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写真、芸術、報道、メディア・リテラシー (2/N) ルネサンス、オリエンタリズム、グローバリゼーション

前回は、19世紀末にピクトリアリズム(西洋絵画調)写真が流行していて、それらはまだ芸術足り得ると思われていなかった写真が、芸術として受け入れられるようになることを目指していたこと、「イントゥ・ザ・ピクチャーズ」で見た《夜明けと日没、1885》が、ピクトリアリズム(西洋絵画調)写真が代表的なピクトリアリズム写真家による作品だったことを書いた。

今回は、「世界報道写真展2018」の「人々の部 単写真」で3位入賞した、《Earth Kiln》について。この作品と世界報道写真コンテストに対して、否定的な見方をして考えたことを書く。受け入れられない/許せないと思う人もいるかもしれない。そもそも、西洋絵画調に見えないという人もいるか。

落ち着いて考える時間代わりに30行空ける。

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落ち着いて考えても、まだ書いておこうと思っているので続ける。

《Earth Kiln,》を見てまず感じたのは、異国趣味 (エキゾチシズム) 。キャプションを読むと中国中部における伝統的な住居「ヤオトン」に住んでいる兄弟だそうだ。ヤオトンは、「中国の最も初期の住居形式で、その歴史は2000年以上に及ぶ」とある。それがまるで西洋絵画のように仕上げられている。

続いてモヤモヤとした疑問が浮かんでくる。それを『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』(以降、『カルティエ=ブレッソン』)で紹介されていた写真家、レイモン=ドゥパルドンが言葉にしてくれていた。

フォトジャーナリズムとは、いまだに〈西洋〉の自画自賛ーー第三世界や第四世界との対比におけるーーにすぎないのではないか?
出典:『さすらい』[1]

これで済めば簡単だったのだけれど、話はまだ続く。

まず、作品リストの作家国籍を見ると、「中国」とある。世界報道写真財団こそ、西洋(オランダ、アムステルダム)の組織だけれど、この場合「〈西洋〉の自画自賛」にはならない。

それに中国という国で考えると、第三世界(一般的には,欧米先進資本主義諸国 (第一世界) ,社会主義諸国 (第二世界) に対してアジア,アフリカ,ラテンアメリカなどの発展途上国[2])でも第四世界(発展途上国のなかでも特に経済的発展が遅れている諸国のこと[3])でもない。

被写体を見ても、貧困に陥っているようにも見えない(あるいは撮られていない)。笑顔を浮かべる2人の視線の先には、ノートパソコン。足元には毛並みの整ったダックスフンド(?)までいる。

というわけで、自分の見方が穿ち過ぎなだけであって、異国情緒に感じたスノッブさが気に入らなかったことを、正当化したかっただけだった。

そうかもしれない。でも、穿ちがちなので、さらに穿ってみる。穿って、見る。ポイントは、この写真の日常性あるいは無害さ。

撮影場所と製作者の国籍の一致という異国情緒の指摘し辛さ。2000年以上もの伝統がある住居形式の歴史的価値。そこに住むのが未婚の兄弟というジェンダー問題の入り込む余地の狭さ。彼らが顔に浮かべるのは明るい笑顔で、視線の先にはグローバル経済の浸透を象徴するかのようなノートパソコン。画面に映っているのは中国映画だろうか。足元には、食べるものではなくて愛でるものとしての犬。西洋絵画ーーもっと言えば、オランダの画家フェルメールのような構図および仕上げ。

報道写真と思えないほど、ほとんど無害、である。この無害さたるや、ヒッチハイクガイドに載っていても驚かないほどで、まるで絵に描いたようだ(比喩が比喩として機能していない)。

これが報道写真として評価されているということはどういうことか? いくつか可能性を考えてみる。と言っても、『カルティエ=ブレッソン』、『フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理』(以降、『フォト・リテラシー』を脇に置いて、そこでの議論を適用してみるだけなのだけれど。思いつく可能性は3つ。希望的観測に近いものから邪推へとグラデーションしていく。

1. 回帰

ルネサンスとか古典主義とか新古典主義とか、古い酒を新しい革袋に入れるのが繰り返されるのは、世の常。2008年出版の『フォト・リテラシー』によると「現在ではむしろ市場価値を取り戻している観すらある」そうなので、また流行っているのかもしれない。ただ、報道写真という枠組みでそれをやるか、という気はする。

2. オリエンタリズムのグローバリゼーション

ヨーロッパ的な物の見方がヨーロッパの外にもどんどん広がっていて、そこにオリエタンタリズムが含まれているのではないか。という可能性。オリエンタリズムについては、下記を参照。〈主体〉と〈他者〉の線引きが地理的なものではなくて、思想的なものになっていると考えれば、オリエンタリズムともとれるような気がする。この方向性は、グローバリゼーション批判の主張を探せば、もっとずっと精緻な議論が見つかりそう。
サイードに拠ればオリエンタリズムとは「近代世界の覇者である西欧が、征服の対象である一つの世界を認識し、表象する行為を通して、自らと異なるもの、〈他者〉として定立し、その〈他者〉との対比によって自らを〈主体〉ーー征服し、認識し、表象する能力の独占者ーーとして定立することを可能ならしめる(完全に意識化されていないが、イデオロギー的に機能する)言説(ディスクール)」である。
出典:『フォト・リテラシー―報道写真と読む倫理』
視点をこれを選んだ側に置くと、異国趣味 (エキゾチシズム) の匂いがしないでもない。ヨーロッパの写真家ではなくて、中国の写真家の作品だから脱臭されているけれど、世界報道写真財団があるオランダはフェルメールの生地だし。ただ、思考を巡らせるにも要素に対する理解が浅過ぎるので、ここで留め置く。

3.『ロシア紀行』問題再び

『カルティエ=ブレッソン』で、『ロシア寄稿』という本が紹介されている。アメリカの小説家ジョン・スタインベックと写真家ロバート・キャパが、冷戦の最初期にソビエト連合に渡って見聞きしたものをまとめた旅行記。本書に対する、こんな調査結果が参照されている。
アレックス・カーショウはその特筆すべきキャパ伝『血とシャンパーニュ――ロバート・キャパの生涯と時代』の中で、初めてソ連に残された資料の調査を進め、二人のソ連滞在中に二人の案内悪の日記や報告書をもとに、二人がウクライナで目にすべきものがソ連に依って明確に計算されていたことを明らかにしている。
出典:『カルティエ=ブレッソン 二十世紀写真の言説空間』
平たくいうと審査員が見たそうなものをわかりやすいスタイルで表現したのでは、という話。検証しようがないけれどのでイチャモンと言えばそのとおりなのだし、わざわざそこまでするかという気もする。



以上。可能性について考えたけれど、これ以上(「以下」の方が適当か)に深掘りするには何かも足りないので、ここまでにする。

次回は、なぜどちらもフェルメールっぽいのか? という疑問についての予定。なお今現在、前回を書いた時点から、『フェルメールのカメラ―光と空間の謎を解く』が進んでない。『境界線上のホライゾン XI(上)』おもしろいなあ(ちなみに1000ページ以上ある物理的にヘビィなライトノベル)。

[1] 『カルティエ=ブレッソン』では『彷徨』としている。出版された2016年の時点では、底本 ”ERRANCE” は未邦訳だったが、翌年『さすらい』というタイトルで邦訳が出版されていたので、訳文はこちらから。なお、絶賛積読中。
[2] ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 > 第三世界
[3] ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 > 後発発展途上国

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