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写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (5/N) - 見せられる≠見える

ここまでの『写真、芸術、報道、メディア・リテラシー』エントリィ一覧。
  1. (1/N) - ピクトリアリズム(西洋絵画調)写真
  2. (2/N) - ルネサンス、オリエンタリズム、グローバリゼーション
  3. (3/N) -『フェルメールのカメラ 光と空間の謎を解く』
  4. (4/N)〈上〉 -『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』
  5. (4/N)〈中〉- 人、背景、メッセージ
  6. (4/N)〈下〉- 理由、理由、理由

終わりが見えなくなってきた。というわけでもないか。それ最初から見えていない。なら終わらせにいこう。次くらいで (今回終わる見込みがないことだけは見えている)。


前回は〈見る側〉へと視点を切り替え、「どうして写真展を見に行ったんだっけ?」と改めて自問してみた。それで、理由なんて存在しないものを躍起になって探さなくていいか、と思い直した。そんな話だった (ハズ)。それから、偶然の連続に "Everything is connected." なんて思ったりした。これからは全体論的ブロガーを名乗ってもよいのではないか? (好きにすればよい)

今回はもう少し視点をズラして、〈見せる〉と〈見る〉という能動態から離れる。〈見せる〉と〈見せられる〉という能動態と受動態には向かわない。〈(写真が) 見える状態になる〉という中動態[1]の動きから考える。

なぜなら、大半の人は写真展をわざわざ見に行ったりしない。世界報道写真展2017の入場者数は約3万人[2]。同年開催のミュシャ展は60万人以上の入場者があった[3]ので、その20分の1に満たない。これだけカメラ付き携帯 (とわざわざ言わなくても携帯といえばカメラが付いているものと相場が決まっている) が普及して、おそらく写真撮影を未経験の人の方が少ないにもかかわらず写真展に足を運ぶ人は少ない。あるいはだからこそ? 写真くらい誰でも撮影できるから大したものではないだろう、という無意識がはたらいて、見に行きたいというモチベーションが湧かないのか?

普段、大半の人は大半の写真を意識して見ていない。それが自然な状態。人間は、目に入るものすべてを同じようには見ていない。焦点が合う中央視野はごく狭く、解像度の低い周辺視野が視界の大半を占めている。そこでは、動きが知覚されないものは意識に上がらない。自動車の免許を持っている人は、見通しのいい交差点で起こる出会い頭の事故[4]を思い出すかもしれない (忘れていたら、身の安全のために心の端にでも留めておいて欲しい)。

そんなわけで、意識して写真を見るときに、最初に目に飛び込んできたあの感じがするのかもしれない。Webページをスクロールしたら、本のページをめくったら、何気なく視線を動かしたら、あるいはタイムラインを写真の方が流れてきて、偶然に突然に〈見える状態になる〉。だから、中動態の動きで考えたい。

写真の中でも、報道写真はこの傾向が特に強いはず。同じ題材を扱った複数のニュースを比較しようと探しているときは別だけれど、報道写真は知らなかったニュースの一部として向こうの方から飛び込んでくる。

次々と飛びかかってくるそれらに対して、自分はどうも無意識のうちにフィルタリングしたり、意識してもスルーするのが苦手で、いいニュースであれ悪いニュースであれ、それを信用できるかどうかから疑ってかかる癖がついてきたので、とにかく疲れる。社会問題の深刻さを表現するのに「今も世界でN秒に一人が〇〇で△△です」みたいな言い回しがあるけれど、その1件1件が逐一知らされるとこんな疲労に陥るのではないか。

結果として、これまで何回か名前を挙げていた『フォト・リテラシー――報道写真と読む倫理』では「思考と契機としての写真」という言い方をしているけれど、これに対して「思考し過ぎないための見方」というような話になるか。

ニュースサイトなりSNSなりから離れた方がいい、と言われれば返す言葉もないのだけれど。


ないよ? というわけでこれにてシリーズ完結‼︎

ジョークです。何事もなかったかのように続けます。


いっそスパッと断ち切る方が容易いのかもしれない。でも、それではディスコミュニケーションどころではなく、ディスコネクトである (一人隠棲できたらそれもいいかもしれない。ベーシックインカムもらえるようにならないかしらん)。縁とかしがらみとか、単に止めることのためらいなのか、まだ希望を捨てていないのかよくわからないけれど、改めて距離を取り直してみたいと思う。『さすらい』では、撮影する人とされる人との距離を問題にしていたけれど、ここでは自分と自分に〈見える状態になった〉写真との距離を問題にしたい。

やはり『フォト・リテラシー――報道写真と読む倫理』が、まさにこの問題を扱っているのだけれど、いかんせんレベルが高過ぎる。高く評価されている報道写真家の作品を例に挙げ、倫理的な問いを投げかけてくる。
さて本書第三部後半では、世界における貧困、悲惨、戦争、死といった苦悩を写す写真が、「結局世界を救えないのではないか」という問いに、思いをめぐらす。
出典:フォト・リテラシー――報道写真と読む倫理』

残念ながら (少なくとも自分に見えるニュースなんかだと)、このレベル以前の問題が多くてそれどころではない (自分が残念な可能性も低くない)。文章でいうと、誤字・脱字や「てにをは」の誤りや表記揺れが多くて内容が頭に入って来ないとか、そもそも胡散臭すぎて読みたくないとか、そういうお世辞にも高いとは言えないレベル。つまりこの文章をうっかり読んでしまっているときの問題ではないかと思い当たってしまったので、これ以上悪し様に言うのは差し控える。

自虐的に書いたけれど、「よみかき」レベルのリテラシーが必要になっているというのは、自分だけの問題ではないと思いたい。もっと言えば「危ない人についていってはいけません」とか「こんなところを見たら、すぐに離れて助けを呼びましょう」というレベルの問題な気もする。フェイクニュースは盗用した写真に事実とは違うテキストがをつけたりするし[5]、フェイクニュースに踊らされないための取り組みをしている学校とNPOがあったりするし[6]、もっと広く共有された問題となって欲しい (自分がハブられている可能性もあるが (あ、また自虐癖が))。

前にチラリと書いたとおり、それらしい本だと思って手に取った『SNS時代の写真ルールとマナー』が、目次を見る限り、メインターゲットは〈見せる側〉だった。著者が日本写真家協会なのでさもありなん。そうではなくて、次から次へと〈見える状態になる写真〉に、どれくらいの距離からどんなアプローチで近づく/離れるかを考えている。〈見せる人〉がルールやマナーを守る人ばかりとは限らない。この問題は、近づいて欲しい〈見せる側〉の利害と衝突する。とうぜん〈見える状態になる写真〉が考えてくれるわけでもない (人が画像データかブラウザあたりをインテリジェントにする可能性はある。実現して欲しい)。なので、〈(写真が) 見える状態になる人〉が〈見せる人〉のリテラシーとペアで考えるのが、自然ではないかと考えたり考え疲れたりしている。

アジや野次に煽られて直進するでもなく、優しく易しく噛み砕かれた断片を持って来てもらうでもなく、周りを巡りながら漸近したり、いちいち相手できないものに近づかないようにしつつさまったりだとか、そんな〈距離〉の取り方について考えている。

で? と言われれば、やっぱり返す言葉もないのだけれど。

少なくとも今は本当にない。誰か教えてくれると楽できてよいと思う。


というわけで、リテラシーについて書けるだけ書けたので、次回は番外編。報道でも芸術でも今まで触れなかった記録でもなくて、趣味の写真。ソール・ライターの話をできる。

おお、次で終わりそうだ。

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