スキップしてメイン コンテンツに移動

何に乗るジョニー

『フリーライダー あなたの隣のただのり社員』を読んだ。

ダイヤモンド・オンラインのタダ乗り問題の本質は、個人ではなく組織にあり! フリーライダーを罰するよりも「出さない仕掛け」をが面白かったのが手に取ったキッカケ。

本書が問題にしていうフリーライダーは、ただのりしていることに加え、(次の3条件を満たす意味で)意図的かつ一定期間以上継続している人だけを指す。
  1. その人は(その条件が満たされていれば)どんな状況でもその行動を取る(一貫性)
  2. その人はその条件が満たされないときにはその行動を取らない(弁別性)
  3. その条件下で、他の人々はしていないのにその人だけがその行動を取る(合憲性)
ただのりの動機が「自己損失回避」が動機の、「腐ったリンゴ効果」で腐ってしまった人は問題にしていない。問題としているフリーライダーがいなくなれば、自然といなくなる。

さらにフリーライダーを「サボり系⇔略奪系」と「実務的負担系⇔精神的負担系」の二軸で下記4種類に分類している。
  1. アガリ型
  2. 成果・アイディア泥棒型
  3. クラッシャー型
  4. 暗黒フォース型
これらのフリーライダーに対するアプローチは、次の一節に要約される。
これに対し意図的なフリーライダーは、ただのりすることが得である限り、ただのりし続けます。したがって、意図的フリーライダーの行動を変えるには「ただのりすることが決して得にならない」状況をつくり、それをフリーライダー自身に理解してもらわなくてはなりません。
従って、連載のタイトルにある通り、ある意味でフリーライダー自身を扱っていない。扱っているのは、それが有利な状況だ。フリーライダー問題を本人のメンタルに帰着させる(本書も研究成果を引いている山岸敏夫の言葉を借りれば)心でっかちなアプローチとは対照的。

従って、本書が紹介するアプローチは、人事評価など組織的なものが主だ。個人ができることとしては、周囲のフリーライダーへの対策ではなく、自分がフリーライダーにならないための対策を紹介している。

読む前は、こういうメンタルになってはいけない、と声高に危機感を煽る内容だったら嫌だな、と思っていた。けれど全くの杞憂だった。

それどころか、罰が脳にとって報償であることを示す事件を紹介し、フリーライダーへの罰が過剰になりがちだと警告したり、自分はフリーライダーではないと思っていても別の集団ではただのりしているかもしれない、と述べたりバランスを取ろうとしている。

冒頭に挙げた連載よりずっと面白かった。読んで良かった、と思う。最後に参考までに、関連エントリィとして山岸俊男の著作を読んだ感想のリンクを挙げる。

このブログの人気の投稿

北へ - ゴールデンカムイ 16

『ゴールデンカムイ 15』、『〃 16』を読んだ。16巻を読み始めてから、15巻を買ったものの読んでいなかったことに気がつく。Kindle版の予約注文ではままあること。 15巻は「スチェンカ・ナ・スチェンク」、「バーニャ(ロシア式蒸し風呂)」と男臭いことこのうえなし。軽くWebで調べてみたところ、スチェンカ・ナ・スチェンク (Стенка на стенку) はロシアの祭事マースレニツァで行われる行事のようだ[1]。それなりになじみ深いものらしく、この行事をタイトルに据えたフォークメタルStenka Na StenkuのMVが見つかった。 16巻では杉元一行は巡業中のサーカスに参加することになる。杉元と鯉登の維持の張り合いが、見ていて微笑ましい。鯉登は目的を見失っているようだが、杉元もスチェンカで我を失っていたので、どっこいどっこいか。なお、サーカス/大道芸を通じた日露のつながりは、実際にもこのような形だったようだ[2]。 個々のエピソードから視線を上げて、全体の構図を眺めてみると、各勢力がすっかり入り乱れている。アシㇼパは尾形、キロランケ、白石とともにアチャの足跡を辿り、そのあとを鶴見のもとで家永の治療を受けた杉元が鯉登、月島を追っている。今更だけれど、杉元やアシㇼパは、第七師団と完全に利害が衝突していると考えていないはずだった。一方で、土方一味も入墨人皮を継続。むしろ彼らの方が第七師団との対立が深刻だろう。さらに北上するキロランケはまた別の目的で動いているようだけれど、なんで尾形も一緒なんだっけ? 『進撃の巨人』に引き続き、これもそろそろ読み返す時期か。 [1] 5つの暴力的な伝統:スラヴ戦士のようにマースレニツァを祝おう - ロシア・ビヨンド [2] ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」 | ハフポスト

戦う泡沫 - 終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか? #06, #07

『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06, #07を読んだ。 『終末なにしてますか? もう一度だけ、会えますか?』の#06と#07を読んだ。#06でフェオドールの物語がひとまずは決着して、#07から第二部開始といったところ。 これまでの彼の戦いが通過点のように見えてしまったのがちょっと悲しい。もしも#07がシリーズ3作目の#01になっていたら、もう少し違って見えたかもしれない。物語の外にある枠組みが与える影響は、決して小さくない。 一方で純粋に物語に抱く感情なんてあるんだろうか? とも思う。浮かび上がる感情には周辺情報が引き起こす雑念が内包されていて、やがて損なわれてしまうことになっているのかもしれない。黄金妖精 (レプラカーン) の人格が前世のそれに侵食されていくように。

リアル・シリアル・ソシアル - アイム・ノット・シリアルキラー

『アイム・ノット・シリアルキラー』(原題 "I Am Not a Serial Killer")を見た。 いい意味で期待を裏切ってくれて、悪くなかった。最初はちょっと反応に困るったけれど、それも含めて嫌いじゃない。傑作・良作の類いではないだろうけれど、主人公ジョンに味がある。 この期待の裏切り方に腹を立てる人もいるだろう。でも、万人受けするつもりがない作品が出てくるのって、豊かでいいよね(受け付けないときは本当に受け付けないけれど)。何が出てくるかわからない楽しみがある。