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写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (4/N) 〈中〉 - 人、背景、メッセージ

書き連ねること5本目の4〈中〉。〈下〉にするつもりが〈中〉になった。小分けにしないとなかなか更新できない。小分けだからといって、すぐにできるわけでもないけれど。

ここまでで、写真展「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」の《夜明けと日没》写真展「世界報道写真展2018」の《Klin Cave》書籍『フェルメールのカメラ』書籍『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』(以降、『カルティエ=ブレッソン』)を中心に書いてきた。

前回、脚註に飛ばしてしまったけれど「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」にはカルティエ=ブレッソンの《サン=ラザール駅》も展示されていた。ようやく一巡りした気分。でもまだ続く。

今回は『カルティエ=ブレッソン』の第III部「カルティエ=ブレッソン後の写真言説――ポストモダンの時代へ」第8章「フォト・ルポルタージュの現在」で知ったレイモン・ドゥパルドンとセバスティアン・サルガドの話。


2本目でも引用したドゥパルドンの疑問から始めてみる。
フォトジャーナリズムとは、いまだに〈西洋〉の自画自賛――第三世界や第四世界との対比における――にすぎないのではないか?
出典:『さすらい』
『さすらい』の底本 “Errance” の出版から20年近く経って、〈西洋〉に対する〈第三世界〉や〈第四世界〉というシンプルな構図ではなくなっている気はする。まっさきに思い出すのは、「世界報道写真展2018」で見た、イスラムを扱っていた何枚もの作品。

ただ、構図が変わっても、疑問が消滅したりはしない。

あからさまな「やらせ」は姿を消したとしても、メッセージありきで目的地へ赴き被写体を探し演出し撮影し選び加工しテキストを付けるという工程は健在だろう。

外と対比して内を讃えるのは、一般的な傾向だと思う。古くからことわざで「人の不幸は蜜の味」と言うし。それを支持する心理学系の研究もどこかで読んだ記憶がある。周囲がそれより幸福と思っていると、不幸な気持ちになるというような実験結果だった(記憶が曖昧だと過度に一般化してしまうので、あとで掘り起こそう)[2]

自分たちの幸福を実感するために不幸な人々を見たいという内需も、それに応えようとする意図的な供給も、意図せずにそれに応えてしまっている偶然の供給も、どれひとつなくなるとは思えない。


疑問を呈したドゥパルドンは、ジャーナリズムから離れた作品――『さすらい』の制作に至る。そこに写る人の数は少ない。写っていても、遠く離れていて表情は伺えない。そこに写る風景は乾いている。分かりやすいオブジェクトもない。見ていると、どこか遠くに気持ちが持っていかれる。説明するテキストもない。それどころか各写真との対応すら存在しない。

その『さすらい』について、『カルティエ=ブレッソン』にはこう書かれている。

彼はここで、結局写真というものが自分自身と他者とを向き合わせることに他ならないという、ある意味で究極の結論を述べている。それは、不特定多数の写真を見る者に対して写真は何を伝えるのかといった類の議論からは距離をおいた、写真の真実とは結局写真家と撮影対象、その関係と撮影行為の中にしかないのだという、見方によっては悲観的な結論でもある。
出典:『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』

「フォト・ルポルタージュの現在」[1]としての悲観なので、結果として『さすらい』という作品ができたのであれば、喜ばしいことでもある。自分はこの本と遭遇できてよかったと思っている(ので、は別にエントリィを書きたい。いつになることやら)。

それはそれとして、今でも報道写真からは、世界からの選りすぐりからさえも、疑問が生まれたので、不幸を強調せずにメッセージを見せる方向性についても考えてみようと思う。


「不幸を強調せずにメッセージを見せる」と簡単に書いたけれど、少し考えただけでも簡単ではないと察せられる。不幸な状況に苦しむ様子はもちろん、立ち向かう様子も逆説的に不幸を強調する。日常の様子ではメッセージがわからない。フレーム外――組写真やテキストを駆使しても、メッセージ性は弱まるし、写真はしばしば独り歩きする。

『カルティエ=ブレッソン』では、ドゥパルドンの《ルーマニアの孤児院》や、セバスティアン・サルガドの作品が挙げられている。
〔...〕いずれにしてもこの二人の写真家は合わせ鏡のようにして、現代のフォトジャーナリズムを体現している。
出典:『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』

《ルーマニアの孤児院》の方向性で演出的な要素を強めていくと、「世界報道写真展2018」の《Boko Haram Strapped Suicide Bomb...》だったり、Netflixドキュメンタリー『アート・オブ・デザイン』で紹介されていたプラトンという写真家の作品のようになるのではないだろうか。つまり、背景などの情報を排して、ポーズを指定したり撮影される人と撮影する人とで対話しながら制作される作品に。

サルガドの方向性に近いのは、「世界報道写真展2018」の《Lives in Limbo》か。ところで、カルティエ=ブレッソンの報道写真も近いと思う。この態度が、彼が芸術写真を目指しつつも報道写真を生業としていたという経緯に特有のものだとしたら、芸術写真が確立されている今となっては獲得は相当に難しそう。

ここまで考えを進めて、改めて「世界報道写真展2018」を振り返ると、上で挙げた「世界報道写真展2018」の作品がいずれも組写真として構成されていること、写真展では単写真と組写真とで部門が分かれていること、Photo of The Yearを獲得したのが単写真だったことに気がつく。ここを掘り下げても、先に進めそう。でも、一度出発点に戻ってみようと思う。さすらい――自分の場合は「さまよい」か――を止めて、帰ってみようと思う。東京都写真美術館で開催されていた2つの写真展よりも手前。地理的な意味での出発点。つまり家に。


というわけで、今回はここまで。ずっと「見せる側」の話が続いたので「見る側」の話に切り替えようと思う。

次回は『フォト・リテラシー 報道写真と読む倫理』を参照しつつも、この本はここまでのエントリィで出てきたような報道写真を見るときの話だったので、もっと日常的というか世俗的な写真を見るときどうしようかという話をつらつら書いてみようと思う。ちなみに『SNS時代の写真ルールとマナー』という本は見つかったけれど、目次を見る限り写真を撮るときの話で見るときの話ではないようだし、最近インプット過多気味なので、アウトプットして整理したいという思いもあり。

最後に誰にともなく自白。このエントリィを書き出す前は、次は『(4/N)〈下〉』としてソール・ライターの話をするつもりだった。でも前後こそすれ、次の次くらいで気持ちに整理がつきそう。つまりNが決まりそう(完全に構成を誤った自分の推測の当てにならなさを甘く見過ぎか?)。

[1]『さすらい』をフォト・ルポルタージュとして見るのは『カルティエ=ブレッソン』を順に読んでいれば不自然ではない。先祖返りしたものとして位置付けていると思われる。
[2] あなたの「幸せ」は、周りの人次第:研究結果|WIRED.jp

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