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そろそろそぞろ - ウォークス 歩くことの精神史

『ウォークス 歩くことの精神史』を読んだ。昨年11月にタマフルで紹介されていたのがキッカケ[1]。たまにあてどなく散策したりするので、歩くことについて改めて考えてみるのもおもしろそうだと思って、手に取ってみた。

おもしろいところもあったけれど、ちょっと散漫な印象。字面を追うだけになることもあった。原題 "Wanderlust: A History of Walking" の "Wanderlust" が「放浪癖」という意味なので、意図的かもしれない。

著者による田舎歩きのモチーフへの次の指摘は、本書にも部分的にも当てはまっているように思う。感傷や自伝的なお喋りが少なからず入り込んでいる。
文芸における田舎歩きのモチーフが陳腐さや感傷や自伝的なお喋りに嵌まり込んでしまう一方、ロングの芸術は素っ気なく、ほとんど沈黙している。
引用元:『ウォークス 歩くことの精神史』
訳者あとがきによると、原著の欄外にあったという膨大なテキストが省略されているそうなので、余計にそう感じるのかもしれない。

でも、歩くことを主軸に幅広い領域を横断していて、読み応えは十分だった。暗い中ふらふらと出歩けるのが人工的な状態だと改めて考えさせられる。

「第六章 庭園を歩み出て」は、昔は野盗の襲撃があったため、徒歩での移動が危険だったというところから始まる。時代が進んで「第十章 ウォーキング・クラブと大地をめぐる闘争」では、イギリスの通行権の話が出てくる。これは昔から通路として使われていた土地は、私有化されたあとも通路として使えるという権利。日本だと「私道につき~」なんて書かれた看板をたまに見かけるけれど、調べて見たら通行料取ったりできるみたい[2]。実施に取っているところは見たことないけれど。

「第十四章 夜歩く――女、性、公共空間」では、女性が出歩ける場所と時間が制限されている時代・地域がある/あったという話。この問題は、根が深いように思う。今の日本でも、犯罪被害に遭った女性に「そんな時間にそんなところを歩いている方が悪い」というようなことを言う人がいる。犯罪リスクが高いシチュエーションを避けるのが好ましいとしても、だからと言って被害者が悪いなんてことにはならないのに。本書は商店が女性が安心してぶらつくことのできる半公共的な空間を提供していたと述べるけれど、今はこの機能はショッピングモールに引き継いでいそう。関心が出てきたので『ショッピングモールから考える』を読んでみようか。

こうして内容を振り返ってみると、帯の惹句には「歴史的傑作」とあるけれど、肩肘張らずにそぞろ歩きでもするように読むのがちょうどよかったかもしれない。

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