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浮かばない泡 - ブギーポップ・ビューティフル パニックキュート帝王学

『ブギーポップ・ビューティフル パニックキュート帝王学』を読んだ。

主な登場人物は末真和子。それから、カレイドスコープやオキシジェ帝王=エンペラーと言えば、『螺旋のエンペロイダー』を連想するけれど、〈エンペロイダー〉というキーワードが出てくるくらい。才牙兄妹が登場したりはしない。ンのセリフが多いのも珍しい気がする。


『螺旋のエンペロイダー』ほど明確ではないにしろ、帝王あるいは王の話題はたびたび出てきているように思う。本書には末真和子を評するこんなセリフがあるけれど、王と民衆について『殺竜事件』でも似たような話があった。

「なあ末真博士――君は他人のことをわからないというが、しかしその他人の方は君のことをまったくわかろうとしないだろう? 割合で言ったら、君の方があきらかに、彼らのことを理解していて、そしてかなりの確率で、彼らは君が把握しているよりも、彼ら自身のことを知らないんだ。(以下略)」
言われてみればそんな気がしつつも、「自分のことは自分が一番よくわかっている」と思うことも、「自分を客観的に理解できると考えられない」とか「○○(自分以外のだれか)のことは自分が一番よくわかっている」とも思っていたりもするわけで、言葉遊びの感がなくもない。

自分の内面は自分にしか知る由がないのだけれど、同時に自分が他人からどう思われているかを知る由もないわけで、そこは本人の言動や周りの評判から推し量るしかない。まあ、そのあたりは、AからBはXに見えているけれど、Bの言動からはB自身はYと思われたいとAには見て取れるので、ほどほどに合わせたりとかする(逆も同様)のがお互いのためだろう。

自己一貫性があると信じられる。少なくとも四六時中自己矛盾に悩むことがない。それくらいは安定していないと、心が千々に乱れたままになってしまう。


『殺竜事件』では自分と他人ではなくて、王と民衆という形で、支配者が被支配者を知っているほどには、被支配者は支配者を知らないみたいな話だったと記憶している。これは王に限らない気もする。民主主義でも、選挙対策はどんどん高度化している=投票者は細かく分析されているけれど、投票者は立候補者の情報を知らされるばかりで自分が何を知ればよいのかさえ考えたり考えなかったりだよなあ、と。ああ、でも直接民主性だとまたちょっと違うか。


さらに話はずれるけれど、自分の場合、嫌いもの・苦手なものに対して似たような状態に陥ることがある。対処するためにいろいろ調べたり工夫したり練習したりするのだけれど、それでもやっぱりなんかダメで別に向こうからは歩み寄ってくれたりはしない。そんな状態に。「敵を知れば百戦危うからず」という格言はあるけれど、遠ざけたい対象を冷静に把握するのはなかなかに難しい。途中から目的を見失って躍起になってやっつけようとして、見事に敗北を喫し(た気分に勝手に陥り)ますます距離を置きたくなったり。


じゃあ、ブギーポップは何を知って〈世界の敵〉として認定して殺しているのか、なぜこういう風に自動化されているのか、という疑問も。答えはない。思い浮かばない。

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