『「しがらみ」を科学する: 高校生からの社会心理学入門』を読んだ。
副題には「高校生からの」とあるけれど、いつ読んでも面白いと思う。少なくとも自分は面白かった。著者もあとがきでこのように書いている。
中心となるテーマは、「心でっかち」な考え方への疑いだ。「心でっかち」な考え方とは、何でも心で解決しようとする姿勢のこと。極端な例を挙げると精神論。ワイドショーの犯罪の原因を犯罪者の心の闇に求める姿勢もそう。それから、『天才! 成功する人々の法則』が指摘している、成功を個人の才能で理解しようとする姿勢もこれだと思う。
これを著者は「エミックな理解」としている。これは、直感的で多くの人に納得と安心をもたらしている。しかし、これが「現実を見る目を微妙に曇らせてしまう」とも言っていて、それはその通りだと思う。『錯覚の科学』でいう「知識の錯覚(見慣れたもの、使い慣れているものは、深く理解していると誤解する)」と、理解していると思っている事象のリスクを過小評価する認知バイアスとが重なって、問題をひどく過小に捉えているはずだ。
「エミックな理解」に対して、「エティックな説明」がある。厳密には違うらしいけれど、本書の中では科学的な説明というような意味で使っている。じゃあ科学的ってどういうこと? という疑問が湧くけれど、主題ではないため特に説明されていない。自分の理解をざっくばらんに言うと、再現性・整合性・検証可能性があれば「科学的」だと思う。最近読んだ本では、『科学的とはどういう意味か』や『もうダマされないための「科学」講義』が詳しい。
どちらが優れているというわけではないけれど、「エミックな理解」が今の日本の社会では支配的なように見える。よく耳にするコミュケーション力は、「エミックな理解」に立脚している。
だけど、実際にそうだろうか? 本書第5章で、著者の研究グループが日本人の「協調性」について調べた結果は、そうではない可能性を示している。端的に書くと、「理想的には独立的な生き方をしたいけれど、周りが協調的な生き方をしているから、自分も協調的な生き方をしている」という結果だった。
先日読んだ『人はなぜ学歴にこだわるのか。』でも同じ構造があった。学歴の場合、「学歴にこだわりたくないけれど、周りがこだわっているから、自分も学歴を得ようとする」ことになる。みんながそう振る舞えば、みんなの願いはどうあれ、学歴社会ができあがる。本書でいうところの、「予言の自己実現」だ。
著者はこの行動をインセンティブで説明している。周りがこだわっている(学歴が高いと扱いがよくなる)と、個人のこだわりとは別に学歴を得ようとする行動を取ってしまう。『超ヤバい経済学』では、このようなケースを「表明選好 (どうしたいという気持ちの上での選択)」と「顕示選好 (実際に取る行動としての選択)」のとして紹介していた。そう言えば、自分も「学歴にこだわりがない」とは書いたけれど、受験勉強はしていた。
では、周りが「エミックな理解」を重視するようになったのは、どうしてだろうか? 周りも自分と同じで、周りが「エミックな理解」を重視しているから「エミックな理解」を重視しているとしたら、何がキッカケだったのだろう? と思う。本書では、いじめを止められたクラスと、止められなかったクラスを例に挙げて、初期状態の違いで説明している。そこで、初期状態の違いで異なる結果になるのは理解できた。たとえば、ライフゲームでモデル化できそうに思う。『服従の心理』でも、権威に逆らう少数の個人が現れれば、多くが同調することが示されていた。でも、最初に声が上がるかどうかについては言及していない。
しばらく考えてみたけれど、心に帰ってきてしまう。『自由をつくる自在に生きる』では、自分の思い込みが、自分を不自由にしている最大の敵だと書いている。自分もそうだと思うようにしている。「周りがこだわっている」のも自分の思い込みかもしれない。
確かに、他人の行動をその人の心で説明するのは「心でっかち」だと思う。あることないこと言えるし、検証もできない。ただ、自分の行動は自分で決めたい。決められると思っていたい。
副題には「高校生からの」とあるけれど、いつ読んでも面白いと思う。少なくとも自分は面白かった。著者もあとがきでこのように書いている。
そういったことを、若い人たちだけではなく、大人の人たちにも考えてもらいたくて、この本を書きました。いずれにせよ、入門だから広く浅く分かりやすく書かれていると思う。読みやすい。
中心となるテーマは、「心でっかち」な考え方への疑いだ。「心でっかち」な考え方とは、何でも心で解決しようとする姿勢のこと。極端な例を挙げると精神論。ワイドショーの犯罪の原因を犯罪者の心の闇に求める姿勢もそう。それから、『天才! 成功する人々の法則』が指摘している、成功を個人の才能で理解しようとする姿勢もこれだと思う。
これを著者は「エミックな理解」としている。これは、直感的で多くの人に納得と安心をもたらしている。しかし、これが「現実を見る目を微妙に曇らせてしまう」とも言っていて、それはその通りだと思う。『錯覚の科学』でいう「知識の錯覚(見慣れたもの、使い慣れているものは、深く理解していると誤解する)」と、理解していると思っている事象のリスクを過小評価する認知バイアスとが重なって、問題をひどく過小に捉えているはずだ。
「エミックな理解」に対して、「エティックな説明」がある。厳密には違うらしいけれど、本書の中では科学的な説明というような意味で使っている。じゃあ科学的ってどういうこと? という疑問が湧くけれど、主題ではないため特に説明されていない。自分の理解をざっくばらんに言うと、再現性・整合性・検証可能性があれば「科学的」だと思う。最近読んだ本では、『科学的とはどういう意味か』や『もうダマされないための「科学」講義』が詳しい。
どちらが優れているというわけではないけれど、「エミックな理解」が今の日本の社会では支配的なように見える。よく耳にするコミュケーション力は、「エミックな理解」に立脚している。
だけど、実際にそうだろうか? 本書第5章で、著者の研究グループが日本人の「協調性」について調べた結果は、そうではない可能性を示している。端的に書くと、「理想的には独立的な生き方をしたいけれど、周りが協調的な生き方をしているから、自分も協調的な生き方をしている」という結果だった。
先日読んだ『人はなぜ学歴にこだわるのか。』でも同じ構造があった。学歴の場合、「学歴にこだわりたくないけれど、周りがこだわっているから、自分も学歴を得ようとする」ことになる。みんながそう振る舞えば、みんなの願いはどうあれ、学歴社会ができあがる。本書でいうところの、「予言の自己実現」だ。
著者はこの行動をインセンティブで説明している。周りがこだわっている(学歴が高いと扱いがよくなる)と、個人のこだわりとは別に学歴を得ようとする行動を取ってしまう。『超ヤバい経済学』では、このようなケースを「表明選好 (どうしたいという気持ちの上での選択)」と「顕示選好 (実際に取る行動としての選択)」のとして紹介していた。そう言えば、自分も「学歴にこだわりがない」とは書いたけれど、受験勉強はしていた。
では、周りが「エミックな理解」を重視するようになったのは、どうしてだろうか? 周りも自分と同じで、周りが「エミックな理解」を重視しているから「エミックな理解」を重視しているとしたら、何がキッカケだったのだろう? と思う。本書では、いじめを止められたクラスと、止められなかったクラスを例に挙げて、初期状態の違いで説明している。そこで、初期状態の違いで異なる結果になるのは理解できた。たとえば、ライフゲームでモデル化できそうに思う。『服従の心理』でも、権威に逆らう少数の個人が現れれば、多くが同調することが示されていた。でも、最初に声が上がるかどうかについては言及していない。
しばらく考えてみたけれど、心に帰ってきてしまう。『自由をつくる自在に生きる』では、自分の思い込みが、自分を不自由にしている最大の敵だと書いている。自分もそうだと思うようにしている。「周りがこだわっている」のも自分の思い込みかもしれない。
確かに、他人の行動をその人の心で説明するのは「心でっかち」だと思う。あることないこと言えるし、検証もできない。ただ、自分の行動は自分で決めたい。決められると思っていたい。