東京都写真美術館の「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」と「世界報道写真展2018」で、まるでフェルメールの絵画のような写真――《夜明けと日没、1885》(リンク先の存在はこのエントリィを書き終えてから知った)とLi Huaifengという写真家の作品《Earth Kiln》を見て湧いてきた疑問を、自分なりに整理できつつあるので書き残しておく。
前段落のリンク先で作品を見られるので、未見の人は先に見ておくと想像しやすいと思う。あと、ここまでで、「ピクトリアリズムも知らないのか」と思った人には、ここから先は退屈なはず。
その疑問は「なぜわざわざ西洋絵画調にするのか」という疑問。もう少し精緻に問いを立て直すと、「写真的ではなくあえて西洋絵画的にされた写真が、なぜ過去から現在に至るまで制作されていて、しかも過去のも現在のも今なお展示対象として評価されているのか」という疑問。
とっかかりをくれたのは、『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』(以降、『カルティエ=ブレッソン』)。主題とはズレるけれど(主題についても多くのものを与えてくれたので、また別に書くつもり)、写真史における「ストレート写真/ピクトリアリズム写真」というキーワードと、この本の基本姿勢ーー当時の人々の受け止め方を通して写真を見る姿勢がヒントというかほぼ答えだった。
2種類の写真のうち、先に登場するのは「ストレート写真」と呼ばれる写真の方。ただし、これは「固定電話」みたいな呼び方で、19世紀末に流行した「ピクトリアリズム写真」と区別するために事後的に付けられた呼称。ピクトリアリズム写真がソフトフォーカス技法の駆使や補筆により西洋絵画調に仕上げられるのに対して、ストレート写真では対象が鮮明に写っている。普通の撮り方と言えば普通の撮り方。この「ストレート」は「ストレートティー」の「ストレート」のニュアンスか。
ピクトリアリズム写真が目指していたのは、写真が美術/芸術として受け入れられるようになること。写真が発明されたのが19世紀に入ってからなので、この気持ちを想像するのは難しくない。今でこそ写真展は珍しくないけれど、『カルティエ=ブレッソン』によると1930年代ニューヨークでは「写真展はほとんど商売にならなかった」そうだし、写真についてのテキストが「(現在の写真史の記述に通じる)骨格を備えた」のは、1937年にMoMAが企画した、写真の歴史百年を総括しようとする展覧会のカタログの、1949年の改訂版からだそう。
この状況を踏まえれば、冒頭の疑問が、当然のように芸術写真が存在すると思っていたから湧いて出たのだとわかる。撮影された1885年は、まさにピクトリアリズムが流行していた時期。TOKYO DIGITAL MUSEUMの解説を読むと、この作品を制作したヘンリー・ピーチ・ロビンソンは、その立役者。1869年の著書『写真における絵画的効果―写真家のための構図法および明暗法の心得』はヨーロッパ各地に影響したとのこと。
写真と見紛うばかりの写実的な絵画や、まるで目の前に実在するかのようなトロンプ=ルイユ(騙し絵)は受け入れるけれど、絵画のような写真は受け入れられないというのはダブルスタンダードだろう。MMDモデルをセルアニメのようにしたりするシェーダがあったり、プラモデルで二次元を再現しようとする方もいるわけだし。それから名画を写真で再現するプロジェクトもあったっけ。
これで《夜明けと日没、1885》に対する疑問は解消された。まだ1つ残っていて、それから1つ増えた。残っているのは、「世界報道写真展2018」の作品に対する疑問。増えたのは、「なぜ数ある絵画の中で、昔も今もフェルメールの絵画風なのか?」という疑問。
でも、きりもいいし、ここまでで結構な分量になったので、いったん筆を置く(キーボードで書いているけれど)。
次回は前者の疑問について書く予定。後者の疑問については、西洋美術史も参照する必要がありそうなので、問いの立て直しから含めて、もう少し調べてから書くつもり(19世紀末に世間的に評価が高かったからという確認可能な仮説を思い浮かべたり、世界報道写真財団がフェルメールの生地オランダだからではと邪推したりしながら、『フェルメールのカメラ―光と空間の謎を解く―光と空間の謎を解く』を読み始めたところ、フェルメールがカメラ・オブスクラ(写真用カメラの前身)を使っていたため写真で再現しやすかったからかもしれないなどと想像が膨らんで楽しい)。
あ、『カルティエ=ブレッソン』の主題に沿った感想はいつ書くんだ、これ。写真を美術界に広く認めさせた功績もあれば、報道写真家としても活動したうえ、写真家の権利と自由を守るためのグループ「マグナム」の設立メンバーでもあるから、いくらでも(巧拙はさておき)書けそうだけれど、それゆえにどう書いたって筆に余るぞ(キーボードで書いているけれど(しつこい))。
ところで、ここまででの付け焼き刃の知識で現在の視点からピクトリアリズム写真を振り返ると、カメラ・オブスクラを用いて描かれた絵画をそれと知らずに評価している美術界(『フェルメールのカメラ』によるとそれが検討され始めたのは1891年の論文以降で、フェルメールが現在のように評価が最初に見られるのは1866年)に認められるために、ヨーロッパの写真界ではその絵画的な写真作品が制作されていながら、フランスのカルティエ=ブレッソンの作品が1947年にニューヨークのMoMAで個展の形で展示され、1952年の写真集で写真が美術界に広く認められるキッカケとなったように見えていて、複雑な気持ちになる。2008年出版の『フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理』によると、「現在ではむしろ市場価値を取り戻している観すらある」そうだけれど。
『フォト・リテラシー』も再読したいけれど、いつ読むんだろう? 今日、『境界線上のホライゾン XI(上)』買ったところだというのに。
前段落のリンク先で作品を見られるので、未見の人は先に見ておくと想像しやすいと思う。あと、ここまでで、「ピクトリアリズムも知らないのか」と思った人には、ここから先は退屈なはず。
その疑問は「なぜわざわざ西洋絵画調にするのか」という疑問。もう少し精緻に問いを立て直すと、「写真的ではなくあえて西洋絵画的にされた写真が、なぜ過去から現在に至るまで制作されていて、しかも過去のも現在のも今なお展示対象として評価されているのか」という疑問。
とっかかりをくれたのは、『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』(以降、『カルティエ=ブレッソン』)。主題とはズレるけれど(主題についても多くのものを与えてくれたので、また別に書くつもり)、写真史における「ストレート写真/ピクトリアリズム写真」というキーワードと、この本の基本姿勢ーー当時の人々の受け止め方を通して写真を見る姿勢がヒントというかほぼ答えだった。
2種類の写真のうち、先に登場するのは「ストレート写真」と呼ばれる写真の方。ただし、これは「固定電話」みたいな呼び方で、19世紀末に流行した「ピクトリアリズム写真」と区別するために事後的に付けられた呼称。ピクトリアリズム写真がソフトフォーカス技法の駆使や補筆により西洋絵画調に仕上げられるのに対して、ストレート写真では対象が鮮明に写っている。普通の撮り方と言えば普通の撮り方。この「ストレート」は「ストレートティー」の「ストレート」のニュアンスか。
ピクトリアリズム写真が目指していたのは、写真が美術/芸術として受け入れられるようになること。写真が発明されたのが19世紀に入ってからなので、この気持ちを想像するのは難しくない。今でこそ写真展は珍しくないけれど、『カルティエ=ブレッソン』によると1930年代ニューヨークでは「写真展はほとんど商売にならなかった」そうだし、写真についてのテキストが「(現在の写真史の記述に通じる)骨格を備えた」のは、1937年にMoMAが企画した、写真の歴史百年を総括しようとする展覧会のカタログの、1949年の改訂版からだそう。
この状況を踏まえれば、冒頭の疑問が、当然のように芸術写真が存在すると思っていたから湧いて出たのだとわかる。撮影された1885年は、まさにピクトリアリズムが流行していた時期。TOKYO DIGITAL MUSEUMの解説を読むと、この作品を制作したヘンリー・ピーチ・ロビンソンは、その立役者。1869年の著書『写真における絵画的効果―写真家のための構図法および明暗法の心得』はヨーロッパ各地に影響したとのこと。
写真と見紛うばかりの写実的な絵画や、まるで目の前に実在するかのようなトロンプ=ルイユ(騙し絵)は受け入れるけれど、絵画のような写真は受け入れられないというのはダブルスタンダードだろう。MMDモデルをセルアニメのようにしたりするシェーダがあったり、プラモデルで二次元を再現しようとする方もいるわけだし。それから名画を写真で再現するプロジェクトもあったっけ。
これで《夜明けと日没、1885》に対する疑問は解消された。まだ1つ残っていて、それから1つ増えた。残っているのは、「世界報道写真展2018」の作品に対する疑問。増えたのは、「なぜ数ある絵画の中で、昔も今もフェルメールの絵画風なのか?」という疑問。
でも、きりもいいし、ここまでで結構な分量になったので、いったん筆を置く(キーボードで書いているけれど)。
次回は前者の疑問について書く予定。後者の疑問については、西洋美術史も参照する必要がありそうなので、問いの立て直しから含めて、もう少し調べてから書くつもり(19世紀末に世間的に評価が高かったからという確認可能な仮説を思い浮かべたり、世界報道写真財団がフェルメールの生地オランダだからではと邪推したりしながら、『フェルメールのカメラ―光と空間の謎を解く―光と空間の謎を解く』を読み始めたところ、フェルメールがカメラ・オブスクラ(写真用カメラの前身)を使っていたため写真で再現しやすかったからかもしれないなどと想像が膨らんで楽しい)。
あ、『カルティエ=ブレッソン』の主題に沿った感想はいつ書くんだ、これ。写真を美術界に広く認めさせた功績もあれば、報道写真家としても活動したうえ、写真家の権利と自由を守るためのグループ「マグナム」の設立メンバーでもあるから、いくらでも(巧拙はさておき)書けそうだけれど、それゆえにどう書いたって筆に余るぞ(キーボードで書いているけれど(しつこい))。
ところで、ここまででの付け焼き刃の知識で現在の視点からピクトリアリズム写真を振り返ると、カメラ・オブスクラを用いて描かれた絵画をそれと知らずに評価している美術界(『フェルメールのカメラ』によるとそれが検討され始めたのは1891年の論文以降で、フェルメールが現在のように評価が最初に見られるのは1866年)に認められるために、ヨーロッパの写真界ではその絵画的な写真作品が制作されていながら、フランスのカルティエ=ブレッソンの作品が1947年にニューヨークのMoMAで個展の形で展示され、1952年の写真集で写真が美術界に広く認められるキッカケとなったように見えていて、複雑な気持ちになる。2008年出版の『フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理』によると、「現在ではむしろ市場価値を取り戻している観すらある」そうだけれど。
『フォト・リテラシー』も再読したいけれど、いつ読むんだろう? 今日、『境界線上のホライゾン XI(上)』買ったところだというのに。