『なぜ世界は存在しないのか』を読んだ。
刺激的だった。いろいろと思考を促される。タイトルだけでなく本文もしばしば挑発的で、別の意味でも刺激的。こちらの刺激は避けたいので斜め読み。ちなみにタイトルは原題 "Warum Es Die Welt Nicht Gibt" (独) の直訳 (Google翻訳調べ)。邦訳の際にこうなったわけではないみたい。
タイトルに付された疑問に対する答えは、おそらく本書のメインテーマではない。それは「〈世界〉が存在しないなら、何がどう存在しているのか?」についてだと思う。
でも引っかかりをなくすため、まず世界が存在しない理由を粗い理解なりに粗く説明する。一言で表すと、背景がないと何も認識できないから。
ここで存在しないとしている〈世界〉は「唯一絶対の真の世界」みたいなニュアンス。宗教はそんな〈世界〉とは縁遠いよ、とか、科学の非対象もちゃんと存在しているよ、みたいな話がされる(もっと強い言葉が使われているけれど。特に科学への当たりが強いのは、ニセ科学の広がりに危機を覚えているからか?)。
それで結論としては、
空想上の生き物も〈存在〉するという話に抵抗を覚えないではなかったけれど、たとえば河童なんか「河童の川流れ」のように比喩として通用するくらいの共通認識が日本語話者にはあるので、それを〈存在〉というならそれでもいいかと思うくらい。こう思い直すと『河童に選挙権を!』に通じるものがある。
ここまでの説明だと、〈意味の場〉を広げ続けると〈世界〉になるのでは? と思わそうなので、もう少し補足。〈意味の場〉は関連したりしなかったりしながら、無限に存在するとのこと。日常的な言葉では、認識できないけれど世界は存在するでいいんじゃないか、という気もする。「小世界は存在する」みたいな表現あったし。本書が定義する〈存在〉には〈意味の場〉が必要だからダメだけれど。
思うに、存在するもの・ことすべての、すべての〈意味の場〉における現れ方を1人の人間が認識することはできないだろうし、それどころか2つの〈意味の場〉を同時に認識することさえ覚束ないだろう。ウサギとアヒルを同時には認識できない。しかし、移動することはできる。『勉強の哲学』でいう〈ノリ〉みたいなイメージだろうか。
最近の読書にからめると、『本棚の歴史』を読んで、本棚を改めて認識したのがおもしろい体験だった。本に意識を取られていて、本棚が意識にあがることなんてメッタになかったのに、『本棚の本』を眺め始める始末。
物足りないのは、複数の意味の場の比較の話。いくつかの例示を除き、触れられていない。もう少し掘り下げて欲しかった。これではなんとなく『正義のアイデア』の考え方とかアローの定理はじめ集団的意思決定の話ををヒントに実用的な考えを進められそうそうな予感はするのだけれど。そんな極端なものどうしを比べる必要はないとか、最優を決める必要はないとか。
実際、宇宙のどこに本棚を置けば最善かみたいなナンセンスな悩みを抱えていたり、自転車置き場の色の議論を白熱させていたりするわけで。
以下、自分の読書履歴内での関連付けメモ。
「VI 芸術の意味」で、マレーヴィチという画家の『黒の正方形』という作品が言及される。『図像の哲学』でも取り上げられていた。『図像の哲学』の著者は「ガダマーの薫陶を受けた」と紹介されているのだけれど、本書もそのガダマーの言葉も肯定的に引用している。
読み終えてからMirror House Annex: think philosophically - いま世界の哲学者が考えていることで本のさわりだけ紹介されているに気がついた。ここではポストモダンの特徴でのひとつ〈言語構築主義〉(言語によって世界が構築されるとする考え方)の象徴として紹介されているデリダの言葉が、「「ポストモダン」以降の時代を特徴付ける」〈新しい実在論〉を基本思想とする本書では、こんな風に紹介されている。
刺激的だった。いろいろと思考を促される。タイトルだけでなく本文もしばしば挑発的で、別の意味でも刺激的。こちらの刺激は避けたいので斜め読み。ちなみにタイトルは原題 "Warum Es Die Welt Nicht Gibt" (独) の直訳 (Google翻訳調べ)。邦訳の際にこうなったわけではないみたい。
タイトルに付された疑問に対する答えは、おそらく本書のメインテーマではない。それは「〈世界〉が存在しないなら、何がどう存在しているのか?」についてだと思う。
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でも引っかかりをなくすため、まず世界が存在しない理由を粗い理解なりに粗く説明する。一言で表すと、背景がないと何も認識できないから。
何かを設計するときには、常にもうひとまわり大きなコンテキストの中で考えること。椅子ならば部屋の中にあることを考える。部屋なら家の中、家なら環境の中、環境なら都市計画の中。という建築家の言葉を連想する。背景をどんどん広げていくと、やがて〈世界〉に辿り着く。〈世界〉には背景がない。だから認識できず存在もしない、という話らしい。
エリエル・サーリネン
ここで存在しないとしている〈世界〉は「唯一絶対の真の世界」みたいなニュアンス。宗教はそんな〈世界〉とは縁遠いよ、とか、科学の非対象もちゃんと存在しているよ、みたいな話がされる(もっと強い言葉が使われているけれど。特に科学への当たりが強いのは、ニセ科学の広がりに危機を覚えているからか?)。
それで結論としては、
- もの・こと(本文中ではさらに一般化して〈現象〉)はちゃんと存在している。認識されなければ存在しないなんてことはない。
- ただし、その存在の現れ方は文脈(〈意味の場〉)によって、さまざまである。
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空想上の生き物も〈存在〉するという話に抵抗を覚えないではなかったけれど、たとえば河童なんか「河童の川流れ」のように比喩として通用するくらいの共通認識が日本語話者にはあるので、それを〈存在〉というならそれでもいいかと思うくらい。こう思い直すと『河童に選挙権を!』に通じるものがある。
ここまでの説明だと、〈意味の場〉を広げ続けると〈世界〉になるのでは? と思わそうなので、もう少し補足。〈意味の場〉は関連したりしなかったりしながら、無限に存在するとのこと。日常的な言葉では、認識できないけれど世界は存在するでいいんじゃないか、という気もする。「小世界は存在する」みたいな表現あったし。本書が定義する〈存在〉には〈意味の場〉が必要だからダメだけれど。
思うに、存在するもの・ことすべての、すべての〈意味の場〉における現れ方を1人の人間が認識することはできないだろうし、それどころか2つの〈意味の場〉を同時に認識することさえ覚束ないだろう。ウサギとアヒルを同時には認識できない。しかし、移動することはできる。『勉強の哲学』でいう〈ノリ〉みたいなイメージだろうか。
最近の読書にからめると、『本棚の歴史』を読んで、本棚を改めて認識したのがおもしろい体験だった。本に意識を取られていて、本棚が意識にあがることなんてメッタになかったのに、『本棚の本』を眺め始める始末。
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物足りないのは、複数の意味の場の比較の話。いくつかの例示を除き、触れられていない。もう少し掘り下げて欲しかった。これではなんとなく『正義のアイデア』の考え方とかアローの定理はじめ集団的意思決定の話ををヒントに実用的な考えを進められそうそうな予感はするのだけれど。そんな極端なものどうしを比べる必要はないとか、最優を決める必要はないとか。
実際、宇宙のどこに本棚を置けば最善かみたいなナンセンスな悩みを抱えていたり、自転車置き場の色の議論を白熱させていたりするわけで。
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以下、自分の読書履歴内での関連付けメモ。
「VI 芸術の意味」で、マレーヴィチという画家の『黒の正方形』という作品が言及される。『図像の哲学』でも取り上げられていた。『図像の哲学』の著者は「ガダマーの薫陶を受けた」と紹介されているのだけれど、本書もそのガダマーの言葉も肯定的に引用している。
読み終えてからMirror House Annex: think philosophically - いま世界の哲学者が考えていることで本のさわりだけ紹介されているに気がついた。ここではポストモダンの特徴でのひとつ〈言語構築主義〉(言語によって世界が構築されるとする考え方)の象徴として紹介されているデリダの言葉が、「「ポストモダン」以降の時代を特徴付ける」〈新しい実在論〉を基本思想とする本書では、こんな風に紹介されている。
どんな状況に依存せずにサイのことを考えるなどということは、わたしたちにはできません。まさにこのことを、フランスの哲学者ジャック・デリダは、多くの人に誤解されている(おそらく意図的に誤解の余地を残してある)次のようなスローガンでい表していました。「テクストの外部など存在しない」と。(中略)もちろんデリダが言いたいのは、本当のところサイトはテクストであるなどということではなくて、ただ、サイであれ、ほかの何であれ、コンテクストのそとに存在するのではないということでしょう。