 しかし、統計は抽象的だが実学だというのが、自分の認識。 工業製品の品質管理における応用が有名だけれど、医学、生物学から経済学にも適用されている。

小さな部屋に大きなテレビ

将来は60型,80型,100型といった大画面テレビが個人の手にも届く価格になっていくという。 [前編]大画面テレビでコンテンツは変わる,宅内ビジネスで新市場を開拓:ITpro ナイーヴな疑問だけれど、そんな大きなテレビを自宅に置ける個人は少数派ではないか? 100型ともなると、幅2mを越える。 ディスプレイとの距離は3m以上離れることになるだろう。 (いわゆる10フィートUIの射程範囲じゃなかろうか) テレビが置いてある部屋は、誰がどのように使うのだろうか? 家族で共有するにのか(絵に描いたような家庭だ)。 個人で占有するのか(贅沢な広さだなぁ)。 価格が下がったとしても、別の条件が制約になって、普及にはつながらないんじゃなかろうか。 この発言自体がマス向けのリップサービスで、全然違う狙いがあるという可能性も、もちろんある。

『願い星、叶い星』

『願い星、叶い星』 を読み終わった。 理由は消極的。 『虎よ、虎よ!』を読みたくて、図書館で著者名をキーに検索したところ、これしか見つからなかったから。 (『ゴーレム 100 』も読みたい) それでも読んでしまう。 (活字だったら何でもいいのか!?) 本書は短編集で、計8編からなる。 中でも、『イヴのいないアダム』というタイトルが素敵だ。 逆に『アダムのいないイヴ』とすると、ではどこから現れたのか? という疑問が浮かぶ。 神学論争は好みではないので、これ以上深入りはしない。 収録策中で唯一の中編『地獄は永遠に』も、アイロニカルで良かった。 「好きな食べ物は?」と聞かれたら、「おいしいもの」と答えられたら、どう返したらいいだろう? ほとんど同語反復=トートロジーだ。 だが、記述的な説明には限界がある。

『境界線上のホライゾン I <上>』

『境界線上のホライゾン I <上>』 を読んだ。 今回も設定の量が多い。また、粒度も小さい。すなわち、密度が高い。 登場人物も多くて、まだ把握しきれていない(し、多分把握しきらないまま読み進めていく)。 だんだん明らかになっていったり、いかなかったり、読み落としたりするのだろうなぁ、と。 来月に発売される下巻 『境界線上のホライゾンI<下>』 が楽しみ。 のっけから中巻が出なくて一安心。下巻の定価が935円だが。

『D-不死者島』

『D-不死者島』 を読んだ。 二つの意味で行間が広く感じた。 文字通りの意味で。朝日ソノラマセレクションになってからだと思う。 比喩的な意味で。読む行間が広い。前々から感じていたけれど、今回は特に強く感じた。 そのせいか、何となく消化不良の印象を持った。 魅力のある登場人物が多い割に、それぞれに見せ場が足りないと感じたせいかもしれない。 重厚長大にするより、意図的にあっさり描写しようとしているのだろうな、と予想する。

数字の物語

書籍 『不思議な数πの伝記』 を読んだ。 『ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く』 と違って、 これには数式もじゃんじゃん出てくる。 導出過程を追える証明もいくらかあった。 導出過程まで理解できると、分かった気になれる。 いくつかのトピックは、牽強付会じゃないかと思った。 数字は抽象度が高いので、結びつけやすい。 意味がないところに意味を見いだしてしまう危険性が高い。 ただ、断片のままでは物語にならないから、必要なこともあるだろう。

数式を理解すること、操作すること

書籍 『ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く』 を読んだ。 折しも今日が、LHCの実験日だ。 実験結果によって、本書で紹介されている理論が、 実証されるかもしれないし、反証されるかもしれない。 いずれにしろ、実験可能だという点は、素晴らしい。 内容は半分も分からなかったと思う。 数式が使われていないし、喩えがうまいので、 知ったかぶるくらいはできそう。 しかし、数式が分からないと、操作できないからなぁ……。 ExcelやRの関数を使って、統計処理をしているとそんなことを思う。

何で読むか2

何で読むか で電子リーダについて簡単に書いた。 新しい電子リーダに関する情報を仕入れたので、雑感を。 『Kindle』より薄く魅力的、Plastic Logic社の電子書籍リーダー(動画) 薄いのは良い。しかし、電車で取り出すには、大き過ぎる。 あと、動画を見ると分かるけれど、レスポンスが悪いように思う。 タッチパネルに触れてから、一呼吸以上間が空いている。 何ページも進んだり戻ったりしようと思ったら、結構なストレスを感じるように思う。 1ページずつ進むのなら、読み終わる前にタッチパネルに触るようになるかもしれない。

何で読むか

本を読み慣れない人からのメールをいただいたのだけれど、その人は、僕の本をスキャナで撮って、パソコンの画面で読んでいるという。その人に言わせると、 「本というものは、人間が読む道具として適していない」とのこと。 【HR】 2つの試運転 この意見をラジカルだと感じるのは、自分が本を読みなれているからだろう。 これに対して、森博嗣氏も「同じように感じることがままある」ようで、 何点かその理由を挙げている。 それらの多くは、自分は気にならないものだけれど(不便さに適応してしまったのかもしれない)、最後のひとつには、完全に同意。 そして、なんといっても一番不便なのは、どこに書いてあったか探すのが面倒な点。 【HR】 2つの試運転 たとえば、引用するための面倒さが、電子テキストの比ではない。 ただ、スキャンしても、OCRを使わなければ、この問題は解決しない。 最初から電子テキストが流通すると、嬉しいのだけれど、持ち運べるリーダに素敵なものがないから、自分は本を選ぶだろう。 仮にリーダを使うとしたら、ニンテンドーDSかな、今のところ、良いかもしれないと思えるリーダは。

時間方向のフラット化

Amazonで本を買うようになって、マンガや小説を、発売直後に買う必要性が薄れてきた。 というのも、発売直後に買っていた理由が、実際の店舗で買う場合、発売直後に買わなければ、どんどん入手が難しくなることだったからだ。 Amazonではその心配はほとんどないから、時期を気にしなくなった。 検索技術は、時間方向もフラット化している。 終わるか終わらないか分からない、次にいつ出るか分からない新作を待つまでもなく、完結しているコンテンツを好きなタイミングに楽しむようになるんじゃないだろうか。 テレビも含めたメディア/コンテンツ産業が、他の産業と大きく異なる点の一つとして、「過去のストックが競合になる」という点が挙げられます。 グーグルに勝つ広告モデル 新作特有の価値は、同時代性、話題の共有、ライブ感、新技術の適用だろうか。

『No Country For Old Men』

映画 『ノーカントリー』 を観た。 シガーが、 『ダークナイト』 のハービーと重なる。 どちらも、コイン投げで相手を殺すかどうか決めている。 コイン投げに決定を委ね、選択を避けているように見える。 でも、引き金を引くのは、人間だ。 (Hellsingでそんな台詞があったな)

ギャップ

HEART STATION / 宇多田ヒカル に収録されているテイク5の終わり方があまりにも唐突だったので、Googleで調べたら、Yahoo!知恵袋で同じことを訊いている人がいた。 Third / Portishead に収録されているSilenceの終わり方も唐突だったけれど、これはこれでこういう終わり方なのだろうな、とも感じた。 このリアクションの違いは何に由来するのだろうか? Silenceは終わり方以前に、曲自体が不安感たっぷりだからか。 テイク5の方が、曲調と終わり方のギャップがより大きい。

マクロのチカラ

Office Suite(Microsoft、OOo問わず)のマクロが意外と強力だということを最近実感した。 単純だけれど、量あるいは繰り返しが多い作業を、自動化するには、便利だと思う。 もう少し、保守性が高くて、デバッグしやすくて、エディタが強力だといいんだけれど。

価値の時間による減衰

映画を観る頻度が上がり、かつ、DVDのレンタルをよく利用するようになって、思ったのだけれど、映画公開からレンタル開始までのスパンが短くなっているように思う。 忘れた頃にやってきても、思い出してもらえないからだろう。 思い出すくらいの思い入れがあるならば、映画館で観ている可能性が高いと推測する。 一方、TSUTAYA DISCASのようなサービスを利用していると、時間による観る気の減衰が、意識されにくくなってくる。 リストに登録しておけば、そのうち届くし、ウェブ上の被検索性は、古いものも新しいものも区別しない。

良いものは良いのか

カワイイと思ったものをカワイイと思って撮る。そして、上がってきた写真を見てやはりカワイイと思う。そういう疑問のまったく生じない循環のシステムがメディアの中でできている。 レイアウトの法則―アートとアフォーダンス カワイイと思ったものを、カワイイと思って撮って、カワイイ写真を撮ることも、それはそれで難しいと思う。 なんて疑問を持つ人間は、循環に入ろうとはしないだろう。 循環に入っているのは、カワイイと思ったものを、カワイイと思って撮った時点で、カワイイ写真が撮れることになっている。 そういうことになっている人なのだろう。

エクスキューズの価値

長時間働くことが、自分に対するエクスキューズになってきている。 間違っていると、ロジカルには認識していても、割り切れていない。 つまり、心情的な側面が占めるウェイトが大きい。 苦役を長時間課すことが、罰だと認識しているからだろうなぁ。 アウトプットに対する志向が、全く欠落している。

越える一線を、どこに引くのか

ダークナイト を観てきた。 マホーン捜査官が出てくるとは。 それはさておき。 2時間半という長い上映時間だったけれど、観終えるまで、緊張感が途切れなかった。 バットマンとジョーカーの関係から、仲正 昌樹の著作(確か、 「分かりやすさ」の罠 だったと思う)で読んだ二項対立の話を思い出した。 ウルトラマンは怪獣がいなければ正義の味方足り得ない、とか、対立するものどうしは、似てくる、とか。 両者を分け隔てる線は、どこにあるのか。 そしてそれは幾何学的な意味で線なのか=その線に幅はないのだろうか。

例外の受け入れ

体にフィットするソファ をネットストアで買った。 本日午前中に配送指定をしたけれど、まだ届いていない。 注文日から見たら、 最短お届け可能日 は明日なので、今日は届かないかもしれない。 それはそれで差し支えないのだけれど、届けられない日を選択できてしまうのは、インタフェースが優しくないな、と思う。 ただ、「届けられる日」と言うのは簡単だけれど、実際に届けられる日を全て抽出するのは意外と難しい。 (データベースでいうところのドメイン定義) たとえば、祝日や休日などを考慮しないといけない。 これは簡単な例だけれど、例外は後から後からポロポロ出てくるだろう。 一方で、下手にルール化すると、それはそれで利便性を損なう。 たとえば、住所の番地を半角数字で入力したら、全角での入力を促されるケースがある。 気持ちは分かるけれど、不便なものは不便だ。 追記: 11:50ごろに届いた。 届けられる日だけ表示しているのだろうか。 だとすると商品ごとに違うはずなので、結構管理に手間がかかっていそう。

リズムの裏

最近、 リズム天国ゴールド で遊んでいます。 リズムに裏・表があることを、初めて認識しました。

聞こえない爆音

CDは、アルバム(大抵奥深く仕舞い込まれている)を入れ替えないと、別の音源を聴くことができない。 MDになって、MD1枚に何枚もアルバムが入るようになった。 さらに、mp3を始めとする電子ファイルの場合、何十~何百枚ものアルバムが入るようになった。 手軽になったと同時に、聞き込まないようになったと思う。 手間が小さいゆえに、アルバムの途中で簡単に他の曲に耳移りしてしまう。 もうすぐ3年ぶりに新作を出す(そして活動を休止する)天野月子の A MOON CHILD IN THE SKY を聴きながらそんなことを思う。 聴いた覚えのない音が聞こえたから。

マンガなんか

今日、 よつばと! 8 を買いました。 あの雰囲気がよいですね。 とうちゃんが良い味出しているなぁ。 ジャンボにあっさり。。。 先日は 鋼の錬金術師 20 を買ったし、もうすぐ STEEL BALL RUN vol.16 も出るし、マンガ三昧の日々が続きそうです。 そう言えば、もう少しさかのぼると、 ブラック・ラグーン 8 と PLUTO 6 を買っていることを思い出した。

割り切れない - 素数の音楽

『素数の音楽』 を読んでいる。 調和級数が出てきたあたりで、 『ウロボロスの純正音律』 を思い出した。たったいま、芋づる式に 『フォア・フォーズの素数』 も。 『素数の音楽』は読み物としては面白い。話題が極めて広範で、掘り下げが足りないと感じる。もう少し掘り下げて=数学的に厳密に記述してあった方が、今の私にとっては好みだ(2,3年前ならこれくらいが良かっただろう)。 ただ、そんなことをしたら読者層は狭くなるだろう。

『「バラの名前」覚書』覚書

Amazon.co.jpでは 『薔薇の名前』 には上下合わせて、39件もカスタマレビューがあるのに、 『「バラの名前」覚書』 には、ただの1件もない。 それはさておき。 『覚書』の訳者は、『薔薇の名前』を ひどい親本(邦訳『薔薇の名前』) とこき下ろしている。 確かに、『覚書』で ポストモダンの態度は、非常に教養のある女性を愛していて、彼女に向かって、「ぼくは狂ったように君が好きだ」(I love you madly)とは言えない――なにしろ、この文言はすでにバーバラ・カートランドによって書かれていることを彼女が知っていること(そして、彼本人が知っていると彼女が知っていること)を本人が知っているのである――そういう男性の態度のようなものなのだ。 とあるにも関わらず、各国の既訳はおろかエコ自身による『薔薇の名前』への言及を参照しなかった『薔薇の名前』訳者の態度は、(『薔薇の名前』の読者の多くは、原本および各国訳者によって書かれていることを知らないことを差し引いたとしても)ポストモダンではない(『薔薇の名前』訳者あとがき参照)。 一方で、(『「バラの名前」覚書』訳者あとがきによると、)エコは 作品は独自の生命を有しており、ひとたび作家の手を離れれば、もう作品は作家に対して一定の距離ができる と主張しているのだから、『薔薇の名前』訳者のような解釈があり、さらにそれを読んだ読者の解釈があっても、目くじらを立てるようなことでもないような気がする。 ところで、『「 薔薇 の名前」覚書』ではなく、『「 バラ の名前」覚書』としたのはなぜだろうか? 著者名の片仮名表記をエーコではなくエコとしたのはなぜだろうか? 『覚書』が出版されたのは1994だからSEOの概念はあったとしてもマイナだっただろうけれど、 こうした表記の揺れは、被検索性を低下させる。 Googleは割と吸収してくれるようだけれど。 (この間"β分布"を検索したら、"ベータ分布"がちゃんとひっかかった)。