スキップしてメイン コンテンツに移動

写真、芸術、報道、メディア・リテラシー(4/N)〈下〉 - 理由、理由、理由

ここまでのエントリィ一覧。
  1. 写真、芸術、報道、メディア・リテラシー(1/N)ピクトリアリズム(西洋絵画調)写真
  2. 写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (2/N) ルネサンス、オリエンタリズム、グローバリゼーション
  3. 写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (3/N) - 『フェルメールのカメラ 光と空間の謎を解く』
  4. 写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (4/N) 〈上〉 - 『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』
  5. 写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (4/N) 〈中〉 - 人、背景、メッセージ

いろいろと書いてきたけれど、基本的に〈見せる側〉の話だった。企画する人、写真を撮る人、文章を書く人、写真を選ぶ人、パッケージとして編集する人。そんな人たちの話だった。

ここで振り出しに戻って「どうして写真展を見に行ったんだっけ?」と振り返ってみたい。それで、〈見る側〉について「なぜわざわざ見に行くのか?」「なぜ見てしまうのか?」考えたい。少なくとも9年前つまり『フォト・リテラシー――報道写真と読む倫理』を読もうとした時から、考えるともなく考えていたような気もするし[1]。カルティエ=ブレッソンの《サン=ラザール駅》を、初めてそれと意識したのも(たとえすっかり忘れてしまっていたとしても[2])この本だった。せっかくここまで来たので、うっかり続ける(だからどんどん長くなる)。


そもそも東京都写真美術館に行ったのは、写真展「世界報道写真展2018」だけが目的だった。出自が確かで高く評価された報道写真が何をどのように見せているのか、この目で見てみたかった。「何を」については、好奇心に近い感情もあったと思う。1ヶ月ほど前のエントリィ『日露の日常 - ゲンロン6、7のロシア現代思想 I, II』に書いた「わからなさ」への小さな抵抗とも言える(やっと〈哲学〉タグを回収できた)。
いまぼくたちは、同世代のアメリカ人が、ヨーロッパ人が、あるいはアジア人が、なにを考え、なにについて考えているのか、驚くほどわからなくなっている。
出典:『ゲンロン6』「受信と誤配の言論のために」

ただ、どちらかと言えば「どのように」の方に関心があったと思う。日々目に入ってくる写真にうんざりしていて、そうじゃない見せ方に触れたかったとも言える。流れ続けてくる写真とそのメタデータ(撮影者、撮影日時場所、キャプションなど)の距離は遠ざかっているように見える。虚偽なのも珍しくない。ニュースに非写真家がスマホで撮った写真が使われたり、フェイクニュースに写真家が撮った写真が盗用されたり[3]、写真もテキストもまるごと盗用したSNS投稿が拡散されたり、写真に虚偽の(しかしもっともらしい)テキストが意図的に利己的に付けられたりしている。「人を見たら泥棒と思え」というのがデフォルトの見方になりつつあり、信用できるか確認するだけで疲弊させられる。

見てきた結果としては、
フォトジャーナリズムとは、いまだに〈西洋〉の自画自賛――第三世界や第四世界との対比における――にすぎないのではないか?
出典:『さすらい』
という20年前に発せられた問いと似通った気持ち強く残り、今になって、「世界報道写真展」と銘打っていようが土台「世界」は存在しないんだった、『なぜ世界は存在しないのか』読んだんだった、と遅延評価の結果が返ってくる(ここでも〈哲学〉回収)。


東京都写真美術館から帰って、何冊か読んで考えて来たことはこれまでに書いてきたとおり。でも、先に進む前にもうひとつ。同日に東京都写真美術館で、「世界報道写真展2018」のに「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」見た理由について書いておきたい。

一言でいうと、「たまたま目についてチケットがセットでお得だったから」というしょうもない理由なのだけれど、事後的かつ哲学的には東浩紀さんが言うところの「誤配」、「観光」だったと思っている。
画集などいちども見たことのない門外漢がルーヴルでモナリザに出合い、自分で料理も作ったことのない貴族がパリで屠殺場を見学する。それはむろん誤解に満ちている。観光客が観光について正しく理解するなど、まず期待できない。しかしそれでも、その「誤配」こそがまた新たな理解やコミュニケーションにつながったりする。それが観光の魅力なのである。出典:『ゲンロン0――観光客の哲学』

「しょうもない理由」と書いたけれど、細かく見ていくと多数のわずかな理由が積み重なった結果だとも言える。以下、延々と詳細を続けるので、興味がない人は次の段落へどうぞ(ページ内リンクを貼るまでの親切心はないけれど。ほら、一応ここまで読んでいる人なら読んでくれるかな? という期待もないではないわけで)。まず、「世界報道写真展2018」のチケットを買おうとしたら、「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」と知らない名前の人の個展が開催されていたことに気がつくだけの視線の動きがあった。チケット一覧を見ないで受付の方に「「世界報道写真展2018」のチケットください」と言って会場へ直行していたら、気がつかなかっただろう。気がついたとしても、午前中に到着して各展示それぞれ1フロアでの開催かつチケットが2枚セットで1170円というメタデータから1展示あたりにかける時間は30〜60分程度だろうとあたりをつけられなかったら、お昼を挟んで見るとちょうどよさそうとは思わなかっただろう。それから、2展示が美術館の収蔵品を使った企画展と知らない方の個展という組み合わせでなかったら、どちらも行かなかった可能性が高い。この組み合わせだったから、「知らない人の個展は当たり外れが大きくなるだろう」から「行くなら企画展の方だ」と考えたと思う。個展2つの中からはもちろん、企画展2つでも、「その場で事前情報無しに決めたらあとでもう1つのことを調べて後悔しそう」と考えて、結局どちらも調べずにどちらにも行かなかったのではないかとも思う(自分個人がそういう面倒臭い性格だという自覚もあるし、行動経済学の実験で差異が大きい対象の方が比較決定の心理的負担が低いという結果もあったはず)。「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」の企画が重く見えても行かなかったと思う。「世界報道写真展2018」が重いのは確実視していたので、続けて2つも重い展示に入ろうとするのは躊躇う。興味本位、観光気分、物見遊山で入っても大丈夫そうだという第一印象がなかったら、入らなかったことだろう。もっともっと細かいところだと、所持していた現金が21000円だったら、一万円札を崩すのが嫌で「まぁ、いいか」となったかもしれない(入る軽さは入らない軽さでもある)。そして重い展示を先に見てしまったら、次の展示に向かう足取りも重くなってしまうだろうと、先に目的外だった「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」に入ったというわけ。

こうして挙げ出すと切りがない。しかしこれだけ明確に意識的に考えていたわけではない。上に書いた条件が全て整っていたとしても、一見無関係の原因(エアコンが効きすぎていて寒い)で入らなかった可能性も十分あり得た。全て列挙するのは現実的ではない。けっきょく「偶然」という他にない気もする。それだけでこれだけ延々と書き連ねている。ということは「誤配」を受け取った「観光」だったのかな、と。

こう書き出して理由を後付けしてみた、とも言える。どちらかというと理由を持たない行動の方が多いという自己観察。
人は常に理由を持って行動するのではない。それにもかかわらず、常に理由を探そうとする。

『月は幽咽のデバイス』280頁

ないものを探している。どこかに落ちていないか探し回る。最後には、別のものを拾い上げ、それで代用する。それが探していたものだと思い込む。そして、信じる。
出典:『議論の余地しかない』


ともあれ、たまたま入った写真展で、9年前に読んだ本で見た写真を思い出して、撮影者カルティエ=ブレッソンの名前を冠した本を手に取ったら、教え子の本だったというのは、偶然にしてはよくできている。どちらの本でも言及されている、カルティエ=ブレッソンが所属していた(もっと言えば創立メンバの1人だった)マグナム・フォトのWebサイトを見てみたら、ちょうど写真展「HOME」を開催するところだったので、毒を食らわば皿まで(誤用)と見に行ってみたり。そこで最も印象的だったのがロシアの写真家の作品だったのも、『ゲンロン6』『〃7』を読んで間もないのでタイムリーだし、そのキャプションで原作既読だけれど映画未鑑賞のSF『惑星ソラリス』なので、“Everything is connected.” と全体論的探偵(小説、続編、ドラマシリーズ)のセリフを連想せずにはいられない。

ちなみにこの一連のエントリィが全体論的解決を迎えるかどうかはいまだ定かではない。あ、まずい。これ〈下〉なのに終わらなかった。まあ、いいか。『終物語』で〈物語〉終わらなかったし。そう言えば『悲終伝』まだ読んでない。ふと思ったのだけれど、NISIO ISINを回転させると、Z-〜-O-〜-Zになるね。波線のバージョンを使い分けられたら完璧だった。

[1] 本著の著者は『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』の著者の恩師に当たる。無作為に読んでいるわけでもないけれど、このことを知ったのは後者のあとがきだったので偶然と言えば偶然。
[2] 東京都写真美術館で9年振りに見た瞬間に記憶が刺激されて、改めて写真の力を実感できたと前向きに捉えよう。
[3] いかに「写真」は人を“欺く”ようになり、フェイクニュースを拡散してしまうのか?

このブログの人気の投稿

北へ - ゴールデンカムイ 16

『ゴールデンカムイ 15』、『〃 16』を読んだ。16巻を読み始めてから、15巻を買ったものの読んでいなかったことに気がつく。Kindle版の予約注文ではままあること。 15巻は「スチェンカ・ナ・スチェンク」、「バーニャ(ロシア式蒸し風呂)」と男臭いことこのうえなし。軽くWebで調べてみたところ、スチェンカ・ナ・スチェンク (Стенка на стенку) はロシアの祭事マースレニツァで行われる行事のようだ[1]。それなりになじみ深いものらしく、この行事をタイトルに据えたフォークメタルStenka Na StenkuのMVが見つかった。 16巻では杉元一行は巡業中のサーカスに参加することになる。杉元と鯉登の維持の張り合いが、見ていて微笑ましい。鯉登は目的を見失っているようだが、杉元もスチェンカで我を失っていたので、どっこいどっこいか。なお、サーカス/大道芸を通じた日露のつながりは、実際にもこのような形だったようだ[2]。 個々のエピソードから視線を上げて、全体の構図を眺めてみると、各勢力がすっかり入り乱れている。アシㇼパは尾形、キロランケ、白石とともにアチャの足跡を辿り、そのあとを鶴見のもとで家永の治療を受けた杉元が鯉登、月島を追っている。今更だけれど、杉元やアシㇼパは、第七師団と完全に利害が衝突していると考えていないはずだった。一方で、土方一味も入墨人皮を継続。むしろ彼らの方が第七師団との対立が深刻だろう。さらに北上するキロランケはまた別の目的で動いているようだけれど、なんで尾形も一緒なんだっけ? 『進撃の巨人』に引き続き、これもそろそろ読み返す時期か。 [1] 5つの暴力的な伝統:スラヴ戦士のようにマースレニツァを祝おう - ロシア・ビヨンド [2] ボリショイサーカスの源流は、ロシアに渡った幕末日本の大道芸人たちにあった 脈々と息づく「クールジャパン」 | ハフポスト

Memory Free - 楽園追放 2.0 楽園残響 -Goodspeed You-

『楽園追放 2.0 楽園残響 -Goodspeed You-』を読んだ。映画 『楽園追放 -Expelled from Paradise-』 の後日譚にあたる。 前日譚にあたる『楽園追放 mission.0』も読んでおいた方がいい。結末に言及されているので、こちらを先に読んでしまって後悔している。ちなみに、帯には「すべての外伝の総決算」という惹句が踊っているけれど、本作の他の外伝はこれだけ [1] 。 舞台は本編と同じでディーヴァと地球だけれど、遥か遠く外宇宙に飛び立ってしまったフロンティアセッターも〈複製体〉という形で登場する。フロンティアセッター好きなのでたまらない。もし、フロンティアセッターが登場していなかったら、本作を読まなかったんじゃないだろうか [2] 。 フロンティアセッターのだけでなくアンジェラの複製体も登場するのだけれど、物語を牽引するのはそのどちらでもない。3人の学生ユーリ、ライカ、ヒルヴァーだ。彼らの視点で描かれる、普通の (メモリ割り当てが限られている) ディーヴァ市民の不自由さは、本編をよく補完してくれている [3] 。また、この不自由さはアンジェラの上昇志向にもつながっていて、キャラクタの掘り下げにも一役買っていると思う。アンジェラについては前日譚である『mission.0』の方が詳しいだろうけれど。 この3人の学生と、フロンティアセッターとの会話を読んでいると、フロンティアセッターがフロンティアセッターしていて思わず笑みがこぼれてしまう。そうして、エンディングに辿りついたとき、その笑みが顔全体に広がるのを抑えるのに難儀した。 おめでとう、フロンティアセッター。 最後に蛇足。関連ツイートを 『楽園残響 -Goodspeed You-』読書中の自分のツイート - Togetterまとめ にまとめた。 [1] 『楽園追放 rewired サイバーパンクSF傑作選』は『楽園追放』と直接の関係はない。映画の脚本担当・虚淵玄さんが影響を受けたSF作品を集めた短編集。 [2] フロンティアセッターは登場しないと思って『mission.0』を読んでいない。 [3] 本編では、保安局高官の理不尽さを通して不自由さこそ描かれてはいたものの、日常的な不自由は描かれていなかったように思う。アンジェラも凍結される前は豊富なメ

報復前進

『完全なる報復 (原題: Law Abiding Citizen)』 を観た。 本作では、家族を押し入り強盗に殺された男クライドが、その優れた知能と技術でもって犯人に報復する。 ここまでで半分も来ていない。本番はここから。 クライドの報復はまだまだ続く。 一見不可能な状態からでも確実に報復を続けるクライドが、冷静なのか暴走しているのか分からず、 緊張感をもって観ていられた。 欲を言えば、結末にもう一捻りあると嬉しかった。 ちょっとあっさりし過ぎだと感じてしまった。