『中動態の世界 ――意志と責任の考古学』を読んだ。サブタイトルの「意志と責任」について、言葉や文法からアプローチしている。キーワードとなるのが、メインタイトルの「中動態」。
しっかりと噛み砕けてはいないけれど、自分にとって大事なことが書かれている感触がある。
どういう意味で大事かというと、気持ちを軽くしてくれるという意味。抱えていた重さを考えると「直面した問題」というには大袈裟だけれど、ままならなさを軽減してくれた。もう少し正確に書くと、ままならなさに対する苛立ちや後悔が軽減してくれた。
一方で、サブタイトルから生まれた「意志と責任」についての期待は、十分には満たされていない。インタビュー記事に「責任」を次の課題にしたいという話があったので、待っていよう。
もうひとつ、依存症との関係について、もう少し書かれていて欲しかった。「プロローグ――ある対話」と題された依存症当事者との架空の対談から始まるのに、ここに着地しない。「あとがき」でも、同著者の『暇と退屈の倫理学』とも関係することが示されていけれど、詳しくは説明されない。
自分が直面する問題ではないので次第に薄れていくだろうとは思うけれど、読み終えて数日が経った今ももどかしさが残っている。そうは思いつつも、少し検索してみたら、対談國分功一郎×熊谷晋一郎:「中動態」と「当事者研究」がアイデンティティを更新する理由 #wiredcon|WIRED.jpで多少なりとも補間できたので、同じく気になっている人向けに紹介しておく。
この展開は、著者の考え方に由来していそう。『暇と退屈の倫理学』で過程が重要だと書いているし、インタビューに、書くことで考えが前に進むとある。
それから、本書の生い立ちも影響していそう。本書は、雑誌『精神看護』に11ヶ月に渡って連載されたコーナーが元になっている。連載形式では(最初に全連載を一気に書いたのでなければ)、最後まで書いた状態でて全体を見直したりできない。連載と並行して、考えが前に進んだと想像する。もしかしたら、最初に思い描いていたのとは、違う方向に。
この文章も、考えては書き、書いては考えてしている。結果、最初に書こうとしていたことは、違うことを書くことになった。考えてみると「考える」という動詞も、中道態的だ。思考の対象を意志によって決めるのは、少なくとも自分にとっては難しい。考えないと、という思いが空回りしたり、考えたくないことばかり考えてしまったり。
今も、「『過去と他人は変えられないけれど、未来と自分は変えられる』ってどこかで聞いたけれど、事実はともかく過去の記憶なんて簡単に書き換わるし、他人も思考はともかく行動は変えられるよなあ」と脱線したことを考えている。そして、後半の「未来と自分は変えられる」という命題と、本書の主題の関わりに後から気がつく。
鋭意、ままならない。まぁ、そんなものか。ええい、ままよ。。
しっかりと噛み砕けてはいないけれど、自分にとって大事なことが書かれている感触がある。
どういう意味で大事かというと、気持ちを軽くしてくれるという意味。抱えていた重さを考えると「直面した問題」というには大袈裟だけれど、ままならなさを軽減してくれた。もう少し正確に書くと、ままならなさに対する苛立ちや後悔が軽減してくれた。
直面した問題に応答するべく概念を創造する――それが哲学の営みである(真理とはおそらくこの営みの副産物として得られるものだ)。
引用元: 『中動態の世界 ――意志と責任の考古学』
一方で、サブタイトルから生まれた「意志と責任」についての期待は、十分には満たされていない。インタビュー記事に「責任」を次の課題にしたいという話があったので、待っていよう。
ただ、今回の本の刊行後に、責任についても考えが進んできたところがあって、次の課題にしたいと思っています。
引用元: 『中動態の世界 ――意志と責任の考古学』國分功一郎 | Webでも考える人 | 新潮社
もうひとつ、依存症との関係について、もう少し書かれていて欲しかった。「プロローグ――ある対話」と題された依存症当事者との架空の対談から始まるのに、ここに着地しない。「あとがき」でも、同著者の『暇と退屈の倫理学』とも関係することが示されていけれど、詳しくは説明されない。
熊谷さんと上岡さんは『暇と退屈の倫理学』が依存症を考えるうえで役に立つのだと言ってくれた。詳しくは説明しないけれども、ハイデッガーの言う退屈の三区分に即して私が書いた「ハイデッガー自身の述べるところとは異なり、最も大切なのは決断へと至る退屈の第三形式ではなくて、ぼんやりとした退屈に浸っている第二形式である」という考えが、依存症からの「回復」を考えるうえで参考になるということだった。
引用元: 『中動態の世界 ――意志と責任の考古学』
自分が直面する問題ではないので次第に薄れていくだろうとは思うけれど、読み終えて数日が経った今ももどかしさが残っている。そうは思いつつも、少し検索してみたら、対談國分功一郎×熊谷晋一郎:「中動態」と「当事者研究」がアイデンティティを更新する理由 #wiredcon|WIRED.jpで多少なりとも補間できたので、同じく気になっている人向けに紹介しておく。
僕の本はよく推理小説みたいだと言われます。とのことだけれど、推理小説になぞらえるなら解決編がない感じ。というのは、軽口でそう言われるのは、ビジネス本やハウツー本と違う展開だからだろう。最初に結論を提示してそれを支えるための議論をトップダウンに展開するのではなくて、手がかりから提示されていくボトムアップの展開になっている。
引用元: 『中動態の世界 ――意志と責任の考古学』國分功一郎 | Webでも考える人 | 新潮社
この展開は、著者の考え方に由来していそう。『暇と退屈の倫理学』で過程が重要だと書いているし、インタビューに、書くことで考えが前に進むとある。
論述の過程を一緒に辿ることで主体が変化していく、そうした過程こそが重要であるのだから。
引用元: 『暇と退屈の倫理学』
書くことによって、知の先端部、つまり自分が知っていること、自分が考えていることが、ちょっとだけ前に進む。
引用元: 『中動態の世界 ――意志と責任の考古学』國分功一郎 | Webでも考える人 | 新潮社
それから、本書の生い立ちも影響していそう。本書は、雑誌『精神看護』に11ヶ月に渡って連載されたコーナーが元になっている。連載形式では(最初に全連載を一気に書いたのでなければ)、最後まで書いた状態でて全体を見直したりできない。連載と並行して、考えが前に進んだと想像する。もしかしたら、最初に思い描いていたのとは、違う方向に。
この文章も、考えては書き、書いては考えてしている。結果、最初に書こうとしていたことは、違うことを書くことになった。考えてみると「考える」という動詞も、中道態的だ。思考の対象を意志によって決めるのは、少なくとも自分にとっては難しい。考えないと、という思いが空回りしたり、考えたくないことばかり考えてしまったり。
今も、「『過去と他人は変えられないけれど、未来と自分は変えられる』ってどこかで聞いたけれど、事実はともかく過去の記憶なんて簡単に書き換わるし、他人も思考はともかく行動は変えられるよなあ」と脱線したことを考えている。そして、後半の「未来と自分は変えられる」という命題と、本書の主題の関わりに後から気がつく。
鋭意、ままならない。まぁ、そんなものか。ええい、ままよ。。