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人と本と棚と - 本棚の歴史

『本棚の歴史』を読んだ。最後に著者紹介を読んで知ったのだけれど、著者は『フォークの歯はなぜ四本になったか』と同じ方。

主題は「本」ではなくて「本棚」。この主題が好奇心をくすぐる。本好きのごく身近にあるのに、めったに意識しない存在。そのものに向き合うのは、空っぽのを品定めするときくらい。言われてみれば、生い立ちについて考えたことがなかった。

とは言っても、両者の関わりは深いので、本棚の歴史と並行して本のも語られる。本と本棚に限らず、中身の形や量とともに容れ物の形は変わるので、分かちがたく結びついている。

本の歴史を振り返ったとき、本棚に大きく影響した変化は2つ。まず、巻物から綴じ本への形の変化。それから、筆記から印刷への移行が生んだ流通量の変化。

それからもう1つ。大きく影響した変化があった。それは室内照明の普及。これで本を読める明るさが、日当たりに左右されずに得られるようになった。

読者の視点でこれらの変化を重ねて眺めると、修道院などの窓際に備え付けられた書見台に鎖留めにされている貴重な本を日中にしか読めなかったのが、自分の本棚に並べた本を読みたい時に好きな場所で読めるようになった、ということになる。本好きだからありがたいと思うし、こんな環境がなかったから本好きになれなかっただろうとも思う。

乱暴にまとめてしまったけれど、もちろん本書が描く歴史はこんな単線的ではない。紆余曲折も派生もある。今の形の本棚に、本がこちらに「背」を向けて「縦」置きに配列されるに至るまで、本と本棚とは追いかけ合うように変化し続けてきた。そもそも最初は棚でさえなかった。ひとつ挙げようかと思ったけれど、そうしたら最後あれもこれもとなってしまうので自重する。

言い換えるなら、本棚の歴史は、溢れる本との苦闘の歴史だったとも思う。その歴史は今も続いている。本書でも触れられているが、大きな変化――本の電子化が進みつつある。これはこれで、アーカイヴ性に不安がある(たとえばAmazonがサービス終了したら、Kindleでのみ出版されていた本はどうなってしまうのだろう?)。

最後に余談というか独り言というか。孫引きみたいになってしまうけれど、
図書館の通例によると本棚の八四%が埋まると既存の本棚配列に新しい本を入れ込むのが難しくなる
そうだ。体感的にもそんな感じ。図書館より低頻度・少量だからもう少し埋めても大丈夫そうだけれど、次の3種類のスペースにはよく悩まされる。
  • 比較的短いスパンで定期的に増えていくシリーズもの(特に〈境界線上のホライゾン〉シリーズ)
  • 入れられる棚が限られている大型本
  • ときどきやってきては去っていく図書館の本
とくに最後のはしばらく借りなかった時期に埋めてしまったことがあって、そのときは置き場に難儀した。借り物だからぞんざいに扱うわけにもいかないし。

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