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楕円の縁

『デザインの骨格』を読んだ。

本書はブログ『山中俊治の「デザインの骨格」』を書籍にしたもので、次の10章からなる。
  • 第1章:アップルのデザインを解剖する
  • 第2章:デザインを科学する
  • 第3章:コンセプトを形にする
  • 第4章:スケッチから始める
  • 第5章:モノ作りの現場から考える
  • 第6章:人と出会う
  • 第7章:骨を知る
  • 第8章:人体の秘密を探る
  • 第9章:漫画を描く、漫画を読む
自分が面白いと思ったのは、第4章 (山中俊治の「デザインの骨格」 » Sketchesに相当)。

次の一節の「中心軸のような仮想の線」は、顔を描くときには必ず引く。たとえば、見返りミカエルにアップした絵に残っている。こういう仮想の線を引くか引かないかで、安定感が全然変わる。
絵を描くことは、ものの輪郭を描く事ではない。重要なのは向こう側にあって見えていないものや、中心軸のような仮想の線を描く事。そうやって立体や空間の構造を把握したときに迷いなく輪郭を決定することができる。
中心軸なしで輪郭を辿ろうとすると、自分の場合、どんどん歪みが蓄積していく。

これも面白い。見慣れたものでも描いて初めてわかってくることは、とても多い。描こうとするときの観察は、他のどんなときの観察よりも事細かだと思う。
絵を描く訓練はわかっているものをあえて捉え直す作業です。
ところで、写真は『楕円』に書いてあった楕円の描き方を実行してみたもの。面白い。著者はこれをスケッチのウォーミングアップとして描いているらしい。自分のウォーミングアップは網掛けなので、周りに描いてみた。

手で描かなくても、ソフトウェアなり定規なりスクリーントーン使えばいいじゃないかと思うかもしれない。でも、正確に描いてあることと、自然に見えることは違う。錯視が働くからだ。

たとえば、一部が隠れた棒状の物を描く場合、「ポゲンドルフ錯視 (Wikipediaの該当記事)」があるから、まっすぐ描くとずれて見える。そういうわけで、最後には目を頼りにしている。少なくとも、自分の目には自然に見える線を引ければ良いと思う。

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