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目をそらした先の空目

山積みの矢を待つ身に引き続き、『文明崩壊 滅亡と存続の命運を分けるもの (下)』の感想をもう少し。

前回のエントリーでは「とりわけ深刻な"十二の環境問題"」についての感想を書いた。今回は、過去に崩壊した文明がこれらの問題の解決に失敗した原因について、感想を書く。

著者は、その原因を、集団の意思決定の観点から、大きく次の4つに整理している。
  • 問題の予期の失敗
  • 問題の感知の失敗
  • 問題の解決に試みることの失敗
  • 問題の解決の失敗

問題の予期の失敗は、次の2つによって発生する。
  • 過去に経験のない問題
  • 誤った推論

問題の感知の失敗は、次の3つによって失敗する。
  • そもそも感知できない
  • 管理者が遠く離れている
  • 振動の大ききな上下動に、緩やかな傾向が隠れてしまっている

問題の解決に試みることの失敗は、次の4つによって発生する。
  • 合理的かつ非道徳的な行動
  • 環境破壊に結びつく価値観
  • 非合理的行動が生み出す失敗

問題の解決の失敗は、ケースバイケースだ。解決しようとしている問題による。

自分の関心は、3つ目の「問題の解決に試みることの失敗」に向いている。ここに含まれているのは、ゲーム理論だったり認知バイアスだったり行動経済学だったりミクロ経済学だったりする。特に自分もしばしばそういう選択をするのに、不思議だなと思うのが、「心理的な拒絶」。

「個人的心理学で正確に定義された意味を持つ専門用語」とあるけれど、少し検索しても見つからないので、自分なりの理解を簡単に説明する。分かりやすいのは、「起こってはならない問題」という表現だと思う。「起きない問題」でも「起こさないようにしている問題」でもない。心のどこかでは起こる可能性があることを知っていながら、直面を避け対策を怠っている問題、と言い換えられると思う。

結果的に酷いことになることが多いのに、目を逸らし続けられるこの力は、どこから湧いてくるんだろう。

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