『統計学を拓いた異才たち―経験則から科学へ進展した一世紀』を読み終えた。
引用部分なので孫引きになるが、デミングによる以下の指摘が、目から鱗だった。
検定手法が同じなら、検出力(わずかな差異でも有意かどうか)は、標本サイズと、差異の程度で決まる。
直感通り、標本サイズが大きいほど、検出力が高くなる。
つまり、差異の程度が小さくても、有意であるという結果が得られるようになる。
そこまでは概念レベルで理解していたけれど、そこから「有意差を発見することは何の意味もない」という結論には全く至らなかった。
特定の統計手法を適用し、差異が有意であるという結果が出たとき、差異の程度を気にしてこなかったからだろうなぁ。
反省することしきり。
引用部分なので孫引きになるが、デミングによる以下の指摘が、目から鱗だった。
「実際の問題はAとB、二つの処理の違いが有意かどうかなどではない。(両者に)差異があるとすると……その差異がどんなにわずかなものであっても……実験をかなりの回数くり返せば有意となる……ことがわかるのだ」確かに、疑うべくもなくその通りだ。
ゆえに、デミングにとって有意差を発見することは何の意味もない。重要なのは、差異の程度を見出すことである。
検定手法が同じなら、検出力(わずかな差異でも有意かどうか)は、標本サイズと、差異の程度で決まる。
直感通り、標本サイズが大きいほど、検出力が高くなる。
つまり、差異の程度が小さくても、有意であるという結果が得られるようになる。
そこまでは概念レベルで理解していたけれど、そこから「有意差を発見することは何の意味もない」という結論には全く至らなかった。
特定の統計手法を適用し、差異が有意であるという結果が出たとき、差異の程度を気にしてこなかったからだろうなぁ。
反省することしきり。