久しぶりに時間をかけて絵を描いた。
以前から萌え系一辺倒ではなかった(と自己認識している)が、
萌え系の絵を描くことに、楽しみを感じなくなっている。
アイコン化されていることや、大量生産大量消費の対象になっていることが、気に食わないのかもしれない。
自分は基本的にマイナ志向だ。
何てことを言っているが、目は依然としてかなり大きい。
東浩紀は、それを「絵を見る目がない」からだと言った。
高山宏なら何と言うだろうか? と言うか視覚文化論の文脈ではどう解釈されているんだろうか。
以前から萌え系一辺倒ではなかった(と自己認識している)が、
萌え系の絵を描くことに、楽しみを感じなくなっている。
アイコン化されていることや、大量生産大量消費の対象になっていることが、気に食わないのかもしれない。
自分は基本的にマイナ志向だ。
何てことを言っているが、目は依然としてかなり大きい。
東浩紀は、それを「絵を見る目がない」からだと言った。
僕は、その原因は、実はそもそもアニメ絵には「絵を見る目がない」からだと思うのです。絵を見る目がないからこそ、見られる絵のなかで、目のイメージが過激に膨らんでしまう。しかし、目が大きいのは、アニメ絵に限らない。ウルトラマンも仮面ライダーも目が大きい。
存在論的、広告的、スーパフラット的
高山宏なら何と言うだろうか? と言うか視覚文化論の文脈ではどう解釈されているんだろうか。