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写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (3/N) - 『フェルメールのカメラ 光と空間の謎を解く』

前々回は1885年に制作されたピクトリアリズム写真《夜明けと日没》、前回は2017年に制作された報道写真《Earth Kiln》について書いた。

制作年には130年あまりの開きがあるけれど、どちらも西洋絵画調に仕上げられている。もっと言えば、フェルメールの絵画のように見える。今回はその理由について書いてみる。『フェルメールのカメラ 光と空間の謎を解く』(以降、『フェルメールのカメラ』)の感想でもある。

結論から言うと、写真で西洋絵画的な表現をしようとすると、フェルメールの絵画に行き着いてしまうのだと思う。理由は簡単で、フェルメールの絵画が写真的だからだ。写実的に緻密に描き込まれているという意味ではない。『フェルメールのカメラ』によると特徴は遠近法にある。
「写真」のようだと言う時、具体的にはなにを指しているのだろうか? それは、正確な遠近法と、ベネルが最初に指摘したような、接写や広角で写真を撮ったときに生じる遠近法のゆがみである。
出典:フェルメールのカメラ 光と空間の謎を解く

こうした特徴がある理由は単純。フェルメールがカメラ・オブスクラを使って描いたから。カメラ・オブスクラというのは、フィルム・カメラの前身となる装置。簡単にいうと、フェルメールはレンズを通した像を見ながら絵を描いたということ。ただ、使われたこと自体は間違いなさそうだけれど、使われ方には諸説あるみたい。
1891年のペネルの論文以来、フェルメールがカメラ・オブスクラを用いたということについては、100年以上にわたる検討や実験が行われてきた。その結果、彼がカメラ・オブスクラを用いていたようだという点で、美術史家の間では、見解がほぼ一致している。決着がまだついていないのは、どの程度、どのように用いられたか、そしてフェルメールの絵の様式にとってどのような意味を持っていたかという問題である。
出典:フェルメールのカメラ 光と空間の謎を解く


『フェルメールのカメラ』では、少なくとも6枚の絵で、絵の視点にレンズを置いて、部屋の後ろの壁(の上に紙なりを置いてそこ)に投影した像をもとにして描いた可能性が高いことを、実験で確かめている(その一つとして、絵とスケールモデルを撮影した写真を比較している。1組を著者のWebサイトで見られるので、興味があれば)。その根拠は、それら6枚の絵が、構図はもとより光の当たり方そして絵の大きさまでもが、投影図とほぼ一致する。6枚の中にはないけれど、『ルーヴル美術館展』で見た『天文学者』が、漠然と想像していたよりもずっと小さかったことを思い出す。

『フェルメールのカメラ』の著者は、むしろ写真との違いを強調している。その大きな違いとして、カメラで撮った写真は瞬間を切り取るのに対して、カメラ・オブスクラを用いて描いた絵画は時間幅を反映している点を挙げている。そのため、撮影した写真を用いて描いてもこのようにはならないだろうと述べている。

これは時間幅の程度問題かもしれない。デジカメならシャッタースピードのコントロールもできるし、定点観測カメラ(ライブビデオカメラじゃなくて、長時間に渡って一定間隔で写真を取り続けるカメラ)を使って合成してもよいし、なんならピクトリアリズム時代の《夜明けと日没》だって5枚のネガから1枚を制作している。

一足飛びに憶測を進めると、フェルメールの絵画のイメージが静かに深く自分の中に残り続けているのは、時間幅において同じものを同じものと認識し続けて、連続して揺らぎ続けるカメラ・オブスクラの像を1枚の絵画に落とし込む抽象化によるのかもしれない。『フェルメールのカメラ』にも書いてあるし、何より見て取れるのだけれど、フェルメールの絵画は遠近法は正確だけれど、細部は緻密ではなくてむしろ曖昧だ。(『フェルメールのカメラ』で知って驚愕したのだけれど、フェルメールの絵画には輪郭の痕跡すらないそうだ)。奇跡でも起きなければ牛乳を注ぎ続けられるわけがない。ゆらぎを消すように写真を合成してそこに補筆しても、きっと少なくない細部が残る。むしろ、抽出した主題を引き立てるために、背景は意図的に細密にするアプローチもあると思う。

もしかすると、両者は同じ方向を向いていて、反対側からアプローチしているのかもしれない。つまり、絵画はまっさらなキャンバスに抽象を足していくことで、写真は写し撮ったイメージから捨象していくことで、同じ目的地を目指している/いたのかもしれない(と書きつつ、フェルメールが一度描いたものを削除したと書かれていたのも覚えているのだけれど)。

写真の話に戻すと、ピクトリアリズム写真の制作者は、フェルメールがカメラ・オブスクラを用いていたことを知らなかったと思われる。《夜明けと日没》のヘンリー・ピーチ・ロビンソンは、1891年のペネルによる論文より20年近く前の、1869年に『写真における絵画的効果―写真家のための構図法および明暗法の心得』を出版している[1]。
何人かの美術評論家や研究者は、19世紀後半に起こったフェルーメルの再検討と再評価が、写真の発明や普及と無関係ではなかったと指摘している。
出典:フェルメールのカメラ 光と空間の謎を解く
けれども、実は一部の写真家には語り継がれたりしていて、だからこそ美術界に認められるために強かに両面からアプローチしたと妄想を繰り広げるのも楽しい。もし、フェルメールのような写真を制作し始めたうえで、美術界にフェルメールの再評価を仕向けていたとしたら。と思いつつも、下記の通りなんだけれども。
現在のような評価が最初に現れるのは、1866年のことである。美術評論家のテオフィル・トレが『ガゼット・デ・ボザール』誌に(ウィリアム・ビュルガーのペンネームで)一連の記事を書き、フェルメール熱を再燃させるきっかけを作った。
出典:フェルメールのカメラ

最後に、次に感想を書くつもりの『カルティエ・ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』につながる話を、二三。

一つ目は、構図へのこだわり。上下逆さに見ることのエピソードがおもしろい。『フェルメールのカメラ』が示すとおりの方法を用いると、映る像が逆になる。このことは構図を抽象的に見るのにも役に立つ。『フェルメールのカメラ』では「プレートカメラを使うプロの写真家は、上下逆さまの像の構図上の関係を評価するのに熟練している」と書かれているけれど、カルティエ=ブレッソンも上下逆にして構図を確認していたという逸話をどこかで読んだ記憶が。

二つ目は、対象との距離感あるいは社会的メッセージ性。これは『カルティエ=ブレッソン』が第III部「カルティエ=ブレッソン後の写真言説――ポストモダンの時代へ」で紹介している写真家も含めた対比がおもしろい。フェルメールは「ヤン・ステーンの陽気な混沌と道徳的メッセージの明白さとは対極にある感受性を示して」いて、「モデルに無関心なのではなく、距離を置いて彼らを見つめようとしている」とある。写真家たちについては次回までに整理しておくつもり。

二三と言ったら三つあると思わせておいて二つで終わる。

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