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技・芸・術 - アート・オブ・デザイン

Netflixドキュメンタリー『アート・オブ・デザイン』を一通り(1シーズン8エピソード)見た。原題をそのままカタカナにしたようなタイトルだけれど、原題は "Abstract"。見終わった今は象徴的だと思うけれど、見る前だったら抽象的過ぎて見ようとは思わなかっただろう。よい翻訳。

内容は、様々な分野のデザイナーの紹介。次の8エピソードで構成されている。形式は「名前:分野または職業」。

  1. クリストフ・ニーマン:イラストレーション
  2. ティンカー・ハットフィールド:フットウエアデザイン
  3. エス・デヴリン:舞台デザイナー
  4. ビャルケ・インゲルス:建築家
  5. ラルフ・ジル:自動車デザイナー
  6. ポーラ・シェア:グラフィックデザイナー
  7. プラトン:フォトグラフィー
  8. イルス・クロフォード:インテリアデザイン
各回の感想を簡単に。


イラストレータのクリストフ・ニーマンさんの回が、「デザイン」と聞いて最初に浮かぶイメージに一番近かった。ここでいうイラストは、メディアの一部として使われる種類のもの。代表的な仕事として、雑誌”The New Yorker” が取り上げられる。それから、個人プロジェクトのモノを一部に取り込んだイラストも紹介される。ユーモアがあってにんまりとさせてくれる。好みだったので、Instagramアカウントをフォロー中。


ティンカー・ハットフィールドさんはナイキのデザイナ。エア・ジョーダンでバッシュ好きには有名な模様。バッシュとしての機能向上はもちろん、試合中に見映えするようにして、さらにマイケル・ジョーダン選手の物語も織り込むという隙のなさ。あるいはバランス感覚。『バック・トゥ・ザ・フューチャー 2』に出てきた、紐が自動調整されるあの靴も話題に挙がる。ナイキはアプリを出したりしているけれど、靴と人間のインタラクションについて、この時から連綿と研究し続けていたということか。


エス・デブリンさんは舞台デザイナー。舞台演出を考える人みたいなイメージ。キッカケはどのバンドのライブも似たようだったことにウンザリしたからなそうな。言われてみれば自分の中にもテンプレートがある。真ん中にボーカル。両サイドにギターとベース。後ろにドラム。で、背後にはバンド名のロゴ。ステージって幕=平面のイメージが強いけれど、立体的なところと技術を選んでいないところが印象的だった。


建築家のビャルケ・インゲルスさんの建物は、ものを重ねるところが特徴的に見えた。ボートデッキを2層にして上を広場として使えるようにしたり、同じコンポーネントを積み上げたり、発電所の屋上をスキー場にしたり。最後の公共インフラと娯楽施設の組み合わせがおもしろい。ゴミ処理場なんかあちこちにあるし、なんかを兼ねたりできないのかな(しているけれど知らないだけか? あとで調べてみよう)。


自動車デザイナーのラルフ・ジルさんの話はあまり入ってこず。そもそも自動車への興味という受け皿がないのでやむなし。


グラフィック・デザイナーのポーラ・シェアさんはポスター制作が中心。タイポグラフィーを活用したデザインの草分け。これで90年代のグラフィックデザインについて知りたくなって、『20世紀のデザイン:グラフィックスタイルとタイポグラフィの100年史』を読んでみた次第。「一番難しい仕事はデザインではなく顧客を納得させることよ」というセリフが印象的。ビジネスなのでまず発注者を納得させないと、世に出せない。当たり前だけれど、交渉プロセスは見えないから、賞賛も批判もプロダクトに向きがち。これに抗って、たまに目の前のモノの来歴を思い描いてみると、同情的な気持ちが湧いてくる。ソフトウェアのデザインとよく似ているからか。


プラトンさんのポートレイト写真は、この回を見る前から気づかないうちに静かに深い印象を残していた。モノトーンで陰影が濃いポートレイトに見覚えがあったのは、どこかで視界に入っただけの『TIME』表紙を、見るともなく見ていたからだろう、多分。この回はいわゆる「デザイン」よりはかなり遠くに来ていて、「技芸」としての「アート」ではなくて「芸術」に近いと思う。原題が”Abstract”なのは、ここまでスコープを広げているからか。


最後のイルス・クロフォードさんはインテリアの話。本人が「誰でもできると思われている」というような話をしていた。ご多分に漏れず、自分も専門職があるとは思っていなかった。使う人がめいめいに飾るものだとばかり。著書もおもしろそうなので、探してみようかな。邦訳があるとよいのだけれど(あったけれど絶版だった)。

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