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開示の快事

『安心社会から信頼社会へ』を読んだ。『「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門』(感想) が面白かったけれど、こちらの方が好み。分かりやすい例は減っているけれど、密度の高い議論それを補って余りある。

本書で扱う「信頼」は、「相手の意図に関して、不確実性があるけれど、何らかの行動を期待すること」だ。ここには、能力に関する期待や、不確実性がないときの期待は含まれない。信頼社会では、相手の意図を推し量ることが重要になる。

一方、「安心」を「不確実性がない(無視できるほど小さい)状態」としている。この意味での安心社会の典型例は、いわゆるムラ社会。利害を共有していて、裏切りが相手の損失にもなる集団だから、裏切りのインセンティブがない。安心社会では、相手が時分と同じ集団に属しているかどうかを推し量ることが重要になる。

信頼と安心は、概ね「罪と文化」と「恥の文化」に対応している。面白いのは、後者が恥ずかしいと思う相手がいない場合にタガが外れがちな点。集団内では協調的だけれど、集団外とは非協調的になる。

これらはどちらが優れているというわけではない。環境によってどちらが向いているかが異なるだけ。だから、ある社会を目指すなら、それが向いている環境を作れば自然にそうなる。これは『文明崩壊』(上巻感想下巻感想 1下巻感想 2) と同じ主張だ。『文明崩壊』では、企業に環境を守って欲しければ、環境を守る企業が生き残る市場を作ればよいと言っている。

筆者は、安心社会に閉じこもっていることは不可能になりつつあるので、信頼社会を目指す方が良いとし、その手段の一例として情報開示を挙げている。でも、それが開示側のインセンティブになっていないことも指摘している。「失敗を隠したい」、「責任の所在を曖昧にしたい」という誘惑は誰にでもある。だとすれば、もうワンステップ必要だ。情報開示した方が有利な環境を作らないと、進めない。

それは、失敗の内容や責任の所在を明らかにしても、個人攻撃されない環境であり、隠していて後から明らかになると、最初から明らかにしていたより、ずっと不利になる環境だと思う。

そう考えると、ミスをみつけては鬼の首を取ったように勝ち誇り、ミスを犯した人を槍玉に挙げることが、いかに自分たちの首を絞めているか。

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