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ンブラ! - なくなりそうな世界のことば

『なくなりそうな世界のことば』を読みました。内容紹介の一部を引用します。
本書は、世界の50の少数言語の中から、各言語の研究者たちが思い思いの視点で選んだ「そのことばらしい」単語に文と絵を添えて紹介した、世にも珍しい少数言語の単語帳。


このエントリィのタイトルとして使った「ンブラ!」は、フィジーの挨拶の言葉です。フィジーの公用語ではありますが、母語として話す人は約30万人ほどです。日本の市でいうと、沖縄県那覇市の人口が約32万人でした[1]。市を人口の多い順に並べたとき、上位10%あたりの規模です[2]。ちなみに那覇市は814市中80位でした。

「ンブラ」はあいさつだけでなく「生きる」や「命」という意味でも使われるそうです。それも踏まえての日本語訳でしょう。
「おっ、元気にやってるか?」
「よぉ、生きてるか?」
このような文が添えられていました。

ふたつめが堪りません。たとえ元気はなくとも生きていれば、そう返事すればよいのです。生きていることを肯定できる機会というのは、そう多くありません。

それぞれの言葉から1フレーズずつしか載っていないため、返事がわからないのが残念でなりません。「あぁ、生きてるよ!」とでも返したいところです。


ここで終わるつもりだったのですが、続けます。無粋なことを書きますので、この本をこれから読んでみたいと思っている人がもしいたら、この先は読まずにこの本を読んでみて欲しいと思います。


続けることにしたのは、この本に対して「楽しい」あるいは「癒やされる」と形容している[3]のが目に付いて読み流せなかったので、「言わぬが花」と思いつつキーボードを叩きます。

内容紹介では、少数言語から「そのことばらしい」単語を紹介しているとありますが、言語の並びと「単語」は全体を通して構成されています。言語は話者数が減っていくように並んでいます。ページが進むにつれ、単語も「なくなること」を思わせるようになっていきます。

最後に紹介されるのは、大アンダマン混成語の「マラミク」という単語です。意味は、「死後の世界」。話者数は0。なくなってしまった言葉です。

なくなった言葉は戻ってきません。まだなくなっていなくても、言葉がなくなりつつあるということは、話者が亡くなるばかりで新しい話者は生まれていない/育っていないということです。

ちっとも楽しくありません。癒やされたりもしません。喪失感あるいは喪失の予感に傷つけられさえします。

内容紹介はこう締め括られています。
「小さな」言葉を話す人々の暮らしに思いを馳せてみてください。
なくなった言語を話す人々の暮らしは、見ることも聞くこともできません。せいぜい思いを馳せることしかできません。


ンブラ!

[1] 日本の市の人口順位 - Wikipedia
[2] 201801那覇市人口動態表 | 那覇市 Naha City
[3] Amazon.co.jpのレビュー15件中11件が「楽しい」寄りの感想に見えます。読書メーターも見ましたが、よく似たことを書いている方もいます。

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